三年越し五度目のアクセスで、やっと到達した「まぼろしの大滝」こと早戸大滝。
初回 :2015年5月12日。最初からアクセスを間違えて引き返す。
2回目:2015年10月20日。かなり手前で車止めされて、歩行時間をロスし、日没時間を考えて引き返す。
3回目:2016年4月12日。寸前まで行ってたはずが、道しるべが不確かなため不安になって引き返す。
4回目:2017年10月10日。増水が激しく、いくつめかの渡河で断念。
5回目:2018年4月14日。ようやく踏破!
恥ずかしながら毎年二度もトライして、昨年まで未踏だった。
「まぼろしの滝」「まぼろしの大滝」「幻の大滝」…いろいろ記述はあるが、調べてみると「幻の大滝」は全国で他にもいろいろあるらしいので、ここでは早戸大滝の別名として一番多用されている「まぼろしの大滝」を用いる。
神奈川県の宮ケ瀬湖に注ぐ早戸川。その河岸を丹沢山北麓まで、渡河を繰り返して遡行していくと、早戸大滝に辿り着くことができる。
なぜ幻の大滝なのかと言うと、川岸のワイルドな道なき道を行かねばならず、到達寸前で横っちょにそれて隠れるような位置に滝があるため、見過ごしやすいこと、滝そのものも前面を巨岩が覆い隠していること、などが一般的な理由らしい。

けれど、実際にアクセスしてみると到達しづらい理由は他にもある。
ひとつは、アクセスの早戸川林道が崖崩れで一部埋まってしまうと、車が通行できないため、かなり手前から時間をかけて延々と歩かねばならないこと。
↓2015年10月、国際マス釣り場のところでの車止め。ここから伝道まで、1時間半くらい歩かねばならない。
↓2017年10月、魚止橋から伝道へ行く途中の崖斜面の崩落地点。雪と一緒に崩れて道を覆っている。

ふたつめは、初夏から初秋にかけてはヒルが大発生するため敬遠したいこと。
みっつめは、数日内に雨が降ると増水するため、膝下までの浅瀬がなくなり、流れも急になり、渡河が困難なこと。
さらによっつめを言うなら、ヒルがおさまった秋口からは日が落ちるのが早くなってくるので、どこかで時間をロスすると、ただでさえワイルドな渡河の帰路が恐ろしくなってくること。
幸運にも最奥部まで車が入れたとすると伝道という場所になるが、たいていはその少し手前の魚止橋を渡ったあたりが車の終点。
(↓魚止橋のすぐ先の車止め。2018年4月)

(↓魚留橋を振り返ったアングル)

魚留橋からは右に大きく折れてから左に回りこむU字ターンの道になるが、人工滝を左に見て正面の雑木林の道を這い上っていくとショートカットになる。今年は入口が瓦礫で埋まってわかりずらくなっていた。

いろんな人のブログにも載ってる、伝道にある地図版。

伝道の正面、いかにもいらっしゃい!という感じで、白いガードレールの橋が正面に見える。

↓ちなみにこちらは昨年2017年10月10日の、ほぼ同じアングルの写真。季節によってずいぶん印象が違う。

が、この橋を渡って河原に出てしまうとNG。いや、早戸川の川岸を遡行していけばいずれは早戸大滝に着く道理なのだが、伝道からいきなりはたぶん困難な箇所が多いのだろう。
初回アクセスでは、恥ずかしながらこの正面突破コースに吸引されたもんだから、まるでわからなくなり、そこそこで引き返した。(でも、ダメな予感がしたときは早めに引き返すのが、我々のいいところ?!)
でも、この正面突破だめだめコースも、しばらくはあちこちに案内のピンク・テープがあったりするもんだから、つい誘われてしまう。たぶん別の場所への案内なのだろう。まあ、それなりにワイルドで面白い場所ではあったし。本当にだめだめなのか、一度覚悟を決めて確かめてみたい気もしないではないが…。
先の地図版のすぐ右後ろを巻いてS字状に急登していく道があり、これが正規ルート。しばらく登ると、右側に緑のフェンスのある道が見えてくる。

