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“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~

2008,,23
☆シリーズ「国産みの島、淡路」番外編として


 最近、ひょんな拍子から鬼束ちひろの歌声にハマッている。
ロングヒットとなった『月光』が2000年後半からだから、すでに8年の歳月が経っていることになる。ちょっと顔をしかめながら、ややハスキーだが伸びのある歌声で熱唱する『月光』のビデオ・クリップを覚えている方も多いだろう。当時は「悪くないな」という程度で、特に好きでも嫌いでもなかったが、妙に耳に残るというか、それでいてすぐにはメロディーをコピーしづらい歌い回しで、独特の存在感があった。

 その後、彼女に興味を抱いたひとつのきっかけが、彼女の歌や彼女自身を、時たまエンガチョ的に嫌うリアクションの人が居るのを知ってからだった。自分にはどちらかという耳当たりの好い部類なのに、いったいどういう現象なのかと、逆に好奇心の鎌首が持ち上がった。
 次に惹きつけられたのが、2年ほど前、グノーシス思想に関心を持っていろいろネット検索していた時、彼女の『月光』はグノーシスだとの噂が、マニアの間で広がっていることを知った時だった。

 グノーシス思想、またはグノーシス主義とは、非常に広範な意義を含む秘教的・神秘的な認知主義であり、人によって定義も異なってきそうだが、言わば西洋の裏文化・裏宗教であり、異端であり、その基層はアンチ・キリスト教的である。ゾロアスター教から継承したとも見られる善悪・物心二元論を基調とするが、後の思想展開では、分断されたものの再統合をも提唱しているように見受ける。
 ともかく秘教である上、分派や亜流も多そうで、輪郭はよくわからないのだ。ここでは私の理解し、提唱するグノーシスを述べるしかない。
 最大の特徴は、この世は悪の造物主がつくった悪の世界であり、真の至高神ははるか宇宙の彼方にいる。その至高神のかけらを我々は魂の奥に戴いているのだが、悪の造物主のつくった悪の世界や肉体に覆われている故、なかなか輝き出すことができない。神秘的な英知によってのみ、真の神の真の世界にいたることができる、というようなものだ。

 古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。

  I am GOD’CHILD(私は神の子供)
  この腐敗した世界に堕とされた
  How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろというの?)
  こんなもののために生まれたんじゃない

  I am GOD’CHILD(私は神の子供)
  哀しい音は背中に爪跡を付けて
  I can’t hang out this world(この世界を掲げる事などできない)
  こんな思いじゃ
  どこにも居場所なんて無い

          『月光』より抜粋


http://www.youtube.com/watch?v=iyw6-KVmgow&feature=kp

 詞だけ読むと、確かに暗いし、自分勝手で甘いようにも見える。彼女の詞は曲と歌声に乗ることで、昇華されている部分もかなりありそうだ。自分だけがGOD’CHILD(神の子供)と言っているような、選民思想ではないのだ。感性の上で、罠の仕組みに気づいてしまっている者の十字架だろう。
 でも、ちょっと危うい。耐え難い重さに潰れてしまわないだろうかと、心配させる雰囲気を持っている。このビデオ・クリップの頃はまだ清冽なものを漂わせているが、後の映像になると、眼がイッちゃってて鬼気迫るものがある。最近の若いアーティストで、ここまでこの世ならざる危うい雰囲気を漂わせている人も珍しいだろう。
http://jp.youtube.com/watch?v=tLb382OclBk&feature=related
 たぶん、このへんが反射的に彼女を嫌う人達が居る理由だろう。十字架を勝手に引き込んで、見たくもなかった心の血まみれを見せつけられるような気がするのだ。

 彼女の詞には、別れた男の影がつきまとっている。これは彼女個人の体験から湧き出た言葉なのだろうか。アラニス・モリセットや中島みゆきや椎名林檎の詞にあるような、生身の俗臭や反骨というものがなく、どこかシュールで夢幻的で、それが音としては重たくなりすぎない反面、美しくも危うい狂気を感じさせる。

  この腕が伸びて
  枝や茎になり
  あなたを忘れる事で
  天にまで届く

          『螺旋』より

  鼓動を横切る影が
  また誰かの仮面を剥ぎ取ってしまう

  In the night(夜になれば)
  I sit down as if I’m dead(私は死んだように座り込んで)

