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御座石神社、道祖神と世界の共振を夢見る

2008,,22
 前回の続き。2013年4月時点で書いている過去回想日記です。

 御座石神社はⅩ字に交わる交差点の三角地帯に位置するが、正面参道は幹線道路の国道152からではなく県道192の側になる。仕切る瑞垣や塀のようなものはなく、いたって素朴で開放的な空間なので、どこから入ろうとも抵抗感はないのだが、国道の側からいくといきなり社の斜め後ろから失礼する感じになってしまう。↓

          国道側(本殿の斜め後ろ)

 ↓正面鳥居はこちら。

正面鳥居

 すぐ近くに川原があって川岸に駐車場もあるそうだが、気がつかずに、この日は近くのマーケットの駐車場を拝借した。(↓参照)

∇Journey To The End 信濃探訪 御坐石神社と上川
http://travelog-jpn.blogspot.jp/2011/01/blog-post_18.html

 ↓二の鳥居は素朴な丸木でできている。曳いてきた御柱を鳥居に仕立てたもので、黒丸大鳥居と呼ばれるそうだが、必ずしも黒くはない。数え年で7年ごと、6年目(寅・申の年)の御柱祭に合わせて、この黒丸大鳥居も更新されるらしい。

          木の鳥居

 諏訪地方ではありとあらゆる神社に御柱が見られる、というのは、つい最近ネット上で得た知識だが、女神の神社には御柱を立てないとのこと。とは言え、建御名方神の妃神である八坂刀売神を祭神とする下社にも、御柱は屹立している。ここらへんは神社神道に特有の裏がありそうだ。(それについては長くなるので、また前宮の日記あたりで推考しようと思う)

  
 ↓本殿正面。こうして見ると、境内の樹木の多さに気づく。人様のちょっと前のブログではこんなに茂っていないので、成長も早いのだろうか。女神らしい柔らかな雰囲気で、この木陰で休むと、熱い夏でも元気が回復してくる。

本殿正面

 御座石と言うくらいで境内には石が多いが、巨石としての磐座と比べれば小型~中型の、どちらかと言うと可愛らしい石が多い。
 ↓一番大きい石がこれ。穂掛石と言って、もとは農地にあって稲穂を掛けたかららしい。でも、なんでここに持ってきたかは謎。豊穣信仰の御利益と結びつけようとしたのだろうか。

          穂掛石

 ↓説明版に「矢ヶ崎村七石」のことが書いてある。これとは別に「諏訪七石」というのがある。全部巡れば、何か御利益あるのかなあ。(御利益の話ばかりで失礼!)
 しかし諏訪七石と別に矢ヶ崎村七石があるということは、諏訪における矢ヶ崎村の存在感に、何か特殊なものがあったのだろうか。諏訪地方に伝わる原初からの石神信仰に、外地(越の国)から移住してきたヌナカワヒメの一族≒矢ヶ崎氏が、ことさら相性が良かったということだろうか。
 
      IMG_1359穂掛石、説明版

 ↓また七石とは別に七木というのもあったらしい。

∇東方諏訪旅行記2-6:土着神「七つの石と七つの木」 桔梗屋日記(守矢神社記帳所)
http://september.moe-nifty.com/kikyo/2009/01/post-a6ce.html


 ↓拝殿正面、向って左横、木枠と幣束で囲われた、いわくありげな石。

          鹿の足跡の石=御座石?.

 越(高志)の国からヌナカワヒメを乗せてきた鹿の足跡がある、という説明があり、母神がこの石に腰掛けたとも書いてある。
          IMG_1357鹿の足跡、御座石?説明版

 では、これが「御座石」なのか?というと、それについては何も書かかれていない。いろんな人のブログも戸惑っているようだが、要するに御座石については諸説あり定説がないので、説明版も限定をぼかしているということらしい。

 御座石が初見する文献は中世の上社本『物忌令』ですが、所在地は書かれていません。神長本『物忌令』では、神長官が「(本宮)正面の内」としているので“これが本当”としたいのですが、その後の各書は「矢ヶ崎」を挙げているので混沌としています。
(御座石《諏訪七石》 http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/gozaisi.htm より)
 
 そもそも「御座石神社」の名(文字)については、古来から「石」の意味(文字)と限定されたものでもなかったようで、この神社に「御座石という石」があるという先入観も、根拠のない思い込みなのかもしれない。

社名の「御座石」については古来一定の用字がなく、『諏訪大明神画詞』の諸写本に「御沓石宮」「御座居所」「御斎所宮」などとあり、『年内神事次第旧記』には「御最所」、『諏訪神社祭典古式』には「御座石宮」、『諏訪上社物忌令』には「御座石」とある。
(諏訪大社上社 御座石神社 http://www.genbu.net/data/sinano/gozaisi_title.htm より)


 ↓他にもいろいろな石があったが撮りそこねたので、他のかたのブログを参照。(ヌナカワヒメが靴を履き替えたという「御履石」を撮りそこねたのは失敗だった。「御履石」は矢ヶ崎村七石ではないらしく、諏訪七石の「御沓石」ともまた別)