フェンスづたいにもうしばらく行くと、左下にえぐれた谷状の小さな沢が見えてくる。ここが最初の渡河地点。
渡ってから、いかにも道が沢に沿って右に折れ曲がっていくように見えるのだが、まもなく足場の不確かな急登となり、道が消失する。(続いているのかもしれないが、ものすごくマイナーな登山道で廃道っぽい) 3回目までは迷わなかったのに、昨年の4回目、なぜだかここに踏み込んで無駄足してしまった。
そこは踏み固められていない腐葉土みたいな地質の上、近年の豪雨などで地盤が崩れやすくなっている。尾根に乗っている子供の背丈くらいの大石に軽く手をかけたら、ぐらり!と揺れたかと思うと、草木をなぎ倒しながら豪快な落石を見た。下に人がいるような場所でなくてよかったと、肝を冷やした。それ以来、石に手をかける時の状況判断は慎重になっている。
つまり、この第一渡河は早戸川ではなく、早戸川に注ぐ伝道沢という渓流である故、渡ったら正面の苔むしたゴロゴロ石を突っ切って伝道沢から離れ、雑木林の道を登っていかなくてはいけない。昨年初めて間違えたのは、豪雨や異常気象などで山道が荒れて表情が変わり、正規ルートが見えづらくなっていたのだろう。

本来の道を登っていくと右にゆるやかに曲がり、またフェンスがあらわれ、しばらく登ると、古びて傾いた廃屋のような小屋がある。年々、見るたびにおんぼろになって、迫力あるお化け小屋になっている。

この廃屋の正面玄関近くに甕だかドラム缶だかを逆さに伏せた台の上に、「雷平15分」という木札が置いてある。いかにも昔からここにあったふうだが、これはインチキだ。ルートを熟知したスーパー健脚がレースのような勢いで走らないかぎり、15分は不可能。普通の健脚で30~40分はかかるだろう。

おそらくどこか別の場所に落下していた案内札を誰かが拾い、何気なくここに置いて帰ってしまったのではないか? …と思いつつ、この札をどうしたらいいものか。個人のハイカーが勝手に動かしてはいけない気がしてしまうところがもどかしい。
廃屋から早戸川の河原に出るまで、素人にはきつかろう恐かろう、…なトラバースが続く。いや、実際、恐いよねえ、この朽ちかけたような橋は。これも年々、お化けっぽく老朽化してる。新しく整備する公共の予算が出ないのかな。最近、どこの山に行っても、そういう傾向は感じる。

こういう橋を渡るときは、落ちないような注意もさることながら、もし万が一、橋ごと崩落しても、崖の斜面に飛び移り、滑落しながらでもへばりつき、持ちこたえられるような心づもりで渡るようにしている。

トラバースの終点で崩れかけた斜面を急降下すると、早戸川に再会する。ここが二番目の渡河地点。早戸川としては最初の渡河となる。わかりやすい写真がないので、昨年の写真を貼ることにする。

昔はここに丸木橋があったらしいが、今は(流されて?)跡かたもない。昨年までは手で伝い歩きするためのロープが張ってあったが、今年はそれもなくなっていた。増水して流れも早いときは、あきらめたほうがいいのだろう。経験上、午前よりも夕方のほうが増水してくるから、行きが困難だったら帰りは不可能に近い。想定しておくように。
渡ってから川原沿いのワイルドな小道を行くと、片側が岩壁の足場の悪い場所をロープで伝い歩きする難所があらわれる。が、年々、岩全体が下方にずれ落ちてきてるのか、それとも川底が持ち上がってきてるのか、今回はさほど高度感からくる脅威を感じなかった。左が今年2018年、右が一昨年2016年4月12日。