  爆破して飛び散った
  心の破片が
  そこら中できらきら光っているけど
  いつの間に私は
  こんなに弱くなったのだろう

          『infection』より

  残酷に続いていくこの路で 例えば私が宝石になったら
  その手で炎の中に投げて

  邪魔なモノはすぐにでも消えてしまうの ガラクタで居させて

          『眩暈』より



 何か個人の器を超えた、人類の女の集合的無意識の「別れ」を、実体のない集合イメージとしての「男」への愛憎や愛惜を、降霊するアンテナとなり、依り代となってしまっているような気がしてならない。一言で言うならば、神話的な悲劇性なのだ。苦海に沈められた太母神の、乙女の心と決別できない揺らぎの記憶の、分け御魂のような気がする。

 彼女はコンサートでは舞台の片隅にマリア像を置くとか。また、詞の中に時々出てくるキリスト教的な単語からも、生育環境の中で何がしかそうした背景があるのかもしれない。前世ではヨーロッパが絶対ありそうだ。
 彼女の音楽的バックボーンがアメリカのシンガー・ソングライター達であるにも関わらず、ヤンキーな雰囲気がしないのはそのためだろう。よく聞くと、音楽的には確かにウエスト・コーストの臭いがするのだが、第一印象はむしろ哀愁と陰影のケルト系だろう。(だから、突然、カントリー&ウエスタン調の曲が出てきたりすると、面食らってしまう) 同じアコースティック・ピアノ主体のアレンジとしてみても、最近のアンジェラ・アキなどと比べてみれば、その違いは歴然。彼女のほうが、ちょっぴりバタ臭いアメリカンなシンガー・ソングライターの正当後継者というオーラだ。

 しかし、その欧州の前の古代では、日本の魂だったのではないだろうか。汚れても、荒んでも、どこか重く濁れない。だからその澄んだ心の透き間に、無残な者達の声を受け入れ、抱き込んでしまう。つまり、早い話が古代日本的な霊媒体質なのである。
 黄泉大神のイザナミのチャンネルも配信しているとすると、高天原の男神社会(神界)への不信や反発も出てくる。

  「貴方のようにはなりたくないの」 そしてこの耳を潰したくなる
  「貴方のようには決してならない」 見事な嘘など踏み付けたくなる

  案外何もかもが この手に在りそうな気がしてるのに

  「私ならどうにでもなると」と 手当たり次第放り投げてみる
  この身体が血を噴き出す程 ぶつかれる壁があればいい

          『everything, in my hands』より

  貴方がその醜さに怯えるために全てが鏡であればいいと願った
  小さな小さな足跡たちはいつも傷口ばかりを掻きむしった

  私は遠くへ?
  出来るだけ遠くへ?

  一人だって気付いた瞬間在り余る悲しみは柔らいだ
  泥を塗っては冠を与えたりいつも寝場所なんてなかった

          『Tiger in my Love』より

  有害な正しさをその顔に塗るつもりなら私にも映らずに済む
  燃え盛る祈りの家に残されたあの憂鬱を助けたりせずに済む

          『Castle・imitation』より

  貴方の放り投げた祈りで 私は茨の海さえ歩いている
  正しくなど無くても 無くても 無くても

  在りったけの花で飾って そして崩れ落ちて 何度でも
  正しくなど無くても 無くても 無くても
  響いて 貴方に
  響いて

          『茨の海』より



 中には神話における黄泉比良坂での、イザナミの心象風景そのままのような詞もある。(黄泉の国の穢れた食事をしてしまった故に、黄泉の国の神々の席を離れられなかったというくだり)
⇒黄泉の国の物語 - 通信用語の基礎知識">黄泉の国の物語 - 通信用語の基礎知識

  干からびた笑顔
  細い両腕は
  何度でも毒にまみれながら
  ※
  It pressed me
  It pressed me
  It pressed me(それは私を抑圧し責めたわ)
  Again and again(何度も何度も)
  椅子を蹴り倒し
  席を立てる日を 日を 日を 日を 日を
  願ってた

  痛みを清める
  鮮やかな花吹雪
  忘却の空は晴れない

  ※(繰り返し)
  椅子を蹴り倒し
  席を立てる日を 日を 日を 日を
  ※(繰り返し)
  ボロボロになって
  起き上がれる日を 日を 日を 日を

  犠牲など慣れているわ
  抵抗などできなかった
  血を流す心に気づかないように生きればいい

          『シャイン』より


 冒頭の『月光』と同様、黄泉比良坂での決別を回想するような歌詞もある。(直接的に「坂道」という言葉が使われていること。「そして私は怪獣になった」というフレーズ。ヤマタノオロチはイザナミの変身という説もある)