∇風と土の記録 御座石神社で御座います。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-13.html
∇御座石神社「諏訪七石・御座石」《諏訪大社上社散歩道》
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/gozaisi.htm
∇諏訪七石(諏訪に伝わる七つの石から小玉石・児玉石)
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/suwa7isi.htm


 不思議と心ひかれたのが、境内の一角を占拠して無言のハーモニーを奏でていたこの石像群。

道祖神

 中央あたりに双体の道祖神と判別できる像がいくつかあるが、それ以外は観音と見る人もいるし、単に石仏と表記する人もいる。が、私にはどうも仏教の菩薩ではなく古神道の女神に見える。大和朝廷プロデュースの「官制神道アマテラス」以前の、縄文以来の素朴な民俗信仰の女神だ。わずかに神話に名を残す神としては、瀬織津姫とか菊理姫とか。

 実はこれとちょっと似た雰囲気の像を、私は持っている。20歳の時に親が中古の一軒家を買い取り、引っ越してきた時に、玄関脇に半分くらい埋まっていたもので、材質は鉄、鋳型で作ったようなシンプルなものだ。当初は私も観音だと思っていたが、古神道に目覚めてからは女神と思うようになった。
 前の家の持ち主は船の船長で、貿易で世界を巡っていたような人だったらしく、アフリカや南の島の産物らしきものも部屋にたくさん残されていたが、これだけは(たぶん)日本製。しかも土俗的。

          CA5YGG05古代女神?
 
 余談だけど、20~30代前半の私はこの像と不動明王を本尊として、瞑想し祈ってきたのだった。期せずして、古代女神と不動尊(「国常立=ウシトラの金神」説もある)の古神道系修験道に導かれていたのだろうか。それと似た雰囲気の像が、祖先の矢ヶ崎村の神社にあったのも、今思うと不思議だ。


 ところで、ここで女神に囲まれている道祖神とは、そもそもどういう存在だったのだろう。私が女神と見る像も、すべて単体の道祖神と見る人もいる。(ふつう単体の道祖神は男神のイメージだけど) あちこちの路傍に祀られていた道祖神を、道路の整地や宅地整理のため立ち退かせて、この神社に集めてきたのではないかと考える人もいる。

 「道祖神」は、普通「さいの神・道楽神・ 耳の神」などとも呼ばれ、「村はずれや辻」「山道や峠」等、村人たちの意識上の「境」に多く建てられてきていたものです。
(みちべの神石仏たち http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/hidamari/kashiwazaki/maturi/sekibutu/sekibutu.htm より)

道祖神は、日本の民間信仰の一つで集落のはずれや道の辻に立つ石神で、祠形や丸石、男性器(陽石)、女性器(陰石)、男女和合などの形態がある。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神を産み、それが元で死んで黄泉の国へ逝かれたのを、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が会いたさに後を追い醜い死体に驚き逃げ帰る。この時に追いかけてきた伊弉冉尊を防ぐため、黄泉比良坂(よもつひらさか)に大きな石を置いて道を塞いだ。この大石を塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)と言って、塞の神(道祖神)の事である。一般に村境や峠、辻や橋のたもと等で、外部から村に悪疫・悪神が侵入するのを防いでいる。

また一方、天孫降臨の際に出会った天宇受売命(あめのうずめのみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)はこれが縁となって結婚し、そして二人は一緒に道祖神になったと言われる。

(道祖神:でれすけ。 http://yaplog.jp/yagimitinomise/archive/183 より)

 つまり、道祖神のたたずむ「境」「辻」は、あの世とこの世、黄泉の国と現世と天界の境目であり、交点である、ヨモツヒラサカ(黄泉平坂、黄泉比良坂)に原型があったのだ。そこを塞ぐ石=塞坐黄泉戸大神が、道祖神の原型であり、ミシャグチ神の石柱→諏訪の御柱の原型でもあったのではないか。

 整理すると、
①何らかの「境」にあって、外敵や悪疫を塞いで防衛する「塞」の神となる役目。 
②岐路や辻にあって、道案内や縁結びの「導き」「結び」の神となる働き。
 大きく分けて、この二つの反対方向に拮抗する原理があることに気がつく。これはよく考えてみると、西洋神秘思想の根底に流れるグノーシスの、「二元対立から再統合へ」の原理と重なる。グノーシスは哲学的に論じているが、古神道は物語や造形の中に暗示しているのである。

 これは長いことあたためてきた私の謎解きテーマであり、他の場所では時々、試論・暴論を披露してきたのだが、このブログでは初めてだったかもしれない。

 猿田彦は伊弉諾(イザナギ)の荒魂としての分霊であり、天宇受売は伊弉冉(イザナミ)の分霊だったのかもしれない。黄泉平坂で決裂した夫妻両神は、部分的には和解しているのかもしれない。その先の導きとしての象徴=未来イメージが双体道祖神だったのかもしれない。