そういえば、こんな場所もあった。雷平までは素人にはハードとは言え、案内標示はなんとかかんとか整っている。

このへんまでが変化に富んだ難所の連続。あとは大滝直近までは、何度となく渡河する地点の選択と、川底に足を滑らせないことさえ注意すれば、さほどハードなルートはない。とは言うものの、先に進むほど寂れた岩石ゴロゴロの道なき道になるので、本当にこれでいいのか?と不安になってくるのだ。
伝道から雷平までが45分。そこから先の大滝までが同じく45分くらい。他の人のブログでは、雷平からすぐみたいな印象があるが、途中にこれといった変化がないから記述をはしょっているだけ。けっこう時間はかかると思っていないと挫折する。
雷平の写真も今年のはぱっとしなかったので、一昨年のものをアップする。雷平は早戸川の一番大きな合流地点で、正面から注いでくるのが原小屋沢が中沢と合流してくる沢で、上流に雷滝がある。早戸川の上流は向かって左に折れ曲がっていく。

余裕ある人は雷滝にも寄るが、ともかく御本尊の早戸大滝に行きつくのが先決なので、雷滝までの往復1時間はロスしたくない。
雷滝から先は道らしき道はない。岩石ごろごろのマイ・ワイルド・ロードを行くのみ。

でも、今年は案内のピンクテープが増えていたようで、遠く近くあちこちに視線をやって、ぐるぐる見回しながら行けば、なんとか辿り着ける気がしてくる。
途中、いくつもの名も知れない滝を目にする。ズームで撮っているので写真では雰囲気が出ないが、水量は細くとも落差のある幽玄な滝。、次回以降、時間に余裕があるときは間近まで行ってみるのも面白いかもしれない。
向かって左岸を歩いていて、ロープの垂れた急斜面が現れたら、大滝に近づいてきたと思ってよい。が、このロープはまだ滝へと向かう道ではない。川岸を歩くのが困難なため、プチ・トラバースするためのロープだ。

またしばらく行くと、いくつめの沢の合流点だか(地図上では大きな合流点としてふたつめなのだが、大小いろいろあるためわからなくなる)、正面やや斜めからの流れと、上流が向かって左に隠れるようになっている流れの合流点がある。この左側のすぐ上流に早戸大滝が隠れている。
左向こう岸斜面は、まだ一面の残雪が覆っていて目を奪われる。そこでもう少し前に出て左を振り向くと、かくれんぼしてた大滝がその片鱗をのぞかせる。
ちなみに合流点の反対岸(向かって右岸)には、青地に白のこんな小さなプレートが申し訳程度に樹にくくりつけてある。大滝への曲がり口の標示だ。

合流点手前、向かって左岸急坂に、やはりロープが垂れている。これが大滝の中段の滝壺へ行くためのもの。登る途中で大滝の横顔が垣間見れる。

滝は細かくは5~7段になっているようだが、大きくは2段。落差50mと書いてあるサイトが多いが、何段にもなるすべてを合計したら70~80メートルは優にある。ひょっとしたら100mあるかなあ?

眺めとしては中段の一番大きな滝壺が一番ダイナミック。それ故、危険を冒して、サイドの急峻な細尾根をよじ登り、崩れかけた横這いの崖道をトラバースして、まぼろしの大滝のヴィジュアルを我が脳裏に焼き付けようとする人も多いのだろう。写真ではいまいち危ない雰囲気が出てないが、横這いの崖道のところに、踏み外すとやばい地点がある。

ちなみに、何年か前、70代男性が滑落遭難事故で自力で動けず、一週間後に発見されて救出されたという場所は、ここだろうか? 高齢者の単独行で滑落してしまうのは問題だが、一週間飲まず食わずで生き延びた生命力には敬服する。
そして、中断の滝壺に到達! 久々に鳥船運動などしてみる。祝福するかのように虹が出た。

場合によっては浴びようか(滝行)と思ってたが、このエリア一帯、空気がなんとなくひんやりとして、水も思ったより冷たい。山の上のほうから溶けて流れてくる雪解け水も、まだ混じっているのだろう。夏~秋と違い、パンツが乾くのにも時間がかかるだろうから、やめておいた。
それにしても近くに寺社も見当たらないし、ここが昔の修験者の有名な行場だったという話を、あまり見聞きしないのだが、どうなんだろう? 今だって秘境っぽいのだから、昔は旅の(フリーの?)屈強な行者しか近寄れなかったのかもしれないな。
向かって右側の崖によじ登り、滝の側面から写真を撮る。到達してからさらにこういうアドヴェンチャーをする人は少ないかもしれないが、せっかく接近したからにはいろんなアングルに挑戦したくなる。