  全てにおいて 幻覚的で
  私は今日も太陽を沈める
  貴方の事
  舞い上がれない風の事
  思い浮かべて歩く坂道
  (中略)
  そして私は怪獣になった
  もう元には戻れない
  うつむき
  それでも広がる世界に
  泣きながら返事をして
  だから私は逃げ出さなかった
  誰でもない自分から
  渦巻く空が呼んでいるの
  何より大きな声で

          『嵐ヶ丘』より



 しかし、初期の作品には、どこかで相手を憎みきれない柔らかな未練のような歌詞も多い。

  もしも貴方を 憎むことが出来るなら
  こんな浅い海で 溺れる自分に気付くけど
  きっと私は夢中で呼吸をして

  行かないで この想いが痛むのは
  私がまだ崩れ落ちずにここに生きているから
  消えないで こんなに胸を荒らして
  貴方なしじゃ 全て終れば いいのに

          『edge』より

  目の前から私が
  消えてしまったら
  貴方は名を呼び探してくれる?

  この肉体が朽ち果てても
  逃げられなかったら
  貴方は何度でも泣いてくれる?

  正義や現実など今更
  何にもならないって
  気付いて
  狂気を見せてよ

  貴方が並べたどんなに
  悲しい嘘にだって
  今なら
  縋り付けるから

          『call』より



 しっかし、まあ、詞をじっくり読むと、“ド”が付くくらいネクラだね。詞だけ読んでいたら、絶対にこんな女には手を出したくない!と思うかもしれない。何をネタに怨まれるかわからない、みたいな……。でも、素の彼女は、もっとさっぱりした人のような気もするんだよね。
 それにこの程度の暗い言霊は、私がティーンの頃にはそこかしこに満ち溢れていた気がする。こういう暗さに対する免疫や耐性があることが大人のカッコヨサだ、みたいな背伸びもあった。松田聖子が出て商業ベースのハッピーな曲が流行り、タモリが出てネクラなことがダサいような空気が醸造されて、それからこういう曲や詞はめっきり存在感を失っていった。だから、ある意味、懐かしい味もあるのだ。

 でも、この路線でずっと行くとなると、本人は辛いだろうね。2005年頃、活動休止の直後、大量服薬による自殺未遂を経験しているというから、やっぱりマズイよ。
 今年9月26日の公演も、極度の疲労による体調不良のため中止になったという。最近の『蛍-movie edit-』のビデオクリップなど見ると、美しいけど、まるで幽界に半分行っちゃってるみたいに影が薄い。人相も変わっちゃって、まるで死闘の後のお稲荷さんの白狐のよう。

 なぜこんなことを書いたかというと、今、イザナミのカルマが浄化していく最終コーナーだと、私は思っているからなのだ。マイミクのあるく。さん関連の援護射撃で、金毛九尾の邪狐と、迎え撃つ白狐九尾の霊界サーチをやっていたら、ここに寄り道しちゃったんだよね。(このカルマもイザナミから派生したものだ)
 浄化が間に合うかな。アーティストとしてどうこうは別としても、彼女(鬼束ちひろ)にはここを乗り切って、天命を全うして欲しいと思う。切に、そう願う。霊線が繫がると、急にそう思うようになっちゃうものなんだわさ。


 とりあえず、筆をおきます。


the ultimate collectionthe ultimate collection
(2004/12/01)
鬼束ちひろ

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北淡震災記念公園

2008,,07
 5月7日、北淡震災記念公園。
 「野島断層」と呼ばれる、阪神淡路大震災の時の大地の亀裂を記念に残した施設なのだが、その長い断層のほぼ中央あたりに小さな社がある。亀裂に沿った細長~い屋根に覆われた記念館の窓から、社の後姿が見える形となる。
 大震災の時、地面の亀裂がこの社の場所だけは避けるように走ったというので、我々は胸をときめかせて、馳せ参じた。
               社
 上の写真が現在の社だが、元の位置はその10メートルくらい右側だったらしい。記念公園を造る都合で、少し移動したのだろうか。建物の木材はそのまま使ったものと思われる。外見は神社と言うより、納屋のような感じ。昔の田舎によくあるような、農家の私有地に祀られたものだったのだろう。