 そして諏訪のミシャグチ神も、この「塞=結界」と「陰陽=結び」の二大原理を備えていたようだ。今は荒々しい男性原理としての石柱→御柱だけが目立つが、原初的な自然精霊信仰の形態としては、女性原理としての丸石、平石、樹木、水流なども存在していただろう。
 その系譜を継ぐ女神の神社のひとつが、ここ御座石神社であり、たまたま他所から招かれてきた女神が祭祀されたのではないだろうか。(ピンチヒッターやリリーフで繋いでいるということは、まだまだ本命としての根源の女神は封じられているのかな)

 時代考証としては、ミシャグチ神信仰のほうが古いものであり、道祖神信仰が様々な民間信仰と集合して定着していくのはずっと後のこと、というのが学術的な見解だろうけれど、ここではあくまでも霊学的・神界史的に紐解いている。
 この世に道祖神信仰が完成する遥か以前、道祖神の基となる原型は、霊界・神界において“発生”しているのだ。それが現世に投影され、一方で道祖神として像を結び、一方でミシャグチ神として現れ、神話的にはイザナギ&イザナミから猿田彦&天宇受売への展開となり、他国ではグノーシス思想として結実していく、…という仮説なのだ。


 もうひとつ世界的なシンクロとして「辻」の神秘思想を紹介しておくと、ブルースの鬼才、ロバート・ジョンソンで有名になったクロスロード伝説がある。

 十字路に特別の力が潜むと考え,多くの民族はそこに守護神を祭ったり儀式を行ったりしました。特にアフリカから奴隷として渡って来た者が多いアメリカには,アフリカ起源の宗教的儀式が生活の中に取り入られ,十字路を巡るまじないの類も伝えられました。
 魂を悪魔に売る引き換えにバンジョーやギターが上達させるというのもその一つです。

(クロスロード[クリーム=エリック・クラプトン] http://www.eigo21.com/03/pops/z26-1.htm より)

 ここでは魔除けの「塞」の意味が転じて、魔に魂を売るというブラックマジック的な展開に変形しているが、道が交差するスポットに良かれ悪しかれ強力な異界パワーが生じる、という設定は共通している。
 あるいは韓国時代劇などにも時々出てくるが、敵将の首を辻に埋めて通行人に踏ませることで挑発する、あるいは敵の士気をそぐ、封じる、というエゲツナイ呪詛的な行為もあったらしい。

 そして思い出してほしい。この御座石神社も交差点の名前になっているくらいで、辻の一隅にあるのだ。
 さらには、このシリーズを「龍神グランドクロスの上信越」と題したように、日本列島の巨大断層や地下マグマの流れがクロスする危ない聖地が諏訪でもあったのである。

 
 知る人ぞ知る「どぶろく祭り(矢ヶ崎祭り)」について、書き忘れていた。

 IMG_1364どぶろく祭り、説明版

 境内に小さなお蔵があるので、何かと思い近づいてみたら酒蔵だった。祭りに供され、ふるまわれる酒を、ここでつくっているのだろう。神社を守る地域の人達の当番制らしい。

醸造蔵 醸造蔵、近影

 ↓詳しくは、こちらのサイトで。

∇酒文化研究所 -日本と海外の酒めぐり
http://www.sakebunka.co.jp/sakemeguri/sinshu/sinshu01.htm

 前回のコメント欄でも書いたが、母が子供の頃は調布の実家の矢ヶ崎でも酒を造っていたと聞いたことがある。戦後どさくさの時代、酒をつくっていた家庭もある、とはよく聞く話だが、どこの家でもやることではなかったし、母の話ではうっとりするほど旨かったそうだから、何かしら技術の伝承があったのではないかと想像できる。

 酒造りの伝統は、ヌナカワヒメの一族が越の国から持ち込んできたものなのだろうか。一説には、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は越の国の鋳鉄民族の象徴で、重労働の疲れを癒すため、鋳鉄職人は酒が好きだったという話もある。また、秘教的な異説としては、八岐大蛇は母神イザナミの別離の怨念から生まれたモンスターだともいう。いろいろ重層的に交錯してはいるが、ここでも様々な謎の断片がパズルのように組み上がっていく感触がある。


 現在のどぶろく祭りは、現地取材した人のブログなど見ると簡略化されている部分もあるらしいが、はたして祭りの運営に携わる氏子の中心となる人達は、今でも「矢ヶ崎」の姓なのだろうか。

∇「どぶろく祭り」御座石神社例祭
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/doburoku.htm


 ↓最後に、今はこんな祭り(?)の形態もある、という紹介。
 
∇2009年12月25日 茅野御座石神社交差点 za9za9.com
http://www.za9za9.com/topics/2009/1228chinoirumi/index.html

 年末のイルミネーションですね。将来、ハートマークの中に双体道祖神のイルミネーションでも浮かび上がらせて、カップルの聖地になることを夢見ましょうか。
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矢ヶ崎城(鬼場城)を偲ぶ

2008,,22
注:この記事は2013年4月時点で書いている回想日記です。すでに5年前のことですが、記録を残しておこうと思い立ち、記憶に基づいて綴ってみました。


 私の母方、調布の「矢ヶ崎」のルーツである諏訪地方に、かつて矢ヶ崎村があり(調布にも“旧”矢ヶ崎村はある)、その名を冠した矢ヶ崎城(鬼場城)があったこと、氏神がタケミナカタの母神の高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)を祀った御座石神社だったらしいことなど、ネットで見つけて訪ねてみたくなった。