サイドの細尾根に戻り、さらに上へと登りつめると、滝の最上部注ぎ口まで覗くことができる。この登山道は大滝新道というらしく、丹沢山までつながっている。そのまま登山する人もいるし、山から下りてきて滝を見て帰る人もいる。滝だけだって難易度が高く、口を酸っぱくして厳重注意を促してるブログも多いのに、山のマニアの何気ないタフネスには恐れ入るばかりだ。

最後にもう一度、大滝の雄姿をどうぞ。

帰りに渡河する時、水中の飛び石伝いに踏んで渡ろうとしたら、けっこう大きな石だったのにぐらりと揺れてひっくり返り、足を踏み外して、四つん這いにバランスを取り直す時、片方の太ももと腕の付け根までどっぷりと濡れそぼった。深く濡れるのを面倒がって、水中とは言え飛び石伝いの渡河は不安定なのでやめたほうがいいと学んだ。川底を歩いたほうがいい。
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わらび座の『ミュージカルKINJIRO! ~本当は面白い二宮金次郎~』を観てきました。
http://www.warabi.jp/kinjiro/ 勤勉、倹約、親に孝、国に忠…みたいな?戦前戦中の修身の教科書の模範みたいなイメージですが(若い世代にはそれすらイメージできないかも)、実は天災や飢饉で荒れた各地を巡って復興に尽力した経営コンサルタントであり、ネゴシエーターであり、スーパーバイザーであった、という話ですね。
一方では金次郎の本業は金貸しだったという話も、別のところで読みました。金貸しと言うと悪徳のイメージがあるから腐してる人もいるようだけど、低金利で貸して、ほとんどの地域復興事業を成功させてるらしいので、なかなかの手腕だったのでしょうね。
で、自分もしっかりちゃっかり儲けていたからこそ、そういう仕事を続けていられたんだろうし、要するに真面目なだけの堅物ではなく、斬新な合理精神と人間観察眼を持った傑物だったのでしょう。なんだか、逆にかなわねえな…という感じ。
ただ、そういういろいんな面を持った人であっただけに、こういうドラマ仕立ての感動ストーリーにするのは、入門編としてはいいけど、なんだかなあ…という気もしないではない。歴史探訪の謎解きスペシャル番組みたいな、多角的な視点で仮説の併記みたいな迫り方のほうが、私としては納得できそう。
シルビオ・ゲゼル信者の私としては、近未来的理想の展望として、金利による商売はなくなっていくべきものだと思っている。
でも、金次郎は損得を度外視して理想を一気に追求する人ではなく、低金利といういわば中庸の現実妥協路線で、win-winの関係を築き上げていったのでしょう。
そういう意味で、やはり涙ちょちょぎれる感動ストーリーと言うよりは、この時代の日本でこれだけ臨機応変に粘り強く、したたかに、うまくやった人がいる、…という、安易に感動しちゃいけませんよ!的な、発掘ストーリーなのだと思ったのでした。
出がけにBSでイタリアのミモザの花に関する番組をやっていて面白かったが、見る暇もなく出てきた。
世界で一番美しい瞬間(とき)▽ミモザ 愛を伝える魔法のとき イタリア ローマ
http://www4.nhk.or.jp/sekatoki/x/2015-04-22/10/17708/ 男性が女性に普段の感謝の意をあらわすため贈ると聞いていたが、イタリア発祥とは知らなかった。また、大戦後に起こった、女性の権利を護るための世界的な社会運動に端を発しているとも。
国際女性デー – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%83%87%E3%83%BCだから、もとは女性の人権活動家が、お互いの覚悟や結束を高め合うために象徴としていた花。それを男性が受け継いでプレゼントするようになった、ということらしい、もともとあったラテン系のロマンチックな色恋の習慣ではないらしいところに、逆に涙が出るほどのロマンがある。
まあ、ネット上でググってみると、男が女に贈る習慣が先とする異説もあって、何とも言えないのだが、番組では時代の生き証人であるイタリアの長老(おばあさん)が語っていたので、それなりの信憑性はあるかなと。
だから、恋人や妻に贈るばかりでなく、おばあちゃんや孫にでも、異性の親友へでも、何でもOKなわけだが、そこはそれ、天性の人のいいラテンすけべえ男だから下心は・・・、とは言え、ハントや告白のためというより、日頃の感謝と愛情の再確認のため、みたいな感じが、とっちゃん坊やな日本やアジアの男にはなかなか真似のできないスマートさだと思う。
そういう点、日本のバレンタインデーは、告白のときめきみたいな名目で、結局はお義理の年中行事、近所付き合いの心の負担になってしまうのは、つまらないよなあ。決して日本発祥の習慣ではないのに、現在さかんな国は日本と韓国くらいらしい。なんだか馬鹿さ加減が似てる二つの国。。
バレンタインも西洋発祥の原型は、男が女に贈ってもいいし、もっと自由なものだったらしい。若い頃、イギリス留学生活の経験がある女性の友達からその話を聞いて、試しに自分から贈ってみたこともあるのだが、ある年、チョコ売り場のバイトの女の子に、無言ではあるが変態を見るようなもんのっすご~~い嫌そうな顔をされて、それ以来やめてしまった。
そういえば昔、私が20代の頃は、バレンタインの時期もチョコがプレゼント用にラッピングして陳列されておらず、レジに持って行って売り子の女の子にラッピングしてもらっていたのだ。
そのラッピング作業がいかにも嫌っそ~~な感じで、なかなか手が進まない。嫌ならさっさと済ませてくれよと言いたかったが、向こうとしては「男のくせにチョコを贈るなんて、なんて女々しい、男の風上にも置けない軟弱野郎か、それともオカマか、ものを知らないタコ野郎か、自分が教えてやりたいけどバイトの身分で出過ぎたこと言えないし…」と、悶々と葛藤していたんだろうねえ。
要するに、たいした伝統でも何でもないのに、こうあるべき!という同調圧力や自縄自縛が強くて、何事においても窮屈でつまらなくしてしまう、どーしようもねえところがある我が国なのさ。
女性に花を贈るイタリアの粋な記念日「ミモザの日」 - エキサイトニュース
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1330493693794.html かわいらしいと言うより、じかに見ると、ハッとするように鮮やかで、華やかで、艶やかな花です。この世に女性がいてくれてありがとう…、という気持ちを、本当に思い起こさせてくれるような。
地元、清瀬の日枝神社・水天宮に伝わる「 清戸の獅子舞」を見てきた。清瀬に住んで16年。こんな祭りをやっていたことを初めて知った。
写真は、舞いが始まる前の水天宮の社殿と夕空。