 車道に面しているので車は走り抜けていくが、地味なせいか人影は少なく閑散としている。我々のようにもの好きな観光客も珍しいのか、近所のおばさんが一人、話しかけてきた。(元の社の位置の話をしてくれたのも、このおばさんだ) なんでもえらく霊験あらたかな神様で、毎日お参りしているのだと言う。娘さんが東京に出て行ってしまって淋しい、などというあけすけな話をしたかと思うと、長く足止めしてしまうと申し訳ないとでもいった空気の読み方で、笑顔でさりげなく引いていく。このへん、淡路の人間に共通のセンスがあるような気がする。

               元地
 記念の碑らしきものも残されている。
神社の名も祭神もわからないが、左側の碑に、庚申だか荒神だか彫りこまれていたように記憶する。

 少し離れたところに平和記念のモニュメントがある。これはミニチュア版で……、
               ピラミッド1

 公園のほうに大きなピラミッドがあった。
               ピラミッド2

 しかし、なんでピラミッドなのか。しかも、なぜ四角錐ではなく三角錐なのか。よくわからないが、本家エジプトのピラミッドを意識して、オリオンの三つ星の位置関係になっているようだ。

 仏教詩人、坂村真民の言葉(正確には真民の母の言葉?)が刻まれた碑を発見。べつに淡路の出身ではなかったと思うけど、実はこの言葉、世界的に出回っていて、あちこちに掲げられているらしい。まあ、相田みつおのインフレよりはいいんじゃないかと思う。
               坂村真民:碑

               念ずれば花ひらく

               念ずれば
               花ひらく

              苦しいとき
              母がいつも口にしていた
              このことばを
              わたしもいつのころからか
              となえるようになった
              そうしてそのたび
              わたしの花がふしぎと
              ひとつひとつ
              ひらいていった

                      坂村真民



 この旅行から帰ってまもなく、茨城や仙台のあたりで大きな地震が頻発したので、ちょっとびっくりだった。


メモリアルとしての伊勢久留麻神社(後編)

2008,,07
                        895067493_41.jpg

895067493_32.jpg 895067493_132.jpg

△「神宮大麻」と呼ばれる、家庭や職場の神棚における「天照皇大神宮」の神札。
伊勢の神宮
家庭のおまつり 神宮大麻をご家庭に
お札・お守り 神宮大麻(じんぐうたいま) より転載。
☆ついでに、
麻声民語(1)神宮大麻ファシズム
のようなへそ曲りな御意見も参考に、バランスをとってください…。


 5月7日
 常隆寺のある伊勢の森の山から下りて、島の東側(大阪湾側)の28号線へ出ると、その国道沿いに伊勢久留麻神社はある。しかし、注意深く車を走らせていたにも係わらず、我々は一回で見つけることができなかった。こんな見晴らしのいい国道を走っているのに、わからないとはどういうわけか。どこか別の場所に遷宮してしまったのか、もしかして、もう廃社になってしまったのではないか、などと勝手な憶測を言いあった。それほど神社の気配というものを感じなかったからだ。
 横道に入って車を停め、あたりを見回し、「念のため、もう一回りしてみよう、あの方角に神社の森らしきものが見えるから」と妻を説得する。裏道から戻って、今来た国道に出て、もう一度ゆっくりと車を走らせる。と、決して小さくはない白い鳥居を発見。走行中の車の視界からは死角になりやすいとは言うものの、なぜ気がつかなかったのだろう。
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 その一の鳥居の横に案内板があり、例の昭和55年のNHK番組「知られざる古代」による、「西の伊勢」の仮説が紹介してある。境内の石碑にも同様の説明があった。

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 敷地はかなり広く、参道横に車が何台か駐車していたが、神社に用があって停めているのでもなさそうだ。基本的に無人の社らしく、神職の方が常駐する社務所も見当たらない。がらんとした風景で、なんだか神様もお留守のような気がした。(だから我々の神社センサーがはたらかなかったのだろう?!)

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 拝殿の中央が内側に凹んでいて、そこに入り込んで礼拝するようになっている。これは富士山北口本宮の浅間神社などと同じスタイル。

 瓦屋根と木造建築はそれなりに由緒が古そうだが、どことなく仏教寺院の建築様式の影響を感じさせる。四国と同様、お遍路さんが盛んな土地柄のせいだろうか。屋根の上に高々と千木が組み合わさるような、一目見て神社だとわかる建築様式が、どうも淡路島には少ない気がする。(伊勢久留麻神社のサイトを見ると、奥の本殿には千木があるが、正面からは見えない)