 まず矢ヶ崎城だが、相当マイナーな史跡で、かなり見つけづらいところにある。ところがどうしたわけか、どなたかのサイトを見て、斜面に開発された城山という新興住宅地をそのまま上方へと登っていけばあるものだと早とちりしてしまった。「城山」という地名が、かつての矢ヶ崎城の麓のあたりだから、そう名づけられたと思ったからだ。

     Map城山周辺
     
 念のため、城山の住宅地の住人を2~3人呼び止めて尋ねてみたりもしたが、知っている人はいなかった。それでも斜面に構える住宅地の最上部、奥の空き地に車を停めて、雑木林の中へと分け入る。気軽にアドベンチャーしてしまったのは、ちょうどその直前、地元の子供達が何かの近道として常用していたらしく、ずんずんと入っていく姿を見たからだった。

          城山奥の雑木林1

 ところが、中に入ると電力関係や山の作業の人が通るような道があることはあるのだが、しばらく行くと大きな鉄柱が現れ、またしばらく行くと同じような鉄柱が現れ、似たような風景が延々と続き、ひとたび迷いこむと、もと来た道もわかりづらくなってくる。このような番号付きの札がところどころに立っていて、それだけが目印。

 IMG_1341鉄塔  IMG_1340番号札

 歩き飽きて嫌気がさしてきた頃に、雑木林のエリアを区切る柵があり、その向こうに城の石垣のようなものが見えてきた。喜んで近づいてみると、何の説明もない見晴台のようなものだった。

          柵 

    城壁?

          展望台?
 

 もちろん矢ヶ崎城ではなく、どうやら諏訪氏の本城だった上原城へと続く永明寺山公園の一部だったようだ。地図で見ると、丘陵地帯の東端である矢ヶ崎城址から城山地区後方の尾根続きで、西北方向に永明寺山公園を経て、諏訪氏の上原城址へと連なっている。

     Map茅野周辺広域

 おそらく、その当時、永明寺山公園はまだ建築中だったのだろう。ネットで見ると、今は立派な公園になっている。

∇永明寺山公園(Vol.Ⅰ)(Vol.Ⅱ)(Vol.Ⅲ)蓼科高原ニュース
http://www.alpico.co.jp/tokan-tateshina/news/2012/09/vol_1.html
http://www.alpico.co.jp/tokan-tateshina/news/2012/09/vol_3.html
http://www.alpico.co.jp/tokan-tateshina/news/2012/09/vol_2.html
 
 どうやら見当違いと悟って、もと来た雑木林の山道へもどる。行きには見かけなかった磐座のような巨石を見つけたので、違う道に迷いこんだらしい。

          巨石

 城山までストレートに戻ることができず、違う地点(西のほう)に降りてしまい、地元の子供に聞いて山の裾づたいの林道でバイパスし、やっとの思いで城山地区の下部へとたどり着いた。

 再び城山の住宅地の斜面を登っていく途中で見つけた、天満宮という神社。城山区公民館という建物の近くにある。何が珍しくて写真を撮ったかというと、鳥居のすぐ奥に諏訪大社のような御柱が立っているのだ。諏訪大明神と関係なくとも、このあたりでは御柱なのだろうか。

城山区公民館 天満宮の御柱 


 暑さでバテたこともあり、この後すぐに矢ヶ崎城を探す気力も湧かず、御座石神社に参拝して木陰で一休み。(御座石神社については、回を改めて後述)

 さんざん迷った末、見つけ出した矢ヶ崎城址は、この城山の住宅地の東隣りに位置するかなり狭いエリアの丘陵だった。つまり城山の奥ではなく横という感じ。城山からアクセスできると書いているブログもあるが、当時はわからなかった。

          Map御座石神社交差点2s(補正)

 県道192のビーナスラインと国道152がX字に交わる交差点を御座石神社交差点と言い、この交差点をわずか北北東に通り過ぎた県道沿いに、斜めに登っていく急勾配の階段がある。(↑Map参照) 緑の濃い季節は繁みに隠れてしまって、遠目に発見するのは難しい。今のところ、これが主郭跡への最短アクセス・ルートだが、階段の登り口に標識や案内版らしきものは何もなかった。

IMG_1367矢ヶ崎城址、登り口 矢ヶ崎城址への階段

 階段を登りつめて、雑木林の中にある小さな丘陵地帯に踏み込むんでいくと、中に「鬼場城(矢ヶ崎城)主郭跡」と書かれた人の背丈より低い角柱が立っている。
 記念写真の私の顔が、また何者かがのりうつったような別人のように見える。(霊地や因縁の濃そうな地で撮影すると、よくあること)