この神社は二社が同一の境内に並列に祭祀された珍しいスタイルで、向かって右の日枝神社の社の中が獅子舞の一行の控室。獅子舞の行列はここからスタートする。

てっきり鬼かと思った先導の異形の神は「山の神」だそうで。
左手に軍配団扇、右手に五色の幣束(らしき物)を持って、下から上に掲げ、内から外に回すように払う動作が多く、同側の手足を動かすナンバ歩きになっている。相撲の四股かスクワットのように、ゆっくり沈み込んでは伸び上がり。祭りの間中、それを繰り返す。一見、柔らかく単調な動きだが、相当な運動量であり、反復による陶酔境もあるような気がする。
(写真は対角の手足を伸ばしていて、同側のナンバ歩きになっていないように見えるが、同じ地点で足踏みするような時は、変速パターンも入っていたように思う)
山の神に雌獅子の動きが絡んでいき、後から中獅子と雄獅子が参入してくる。

雌獅子だけ角がなく、かろうじて獅子に見えるが、中獅子・雄獅子は顔が長く、後ろに長く角も伸びていて、ほとんど龍だ。

獅子は紅白のエプロンをたなびかせながら舞う。雌獅子は赤、中獅子・雄獅子は白。山の神は赤い面。

三体の獅子は、太鼓を前に抱えて叩きながら練り歩き、舞い踊る。

全龍寺は曹洞宗の寺なので、道元禅師ゆかりの一葉観音の像が境内にあった。永平寺の一葉観音像のほうがモダンで、こっちのほうがクラシカルな感じ。
「永平寺一葉観音、」の検索結果 - Yahoo!検索(画像)http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA%E4%B8%80%E8%91%89%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E3%80%81 一葉観音に見守られる獅子舞い。