 祭神は大日孁貴尊。別名、来馬大明神。あるいは、伊勢明神。

⇒伊勢久留麻神社 (淡路市)
 大日孁貴(オオヒルメムチ)とは天照大神の別名だとか、いや卑弥呼のことだとか言われるが、天の「大神」と人間の「巫女」ではずいぶんと存在感が違う。どちらかにしてほしいものだが、私はやはり(太陽神そのものではなく)「日の巫女=卑弥呼」説を採りたい。この時代(弥生期)としては珍しい、シャーマンであると同時に政治的リーダーでもあった、女性カリスマ・リーダーを連合部族の象徴として迎え、その代々(複数)の女首長の霊団を、没後に擬似氏神のようにして祀ったメモリアルが、この伊勢久留麻神社なのだと思う。(後に伊勢神宮から勧請したとは言うものの、かつてのゆかりの地に記念碑的に建てた、というのが私の仮説。)
 そして、その拡大延長として、国家規模の連合体の象徴として祀り上げられたのが、後の伊勢の皇大神宮(内宮)だった。だから、皇大神宮の祭神(通説では天照大神)にとって、本当の経過地としての「元伊勢」ならぬ「元邪馬台国」は、南方渡来系の連合氏族が東遷してくる北九州~淡路あたりなのであり、これに対し、関西圏全般に放射状に点在する、いわゆる「元伊勢」と言い習わされる地は、現在まで続く皇大神宮(内宮)のスピリチュアル・ルーツなのではなく、皇大神宮以前からの「ネイティブ伊勢」なのである。

 NHK水谷説による「知られざる古代」「太陽の道」は、伊勢久留麻神社を持ち出しながら、なぜ北九州(福岡県)の久留米市を連想しなかったのだろう。「皇大神宮の祖神は弥生時代以降の渡来民族の神である」という「国家神道≒⇒神社庁神道」最大のタブーに抵触することを畏れ、寸止め理論にしておいたのだろうか。

 「米が来る」とも読み替えられる、この「久留米」が、アジア南方からの集団稲作農耕文化の本格的伝来と定着を暗示していて、即ちそれが卑弥呼+神武の東遷してきた「太陽へと向かう道=日向の道」だったのではないか。
「久留麻」の「麻」については、古代の列島にもあったらしいが、『魏志倭人伝』にも麻の記述が出てくるので、卑弥呼の邪馬台国が東遷してくる「日向の道」と共に、麻布の文化が伝播していったことも考えられる。(麻の原産が中東だという説もあるので、ユダヤとも関連するか?)

⇒麻 (繊維) - Wikipedia
⇒アサ - Wikipedia
 麻は皇室とも関係が深く、古くから麻の糸や布が献上されていたというし、家庭の神棚の中央に祀る「天照皇大神宮」のお札のことを「神宮大麻」と呼び、(神社庁の指導では)伊勢の皇祖神の依り代とされていることを知る人も多いだろう。(トップ画像参照)
 また「来馬大明神」は、「馬」の文化も「米」や「麻」とセットでやってきたことを暗示しているのかも知れず、これは騎馬民族系の血が濃い神武の系統が合流していたことの証かもしれない。
 さらに、北九州~淡路~伊勢と、常に海辺の地域を拠点としてきたところは、海洋系民族の文化も色濃くミックスされていたのではないか。

 現代日本人は、何かと言うと農耕単一民族にアイデンティティを求め、他の民族は自分らとは違うが故に「外来民族≒侵略者」と決めつけたがるが、これは平安京や江戸時代の閉鎖的文化で醸造された、排他的な同族幻想の「和」である。
 中央集権の頂点が同一氏族の家長であるかのような幻想で洗脳し、決して分権・自立のレジスタンスを芽生えさせないよう、どこまでも“お上”(為政者)にとって都合の良い「和」で懐柔する。名目上は農民が皇族や武士の次に偉いようにおだて上げ、実質的には農耕“奴隷”として集団の労役を搾取する。その偽りのマトリックス(絆)から目覚めていない、彷徨える日本人が、最後のあがきをしているのである。

 大和朝廷の原型ひとつとっても、すでに弥生期(いや縄文末期かな?)から、日本はファジーなミックスド文化なのだ。だからこそ、様々な異文化・異民族にも柔軟に対応して、動乱期を乗り越えてくることができたのではないか。日本人は混合多民族ルーツであることを、もっとおおらかに歌い上げてもいいのではないか。
 これからの怒涛の地球維新の時代、世界の機軸となる役回りとして、本当に必要とされる特質は、しなやかな大和民族の奥底に眠る、むしろ外部や異質なものとの「和」のDNAだろうから。