IMG_1370矢ヶ崎城、林道 IMG_1373鬼場城(矢ヶ崎城)本廓跡
 
 矢ヶ崎城の別名、というより、矢ヶ崎城が別名で、鬼場城のほうがもとの名だったのかもしれないが、私の中では「鬼」は縄文先住民のキーワードでもあり、矢ヶ崎が「鬼」の民族に通ずるという幻想は魅力的ではあった。あるいは、諏訪大社の上社から見て鬼門の護りに当たっていたとか?(「鬼門の護り」と言うのは霊的な結界として言うので、実際の軍事的拠点としてはあまり聞かない話だが)
 しかし、「鬼場(おにば)」は「贄場(にえば)」の単なるゴロ合わせからきた言い習わしらしい。

[鬼場]の語源はお贄場(にえば)が訛ったもので、諏訪明神にたてまつるお供え物を整えるところという。
鬼場城~城と古戦場~ http://utsu02.fc2web.com/shiro693.html より。

 私などが見ても、少しばかり荒くれたさほど整備されていない山という感じだが、城跡や古戦場のマニアに言わせるとたまらなくそそられるらしい。現代人の過剰な手が加わっていないからこそ、地形が保存されていて、往時を偲ばせるのかもしれない。
 優雅な天守閣がそびえる江戸時代の美術品的な城と言うより、急峻な自然の地形を利用した戦国のワイルドな城だったのだろう。堀切が何重にもめぐらせてあり、ここで敵の襲撃を迎え撃ったということか。

∇鬼場城/城郭図鑑
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/010nagano/060oniba/oniba.html
∇鬼場城 -平八郎軍鑑-
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/17_Nagano/oniba/index.html
∇鬼場城(茅野市) らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-253.html
 
 ここから上原城はあまりに離れているから、「城山」の地名もやはり矢ヶ崎城を意識してのものだったのだろう。実際、どこまでが矢ヶ崎城の範囲だったのか。現在残っている城山地区より東の部分だけだとすると、戦に使われた山城としてはあまりに狭い。城山地区とその後方の尾根も含んで、もうちょっと広い範囲だったと見るのが妥当ではないだろうか。
 それにしても新興住宅地に入居した住民は、そんなことは何も知らない。敗者の歴史と言うものは、そんなものなのだろうか。判官びいきの美談として後世に残る物語も、何かしらその時代を懐柔する側の都合のいいプロパガンダが含まれていたのかもしれない。


 ところで、私の母方先祖の矢ヶ崎は、すでに信玄の父親の信虎の代に武田を嫌い武士を捨て多摩に流れてきた、という文献があったと記憶している。(うろ覚えなので定かではないが) そうすると一方的に武田の侵略と暴虐のようにも思えてしまうが、実態はもうちょっと込み入った事情があったようだ。

 文明十五(1483)年正月八日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰め、のちに高遠へ追放した。これによって惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続した。諏訪頼満は永正十五(1518)年十二月、下社大祝の金刺昌春を攻めて萩倉要害(山吹城カ)を攻め落とし、金刺氏を追放したが、金刺昌春は隣国甲斐の武田信虎を頼った。
∇上原城の歴史 埋もれた古城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Uehara/Rekishi.htmより。

 若き武田晴信が諏訪に向けて軍を発したとき、諏訪頼重は武田軍の侵攻を注進されてもそれを信じようとせず、無為な時間を過ごしてしまいます。そうこうしているうちに一族の中で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う高遠城主・高遠頼継が武田に呼応して杖突峠に陣取り、そのまま峠を下って安国寺周辺に放火します。こうして武田・高遠連合軍の侵攻を確信したときにはすでに手遅れ、上原城では防ぎきれないと見て桑原城に立て籠るのですが、武田の和睦勧告に従ったのち、甲府に幽閉されて結局切腹を余儀なくされます。諏訪氏滅亡の背景には諏訪大社神官どうしの対立感情や頼重と神官たちの信頼関係が揺らいでいたこと、一族の高遠頼継の野望などがあり、晴信はこうした一族間の分裂を巧みに利用した結果でもあります。
∇諏訪と武田・ふたつの名族滅亡物語 上原城 
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Uehara/index.htmより。
 
 諏訪一族間の内紛とは別に、大祝(シャーマンとしての現人神)の諏訪家と神長官(審神としての祭祀長)の守矢家との間にも確執はあったようだ。

大祝は位は神長官より上だと威張っているが、実際は神長官にこき使われていると遺恨に思っていたであろう。酉の祭りなどには一ヶ月前から呼ばれて、神長官の精進屋に入れられ、死なない程度の食事を与えられ、出て来た時はひょろひょろして神様がとりつき易くなっていたようで、まして子供のこと (大祝は五、六歳から十五、六歳まででその後は隠居した)なので、どこかで仕返しをしてやろうという気持ちが強かったと思われる。祭りの中でも、神長官がミシャグジ神を大祝に降ろしたり上げたり、全く木偶のように扱われたのである。意趣はそれだけに止まらない。墓石の神長官に向いた方に不動尊を彫りつけ、睨み殺してやるという勢いである。神長官は塚を造って上に神様を置き、これを防いだということである。今でも大祝近縁の方が、白ミカゲの石碑を神長官に向けて建ててあるのを見ると、その思いが並々ならぬものであったことがわかる。もともと神社は呪詛を防ぐために建てられ始められたといわれるので、こうした行為も肯けるものがある。 いずれにせよ、これは神長官が下位にいるようであるが、事実上は上に立って祭祀を取りしきってきたことを示す有力な証拠である。・・・」と解説する人もいる。
∇信州・小さな旅---心に残る信濃路の旅、 信州1~2泊の小さな旅に出掛けてみませんか--- http://c-trail.jp/etc/suwamaem.htm より。