再び水天宮・日枝神社に戻り、今度は水天宮の参道で舞い納めとなる。
四神(神獣?)が舞う前に、棒使いにより舞場が清められるそうだ。ナントカ流の棒術かと思ったら、儀式的なものらしく、ほんの一瞬で終わってしまう。

山の神以外は、長い黒髪を後ろに流しているところが、妙にプリミティブで艶めかしい。山の神は頭頂部に河童の皿みたいなものが見えるが、やはり河童の化身という言い伝えがあるらしい。

デジカメの「HDRアート」というので撮った、祭りの絵画的風景。

我々に馴染みの獅子舞のイメージは、大陸ルーツの神楽獅子であり、すっぽり身体ごと緑の布を被って手で獅子の頭や口を動かすものだった。
▽「獅子舞、」の検索結果 - Yahoo!検索(画像)http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%8D%85%E5%AD%90%E8%88%9E%E3%80%81
▽獅子舞起源。http://www.geocities.jp/czb17000/sisimai-kigenn.html 清戸の獅子舞はそうしたポピュラーなスタイルとはかなり印象が違うが、こうしてみると、こちらのほうがナマハゲとか能とか田楽・猿楽などの、日本古来のプリミティブな要素を感じさせる。戦国期に城の守護の祭りとして取り入れられたものが、清戸に伝わったそうだが、それ以前からのルーツが何なのか。じわじわと興味が湧いてくる。
それにしても何百年もの間、こんなマイナーな獅子舞をどうやって伝承してきたのだろう。
雌雄の獅子がいて、中獅子というのもいるあたりが、何とも宗教哲学的、または神学的に面白い。「山の神」も民俗的には女神を意味することが多いから、女2対男1対中性1ということになる。女性性と男性性のバランスは、本来これくらいが良かったのではないだろうか。
しかも、女神が先導して露払いし、競合して道を切り開き、男神と中性神がしんがりを支え固める、…という、ある意味、官製『記紀』神話とは真逆の世界観が、古来の日本ではなかったのか? 国産みも岩屋戸開きも、女性性の自力自助が先導で、男性性はそれをしっかり見守りサポートする。いや、洋の東西を問わず、古代の基本形はこれだったはず。
▽清瀬市公式ホームページ - 清戸の獅子舞http://www.city.kiyose.lg.jp/hp/page000001100/hpg000001086.htm▽御社宝・文化財 - 日枝神社 水天宮http://hiejinja.jp/modules/shoukai/index.php?content_id=3▽LionDance 清瀬市 清戸の獅子舞 平成23年7月 – YouTube http://www.youtube.com/watch?v=nEcWD_gq3yc
(前ふり)
なるほどねえ。ありそうで見なかったキャッチコピー。教習所のです。