(つづく)

伊勢久留麻神社は元伊勢に非ず(前)

2008,,07
 (今回、長文のみで写真は次回まわしとなります)


 伊勢久留麻神社という名称には、ちょっとばかりそそられる響きがある。現在の皇大神宮がある伊勢の地以外にも、「伊勢」の名が秘された場所は各地にあり、それらには「元伊勢」と呼ばれる謎めいた古代の残り香が感じられることが多いからだ。
 もっとも、「元伊勢」の解釈も人によってずいぶんと違う。額面通り、※約60年の間に29ヶ所もの遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座するまでの、過去の経過地としての「遺跡」的な視点しか持たない人も多い。一般論や通説としては、こちらのほうが模範解答なんだけどね。
(※出典は同じ『倭姫命世紀』だが、86年間だとか、20ヶ所だとか26ヶ所だとか、引用者によって異説多々。どこを起点とするか、近い場所を別カウントするかしないか、などの相違からだろうか)
⇒丹後元伊勢伝説

 しかし、私のような者にとって、元伊勢は全く違った意味を持ってくる。「元伊勢」ネットワークは、現在の皇大神宮の「伊勢」とはまるで別派の聖地だったのであり、大和朝廷よりも邪馬台国よりもはるか以前からの、縄文以来のネイティブ日ノ本の神々の潜伏する霊場であり、しいて言うならば出雲やアラハバキや東北物部やアイヌなどに近い。つまり、「伊勢」と「元伊勢」は違う!のであり、異文化・異民族・異教のスピリチュアル・ルーツなのだ。
 関西圏の異文化重層構造の深遠を認めたがらない人には、これはいくら説明してもわからない。

 したがって、ある時代から(あくまでも、“ある”時代から)皇祖神とされてきた伊勢内宮のアマテラスが、女神であるか男神であるかなどといった近頃よくある詮索はどうでもいい話なのであり、どちらにせよそれが元伊勢の神=饒速日や瀬織津姫の本流でないことだけが、私の確信なのである。(国の権威が、隠しつつであれ、饒速日や瀬織津姫をちゃんと祀っていたのであれば、日本がこんなにも日和見で付和雷同なくせに幼稚なツッパリ民族になる必然はない。信仰や祭祀とは、単なる暗示効果としての気休めではない。森羅万象の内奥から民族性を規定してくるものなのだ)

 それでは、この淡路の伊勢久留麻神社はどちらだったのかと言うと、現地に立った私の印象としては、やはり「元伊勢」ではなく「(新)伊勢」の系統だったのではないか、というのが率直な感想である。
 小川・水谷説による「太陽の道」を、さらに西へと延長していくと北九州になる。
⇒複数の「太陽の道」 伊弉諾神宮(後)
 弥生時代、この北九州にあった卑弥呼の邪馬台国が、近親関係にある(が別派の)神武の勢力と提携して東征してくる途上、淡路島にも寄った。伊勢久留麻神社の創建は伊勢の皇大神宮よりも後だろうが、その過去の経過地の思い出として、記念碑的に後から建てたのではないだろうか。

 邪馬台国は北九州か畿内大和かという論争があって久しいが、畿内説をとりたがる人達の中には、卑弥呼の王朝が列島に先住する統一王朝の原型であったとしたい願望が見え隠れする。(だから一地方である九州の北端ではなく、本州のほぼ中央であったとしたいのではないか) おそらく、そこには根強い女帝ロマン(裏返せば女帝コンプレックス)と、農耕定住の単一民族への執着がある。しかし、卑弥呼の邪馬台国はそれほど古い時代のものではないし、弥生時代以降の、言うなれば一新興勢力としての外来勢力にすぎない、というのが私の見方である。
 
 そもそも『魏志倭人伝』という名の書物はなく、正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の、(後の時代の)日本における通称である。つまり古代中国の歴史書にオマケ程度に書き添えられた、東夷(東の野蛮人?)についての伝え書きといった、中華思想まる出しの編集である。記した中国人も、どれだけ日本列島に滞在して正確な全体像を把握していたかは疑わしく、聞き伝えのような感じで、最初に上陸した土地の噂話を誇大妄想的にでっちあげてしまった可能性は否めない。
 それをありがたがって自国のアイデンティティにしようとしているのは、舶来ものに弱い戦後日本人のコンプレックスをくすぐられたからだろうか。
⇒魏志倭人伝 – Wikipedia
⇒魏志倭人伝(全文)
⇒魏志倭人伝