∇諏訪の古代史を訪ねて(6)神長官家と大祝家の確執 | (株)サンビックSTAFF BLOG
http://sanbic-ltd.co.jp/blog/?p=2657
∇Passage’84 秋(9)(10)守矢神長官家で(1)(2)-gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/messidor29/e/d5417849efc94dfee1fb60464b36cf5c
http://blog.goo.ne.jp/messidor29/e/d0a609f2b3661b45284b21ab63765e56
∇諏訪大社に関する考察 建御名方とは
http://www12.ocn.ne.jp/~libra/toho/tohoessay/kousatu01/kousatu01.html
(「出雲族のタケミナカタはいなかった説」「モレヤ=タケミナカタ説」 全部は賛同しないが、異説として興味深い。)

 また、古代からの自然精霊信仰であるミシャグジ神と、守矢家の祖神である洩矢神も、ストレートにイコールではなかったようだ。

∇ミシヤグチ神、御社宮司社、御射山社、社宮社の一覧
http://kamnavi.jp/jm/mishaguti.htm

 そこに大和から落ちのびてきた物部守屋の話も本当だとしたら、相当な雑居連合の共和制組織だったことになり、運営の難しさもうかがい知れる。
 それらを調べ解説すると長くなるので今回は省略するが、いつの世もどこの国も、民族や血族だけできれいに色分けされ、単細胞に敵味方で対立していたわけではない。決定的な滅びの時には、常に内紛や内乱で蠢き、自滅していく要素が絡んでいるわけだ。

 とは言え、天孫族の支配を嫌い出雲を脱出したタケミナカタ神の行動の原点を考えると、戦国以降においても、当地に残った諏訪一族よりも脱出した一族のほうが正当な“型”を引き継いでいるのではないか、と思えてしまう。
(当ブログの前稿「諏訪の神体山、守屋山に登る/付:守屋神社」 http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-254.html の ootonomikoさんのコメントによると、長野県史に「戦国記から徳川への大変動の中、諏訪一族は関東へ去った」とあり、諏訪の地からの脱出組は矢ヶ崎だけではなかったことがうかがえる。また、矢ヶ崎でも残ったグループはあったのだろう)
 いや、母方を越の国とする出雲族のタケミナカタは、実は諏訪の主祭神ではなく、むしろ客人神だったからこそ、子孫のDNAは諏訪の地に未練を持たなかったのかもしれない。

諏訪の神体山、守屋山に登る/付:守屋神社

2008,,21
 30代後半の頃だったろうか。何年か続けて諏訪四社に初詣でしていたことがある。結婚してから後も、お互いの両親を連れて、詣でたことがあった。
 深夜に発ち、ちょうど夜が明ける直前に、まず前宮に到着する。個人的には本宮の波動が好きなのだが、龍蛇神の原初パワーをもろに感じるのは前宮である。大鳥居の前のかがり火に迎え入れられ、大蛇のようにくねった樹木を見上げて、凍った道で足を滑らせないないよう気をつけながら、奥の拝殿へと登っていく。
 四社の中でも最も古いとされる前宮は、洗練された上品な雰囲気のお宮ではない。殊に新年の夜明け前の空気は、原初のおどろおどろしいような生命力と神聖さが渾然となり、恐いような重厚さが漂っていた。

 なぜ、諏訪にこだわるかと言うと、私の母方、矢ヶ崎の先祖は、天孫に追われて出雲から落ち延びてきた建御名方(タケミナカタ)神を祀る諏訪大社の大祝(おおほおり)の家系だという記録を知ったからだった。
⇒http://weeds.way-nifty.com/eiti_/2005/03/post_1.html 大祝氏のこと 古の叡智
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B0%8F 諏訪氏 – Wikipedia
⇒http://www.renya.com/suwa/taisya.htm renya.com - 諏訪大社研究記
 大祝というと諏訪氏の姓だけかと思ったら、案外、他の苗字の家系もあったらしい。矢ヶ崎村の者が鎮守としていたのは、タケミナカタの母神、高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)を祀る御座石神社だから、厳密には出雲と言うより、越の国である北陸あたりがルーツだったのかもしれない。神話では、越の国から出雲の大国主に嫁いだのが、高志沼河姫ということになっている。

 さらには建御名方神のミナカタは宗像(ムナカタ)の海神系に通ずるという説や、
⇒http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=97&range=1 千時千一夜──瀬織津姫&円空情報館
阿蘇の龍神と同根であるとする説、
⇒http://www.tohyamago.com/rekisi/chuoukouzousen_suwa/index.html 中央構造線 ~諏訪の血脈、そして龍脈~-長野県最南端の秘湯と秘境の里・信州遠山郷
「伊勢の神風」で有名な伊勢津彦が、やはり天孫に追われて信濃に流れてきているという神話の類型(『伊勢国風土記』)など、太古に遡る諏訪神のルーツには諸説あり謎に満ちている。
⇒http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/isetuhiko1.htm 伊勢津彦と建御名方命との関係
 いずれにせよ『記紀』神話や「正史」からは外されてしまった太古の神々の物語だから、謎が多いのは当然だが、とてつもなく魅力に満ちた謎だ。