(レンズが壊れた携帯で撮った画像なので、夢見るようにぼやけてます)
ちなみに検索かけてみたら、BlogのタイトルやTwitterのつぶやきでは、類似のものやそのまんまのものがけっこうありました。なんつうか、夢のあるコピーだよね。年配者では思いつきにくいかな。
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世界25か国のLet it Go。声質まで似ていることに驚くが、松たか子の日本語が出てくるとドキッとするのは、やはり私が日本人だからか?
Disney's Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence
http://www.youtube.com/watch?v=OC83NA5tAGE
【動画】「アナと雪の女王」主題歌 松たか子の歌が素晴らしいと話題に 世界のネットユーザーからも称賛の声http://kanasoku.info/articles/42620.html#Ogsl7yg.twitter_tweet_box_count松たか子の歌声を世界が大絶賛!! 映画「アナと雪の女王」 - NAVER まとめhttp://matome.naver.jp/odai/2139453521470617001引用)
評価 第86回アカデミー賞において『風立ちぬ』で本作とアカデミー長編アニメ映画賞を争ったスタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫は、宮崎駿が1957年のロシア版アニメ映画『雪の女王』を見て強い関心を持っていたエピソードを明かしつつ、
本作について、原作を大幅に変えながらもその精神である自己犠牲のテーマを変えておらず、なおかつ原作どおりに2人のヒロインを「男の子」の手を借りずに描き、「感心したのと同時に、今の時代を表している作品になっている」と述べた。……………………………
6月11日
なんだかディズニー・アニメとしてもエポックとなりそうな予感。今の世界が、日本が、求めていた物語。・・・まだ、見てないんっすけどねえ。恋と言われて愛に行きたい作品。
少女よ、大志を抱け。この老人のごとく。
↑たまたま『歴史秘話ヒストリア』でクラーク博士やってたので、ついつぶやいてしもた。
6月13日
『アナと雪の女王』見てきました。予想通り「恋と言われ、愛に行く」ような映画でした。
後で調べたところ、アンデルセンの原作とはまるで違う創作ストーリーなんですね。ディズニーが宮崎アニメの(テーマの)影響を受けている、という噂も読みましたが、確かにそういう部分も感じられます。
とは言え、悲しくも美しい(美しくも悲しい、ではなく)、しかも強い(はかない、ではない)アンデルセン童話の基調も受け継いではいます。
いろんなことを感じ、考えさせられますが、ディズニー的なものと宮崎アニメ的なものと、テーマがクロスオーバーし共鳴している時代性に、一番感動したかな。
男女のラブストーリーがメインのお伽噺ではなくて、女性開放のテーマですよね。それも表面的な社会進出とか、そういうわざとらしいものではなく、内面の根本的なものですよね。それなくして、いくら社会進出したって、世界はフローズンしたままで、ちっとも変わらないんだよね。
それを老若男女が楽しめるディズニーアニメらしく、さりげなくポジティブに、コンパクトに仕上げたあたりが、さすがだなあという感じですが、反面、さりげなく物語の経緯をはしょりすぎたきらいもあり、わからない人には全然わからない映画でしょう。
日本の企業人間的社畜男子に、これをわかれって言ったって、無理だろなあという感じ。それで離婚騒ぎになるバカバカしさを揶揄するニュースなどもあって、海外ではあきれられてるようだけど、実はそれだけ日本における女性性抑圧と開放の問題は、深刻ということだよね。無自覚だっただけにね。
脱被曝離婚とアナ雪離婚を、同次元で解釈しようとするのは安易すぎる、…と当初は思ったものですが、結論が性急なだけで、案外、根は通低しているような(または当たらずとも遠からずのような)気がしてきました。それだけ日本の男女関係は、お互いの幻を愛してきたのであり、ひとたび真の隠された岩屋戸が開くと、徹底的な幻滅なのかもよ。
もうひとつ、この映画で感じたことは、アナとエルサは二人で一体ということ。これは日本神話のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの物語に通ずる隠しテーマでもあり、二人(両面性)の統合が真の開放=岩屋戸開きにつながるのです。
その統合・開放された女性性を愛することができなくては、真の世界再生はありません。
その先に、真の男性性と真の女性性の統合・開放=岩屋戸開きがあります。
『記紀』のアメノウズメの岩屋戸開きなどは、ダミーとしての広告塔なのであり、もはや過去の終った話であり、世界の延命処置の価値さえありません。
「岩戸へお入りになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸を開くのが嘘を申して、だまして無理に引っ張りだして、この世は勇みたらよいものと、それからは天のうずめの命どのの、嘘が手柄となりて、この世が嘘でつくねた世であるから、神にまことがない故に、人民悪くなるばかり」(大本神諭 明治38年旧4月26日)