 そもそも卑弥呼の一族自体が大陸や半島を経て、列島に入ってきた経緯を持つからこそ、当時の中国(魏や晋)とも密な外交関係があったのであり、「倭人」も列島の定住民などという意味ではなく、当時の大陸東海岸や朝鮮半島や九州沿岸などを渡り歩き、海洋貿易や海賊をやっていた民族の、中国における呼称である。(その後の日本人の数あるルーツの中のひとつとなったことは否定しないが)

 但し、卑弥呼が「鬼道」と呼ばれる巫女の託宣や卜占を旨とする宗教を持っていたことから、そのルーツは大陸北方~高句麗経由のシャーマニズムであった可能性が強い。(この「鬼」のキーワードは、物部神道とも地下水脈で結ばれていて、後の修験道や陰陽道とも近親関係がうかがえる)
 一方、『魏志倭人伝』に色濃く見られる南方海洋系の習俗からすると、この北方系シャーマニズムが南下したものが、当地の海人族や稲作農耕民と交わり、時代を経て習合していったものと考えられる。
 その別派が、『記紀』によって初代天皇とされる神武の勢力である。神武系のほうが元の北方騎馬系の父系社会の風習が強かったが、大まかなルーツを同じくしていたので合流し、力を合わせて東征していった。これが後の大和朝廷の有力部族となる南方海人系の物部氏のルーツである。
 さらに言えば、はるか西方からのユダヤの一派も、これに合流していたかもしれない。ちなみに小川・水谷説の「太陽の道」北緯34度~35度付近を、世界地図に当てはめて中東へとたどっていくと、現在のイスラエルのすぐ北にあるレバノンあたりになる。

 これに対して北方直喩(あるいはムー大陸原産)の物部が、縄文期より、関西以東、関東以北に高度な文化を築いていたが、「東北の野蛮人=蝦夷(エミシ)」などと十把一からげに蔑称され、体制派の「正史」からは完全に抹消され、『記紀』史観には絶対に登場することがない。
 南方海人ミックスの物部⇒弥生以降の大和朝廷を築いた物部、つまり「内物部」だけが物部なのではない。物部の本流は、むしろ東北に先住していた「外物部」である。(ここで言う「内」「外」とは、弥生以降の大和朝廷に対する親和度の分類表現) 「外物部」こそが「元物部」なのであり、この先住系の物部ネットワークを統べていたのが、真の太陽王:饒速日(ニギハヤヒ)であり、真の古代女神:瀬織津姫である。そして、関西圏において、その痕跡を留めている聖地こそが「元伊勢」だったのだ。


 さて、2~3世紀以降に勢力を蓄えた卑弥呼・神武連合の南方経由の習合部族は、東の日が昇る方向へと向かっていったため、「日向(ひゅうが、ひむか)」族と総称されるようになる。日向族の原点は、それより以前の「天孫」瓊瓊杵(ニニギ)だが、それだけこの倭人⇒日向族⇒海人系物部氏の流れも一様ではなく、かなりの時代的振幅をもって、何派にも分かれて上陸⇒東征していったものと思われる。
 また、決して一箇所に定住したのでもなく、現地における勢力争いなどの都合上、九州内部でさえあちこちに遷都していたはずだ。だから、私の邪馬台国≒北九州説も、永続的に北九州に限定したものではなく、上陸後の初代卑弥呼(卑弥呼も個人名ではなく「日の巫女」の称号)の全盛期が北九州だったというだけの話で、その後、各地を移動しながら各派と合流しつつ、最終的には畿内大和へと「日向」したのである。
 
 しかし、その大和には、それ以前の縄文以来からの前大和・元大和の王朝があった。それこそが後に「元伊勢」と呼ばれるスピリチュアル文化圏なのだが、この歴史ロマンは体制側の「正史」からは完全に抹殺され、長い間顧みられることはなかった。

 そこで話は最初にもどるが、その「日向」の道の象徴が、淡路島にも足跡を残す小川・水谷説の「太陽の道」だったのではないか、というのが私の仮説である。
 
 しかし、この日向族の大和王朝も、7世紀の国際的動乱の煽りで完全に後退し、単なるシンボルとして祭祀の中で崇められるだけの、飾り物の神様となっていく。逆説的ではあるが、これが伊勢の皇大神宮が「皇祖」と制定され、いわば国教となっていく分岐点である
 したがって、その後の大和王朝の実権は、南方海人系の「日向」族ではない。どさくさにまぎれて権力を掠め取った、百済経由の藤原不比等による黒幕王朝である。看板だけ、日向系の万世一系であるとして、血統を偽造・粉飾したのである。(政略結婚によって天皇家に食い込んでもいるので、細々と血が繋がっている部分もあるのだが)