 それはさておき、前宮の本殿や本宮の拝殿の向こうには神体山があって、原初的な自然崇拝の姿を残している、というのはよく聞く話だ。しかも前宮の奥の脇道には、昔から入山禁止の立て札があったので、畏れ多い神体山には入れないものと長いこと思いこんでいた。↓
               46988333_4194895969入山禁止、立て札

 実際には、神体山の守屋山があるのは、前宮からの直線距離にして4~5キロは先になる。一般的な登山口に辿り着くだけでも、車道を曲がりくねりながら、その倍以上の距離はかかるだろう。そんな手前の場所に前宮があり、その脇に入山禁止の立て札があるとは、ずいぶんと御丁寧な話である。昔は守屋山だけではなく、このへんの山並み全体が神域だったのだろうか。

 登山口は何箇所かあるが、麓の152号沿いの守屋神社の脇から入る道は、やはり入山禁止の札が設置されていた。↓
               46988333_835963504守屋神社脇、入山禁止

 しかし、一般的な杖突峠からの道には大駐車場が設営されているくらいだから、決して一般の登山客を拒否しているわけでもなさそうだ。
 守屋山を守ってきたのは、諏訪神タケミナカタ以前の土着神であるミシャグチ神を祀ってきた洩矢の一族と聞く。後にタケミナカタ系に表の政権を譲った先住民としては、裏の祭祀を司る者としての秘密主義やマイナー意識が強かったのかもしれない。そのへんが守屋山の一般公開に関して、いまだにチグハグな政策になっているのではないだろうか?

 我々は様子がよくわからなくて、登り口を定めるまで車でうろうろしてしまったが、結局、立石コースというのを往復することになった。磐座好きの我々には、結果オーライではあった。

     moriyasan-rout.jpg
(↑http://www.janis.or.jp/users/yoichi-k/moriyasan.html 守屋山 ルートマップより)

 ↓ここが登り口。
               46988333_4201931607立石コース登山口2

               46988333_1922141026立石コース登山口

 ↓だいぶ前に廃れてしまったと思われる「リゾート清流の森」の看板が現れる。こんなところに旅館か別荘があった時代もあるのだろうか。
               46988333_2485740824清流の森

 ↓「陰石」と札に書いてある縦に亀裂の入った巨岩。女陰の意味だろうか。
     46988333_1411613632陰石

 ↓見晴らしのいい地点にある、印象的な立石。坊主岩とも言う。
              46988333_2677879951立石

              IMG_1255.jpg

 ↓深緑の中に、険しく切り立った岩壁。別世界の景観に圧倒される。
46988333_1165994157岩壁

 ↓岩巡りコースの案内札。
               46988333_969793894岩巡りコース札

 ↓平成のビーナスと名付けられた岩・・・、かと思ったら、樹のほうらしい。瘤がおっぱいに見える?
                    46988333_2258114936平成のビーナス

 ↓親子岩。家族的な雰囲気はわかるが、どれが親岩でどれが子岩か?
               46988333_3351568901親子岩

 ↓屏風岩。これも巨大で圧倒される。戦艦の横っ腹のようにも見える。
46988333_3007407534屏風岩

 ↓鬼神が住んでいたという伝説の鬼ケ城。
          46988333_4008439408鬼ケ城
 
 ↓さらに枯れ枝の道を登っていくと、
                    46988333_3748016181枯れ枝の道

 ↓素晴らしい展望の開けた、東峰頂上へ。
 このあたりは列島を南北に縦断するフォッサマグナと、東西に走る中央構造線が十文字にクロスする交点であり、恐ろしいほどの地学的スピリチュアル・パワーを秘めているのではないか、という考察がある。その中央部で全体を見晴らせるのが、この守屋山らしいのだ。日本の中心地はどこかというのは諸説あるが、ここも隠れたるスポットとして加えていいだろう。
⇒http://www.tohyamago.com/rekisi/chuoukouzousen_suwa/index.html 中央構造線 ~諏訪の血脈、そして龍脈~-長野県最南端の秘湯と秘境の里・信州遠山郷
               46988333_1853355161東峰頂上2

 ↓この日は青空と白雲の祝福が凄かった。『千の風になって』でも歌いますか。
46988333_3648960375東峰頂上

 ↓この東峰の一画に祀ってあるのが、守屋神社の奥宮。石の祠でできた小さなお宮だが、麓の神社の奥宮である。いたずらされないためにか、朱塗りの鉄柵で覆ってあるが、なんだか封じられているようでイマイチだった。
46988333_3991056190守屋神社奥宮2 46988333_2108274458守屋神社奥宮1

 ↓岩陰の小さな碑の裏側に、「祭神 物部守屋大連大神」と刻んである。平成十三年とあるから、新しいが・・・。
                    46988333_1563944576物部守屋の碑