「天照皇太神宮様の岩戸開きは、騙した、間違いの岩戸開きざから開いた神々に大きなメグリあるのざぞ」(日月神示 磐戸の巻 第十五帖)
「次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、騙した岩戸からは騙した神がおでましぞと知らしてあろう」(日月神示 五十黙示録 弟十帖)あるいは、有史以降の官製『記紀』神話のアマテラスではなく、それ以前の高次元女神であるククリヒメ(キクリヒメ、シラヤマヒメ)の復活も暗示しているかもしれません。白山比咩は雪の女王のイメージですしね。この場合、アナとエルサは、ククリヒメとイザナミかもしれません。
おそらく霊的世界では連動してると思います。(この世の制作者が意識していなくとも、リンクするイメージが降ろされているということ)
おまけの感想としては、(ネタバレになりますが)アナに近づいた12人の兄がいる末っ子の王子。徹底的なヒールに描かなかったのもよかったかな、という気がします。アナやエルサとは見ている世界が違うけど、ある意味、この世界の犠牲者かな、という視点も必要かと
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【日本語の響きの謎】
日本語に秘められた謎:「NWOvs日本」と「超古代世界語は日本語だった!」 : Kazumoto Iguchi's blog
http://t.co/AYLQYqQl9m原語歌詞が「今のNWO世界統一政府(陰謀の世界征服闇権力)の面々の感情そのもの」で、日本語ヴァージョンがその真逆、…というのは、やや我田引水でこじつけっぽい気もするけど、日本語(の原型?)に何かそういう原初の力があるのかなあ、という?な部分はある。
日本語の発音とか発声が、世界スタンダードから見て異質なので、つなげて聴くと、ぱっと浮き彫りになる効果もあるのかなあ?
日本語やそれに類似の東南アジア系の発音に、ヨーロッパ系をちょっとだけ混ぜたら、やはりそういう効果はあるんじゃないのか?
でも、松たか子さんが個人的に持つピュアでキュートな波動というのも、大きいかもしれない。
アナ吹き替えの神田さやかさんも、思ったよりも相当うまくて、まいりましたぁ!という感じだったけど、こちらはさほど話題になってない。単に主題歌を歌ってないから目立たないだけか。それとも、歌声の発する波動が西洋系セクシーねえちゃんの基本路線に近いから、あんまり珍しくないのではないか?なんてね。
それだけ松たか子の発音・発声のほうが、本来の日本語に近いということか。
歌詞に関しても、日本語訳のほうかさわやか系で透明感があることは確かだね。
物語の必然性からいったら、この歌が歌われる場面では、まだ屈折した暗さ半分、開き直りの解放感半分なのだから、当然、原語のニュアンスのほうが妥当なのだけど、それをもプラスマイナスで帳消しにしてしまうほどの存在感が、松たか子の歌声にあったということかな。
「でもアラビア語を入れてないっていう暴挙にちょっと悲しみを感じてる」という、アメリカ人の個人的良心にも感動した。
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【盗作問題】
『週刊文春』(6月12日発売6月19日号)が、最低につまらない『アナと雪の女王』の皇室関係者の噂話を書いてますが、それよりもこっちのほうが、ネタとしては興味深い。
[【ネタバレ注意】アナと雪の女王は日本アニメ○○の盗作だと話題] - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2139549980269665201?guid=onそれでも今回のディズニー編の切り口はそれなりの価値はあると思いますが、アンデルセン原作ではなく、『聖闘士星矢』のリメイク(リニューアル)とすればよかったのですね。
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【著作権闘争】
ディズニーの著作権闘争も、醜いっちゃあ醜いよね。コングロマリット利権の宿命っちゃあ宿命だけど。感動を呼ぶオリンピックやワールドカップの裏に、常に札束で顔をひっぱたくような世界があるのと似たようなものか。
米国最新IT事情 - ミッキーマウスは誰のもの? 著作権の「寿命」を争う裁判が最高裁で始まる 2002/10/15
http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/ITPro/USIT/20021012/1/April 1, 2007 著作権保護期間は、150年にでも500年にでもできる、ディズニーが存続する限り。-ディズニーCEO語る
http://plaza.rakuten.co.jp/hikali/diary/200704010000/日本マンガ・文化論第15回 アメリカ その5 ハリウッドとディズニーの問題点
http://www.geocities.jp/laugh_man_is/dai15kai.htm第14回 アメリカ その4 ディズニー 苦悩と躍進
http://www.geocities.jp/laugh_man_is/dai14kai.htm(↑ウォルト・ディズニー以後の企業史概要。 )
悪があるうちは「悪を抱き参らせて下されよ」ということも、プロセスの現象として避けられないでしょうね。