 そもそも物部守屋と諏訪の神体山の守屋山とが、直通で関係しているという認識が私にはなかったので、ちょっと面食らった。崇仏と廃仏の政争で蘇我氏に破れた物部守屋は、飛鳥時代の人。
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E5%AE%88%E5%B1%8B 物部守屋 - Wikipedia
⇒http://n.ashitane.net/%E7%89%A9%E9%83%A8%E5%AE%88%E5%B1%8B 物部守屋の年表 あしたね年表
 その子孫がこの地に流れてきたという伝承もあるらしいが、ミシャグチ神信仰はそれより遥かに古いはず。出雲から落ち延びてきたタケミナカタの話が、すでに神話時代。ミシャグチ神はそれより以前に、この地に勢力をはっていたのだから。
 が、そもそも、大和の物部氏のルーツのひとつが、こちら信州にあったのだとすれば、先祖の地に出戻ってきたと解釈できないことはない。いや、そう解釈しないことには、物部守屋の子孫がこの地で古株の顔をして居座ること自体、怪奇現象になってしまう。

 ↓東峯からしばらくダウンアップすると、西峰に着く。実質的な頂上(1650m)はここになるらしい。ここも見晴らしはいいが、雄大な眺めでは東峰のほうだろうか。
               46988333_3645225536西峰頂上

 ↓そして下山。行きには見過ごした浅間の滝。この日は水が枯れていたが、人のブログを見ると虹がかかることもあるらしい。
               46988333_3239472259浅間の滝


 ↓下山してから、麓の守矢神社へ。
               46988333_2551696615守屋神社

                    46988333_1204958712守屋神社、鳥居

 ↓鳥居の上部中央に掛けられた額に、やはり「物部守屋神社」の文字が。
                    46988333_3242500360守屋神社、額

 ↓里宮と呼ぶにはあまりにもひっそりとした無人の社だが、何やら厳かな空気を感じさせる参道。やっぱり、物部系の神社は、理屈ではなく心を揺さぶられる。なんだか懐かしくってしょうがない。
          46988333_3079989329参道

 ↓階段を登っていくと、木々の中にぽっかりと開いた空間に、寺のお堂のような社殿が見えてくる。物部らしい斬新なデザイン空間だ。
 46988333_2920878150拝殿へ

 ↓その奥上方に、原始的な切り妻造りのような社が構えている。他ブログによると、これは覆屋で、この中に本殿があったらしい。床下の石室には石棒が埋められていると言うのだが、見そびれた。
⇒http://genjin.cool.ne.jp/sanpo/moriya.htm 守屋神社(物部守屋神社)
⇒http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-172.html 風と土の記録 物部守屋神社?
                   46988333_835511654本殿へ

 ↓さらに斜面を登っていったところに、苔むした小さな石の祠が控えていた。つまり三段構えになっているわけだが、ここまで道なき斜面を這い登ってくる酔狂は、めったにいないだろう。
               46988333_1982544185奥の祠 

 ↓ところが、眼をこらすと、祠の横のほうに古びた小型の墓石のような石塔がある。文字が刻んであるようには見えなかった。
               IMG_1301.jpg

                    46988333_1133250258石柱 

 先住民のミシャグチ神の祭祀は、石棒をシンボル(寄り代?)として祀られていたのだろうか。諏訪の御柱の原型は石塔ヴァージョンもあったのではないか、と考えたくなってくる。東北の金精様(こんせいさま)や唐松神社の玉鉾大神にも、通ずるものがありそうではないか。

 山の斜面を利用した段階的な構造は、どこかで記憶があると思ったが、南河内の磐船大神社にちょっと似ているかもしれない。あそこも本殿の後方の斜面にまでよじ登るふとどき者はめったにいないだろうが、まるで“隠れ”磐座のように、勾玉に似た平石があるのだ。写真を撮った人はめったにいないと思うので、ここで付録サービスしておく。↓(回想日記そのものは、いつになるかわからないので・・・)
               IMG_0763.jpg

 諏訪と守屋山についての謎は尽きない。たとえば、古代ユダヤ民族の信仰との類似性を指摘する声もあるが、それが竜蛇神ミシャグチや物部氏とどうつながるかというと、いまひとつ不透明だと思う。一神教では蛇は神になりえないし、物部氏がユダヤの出自とするのも直感的に違うと思っている。どこかで交流し影響しあっているだろうが、物部は海外ではアジア北方~古朝鮮~高句麗とのつながりが一番濃いはずだ。
 しかし、それは書き始めるときりがないし、参考史料の整理も追いつかないので、いずれかの機会に譲ることにする。前宮の近くにある守矢家が勤めるという神長官守矢史料館にも、いずれ行ってみたい。
⇒http://www.city.chino.lg.jp/kbn/07190000/07190000.html 長野県 茅野市役所/神長官守矢史料館



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Twitterに合わせて、ハンドルネームを「五右衛紋☆Rhapsody」に変更しました。( 旧ネームは「三斗Ra隼人」、Twitterは「五右衛門☆Rhapsody」)


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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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