 なんとバチ当たりな仮説!と言うかもしれないが、過去、伊勢神宮に参拝した天皇は、近代の明治天皇以前には、7世紀に伊勢神宮崇拝の体制を血道をあげて築き上げた、持統天皇ただ一人という事実! これをどう説明するのだろうか? 本当に伊勢の神が皇祖(天皇家の先祖)であったなら、自分の祖霊・祖神に詣でない子孫のほうが、よほどバチ当たりな話ではないか。
 いや、実態は、祖霊・祖神などではなく、都合よくシンボルとして祀り上げてきただけだからこそ、祟りが怖ろしかったのだ。つまり、藤原黒幕王朝にとっては、皇大神宮もまた出雲大社と同様、祟り鎮め(御機嫌とり)の社だった。その祭祀は、政治的実権を持たないその神(氏族)の子孫の生き残りに間接的に託し、自分らは直接タッチしないのがオカルト保身術となっていく。文字通り、さわらぬ神に祟りなし!である。
 バチを怖れていたのは、藤原黒幕王朝のほうである。ましてや、「日向」族以前の縄文の神々のことなど、口の端にものぼらせたくなかっただろう。


(つづく)


伊勢の森の常隆寺

2008,,07
             天王の森

          八島陵

             崇道神社

 △左:淡路市仁井の「天王の森」(早良親王が当初、埋葬されたとされる場所) 
  淡路国の史跡より
  △中:奈良の崇道天皇八島陵(後に埋葬しなおされた御陵。こちらのほうが有名)
   奈良の陵墓:崇道天皇(早良親王)八嶋陵 その1「とんでもとらべる」より
   △右:京都の崇道神社(早良親王を祭神として祀る。いわゆる御霊神社のはしり)
    崇道神社より


 淡路三山のひとつ、伊勢の森の頂上として知られる常隆寺山(515m)へは、妻の提案で出向くこととなった。
 おおざっぱな方向感覚としては、北淡を東西に横切る「太陽の道」(前々回参照)の途上に、この伊勢の森も位置するとされている。播磨灘(瀬戸内)側から順に並べると、舟木石上、伊勢の森(常隆寺山)、そして大阪湾側の伊勢久留麻神社。……が、実際は北緯34度32分にあるのは舟木石上だけで、狭い島の中でこの三点を結ぶと、どう見ても直線にはならず三角形になってしまう。
 実は、妻も私も、この時点で「太陽の道」のことは全く意識しておらず、気の向くままの道程だった。踏破するつもりならもっと綿密に調べ、気合いをこめて行ったのだが、そこまでの執着はなかったので、ガイドブックまかせのハイキング気分だった。

 5月7日
 舟木石神へ行った翌日、東京へと帰る最後の日の午前中。
 妻が図書館から借りてきたガイドブックでは、この伊勢の森から妙見山へのハイキング・コースを紹介していて、何となく名前に惹かれて行くことにしていた。なだらかなアップダウンの尾根道を片道1時間半くらいとすると、たいしたこともなさそうに思えるが、淡路の直射日光は想像以上にきつい。場所によっては雑草がジャングルのように生い茂る道、もし全行程を踏破していたらバテバテだっただろう。山岳関係のガイドブックというのは、ここ数年の実地踏査をしていない人間が楽観的なことを書いていることも多いので、よほど注意しないといけない。

 常隆寺山へは、車で乗りつけることができる。標識を見落とさずにいけば、幹線道路から脇道へと分岐し、くねくねと曲芸のようなハンドル捌きで登っていくと、そのまま寺の境内へ侵入してしまう。常隆寺というお寺があるから、常隆寺山なのだ。
 登りの脇道に入った時に、コンドルのように大きな羽根を広げたカラスが現れ、我々を先導するように低空飛行したのには驚いた。帰りにも、同じ地点で同じようにカラスが低空飛行したので、ここは何かあるなという気になってくる。(単に近くにカラスの巣があっただけかもしれないが)

 駐車場が見当たらないので、境内で掃除をしていたお寺のお婆ちゃんに訪ねると、「ど~こでもいい、広いから」と淡路の人らしいおおらかさで応えてくれた。
 このお婆ちゃんの話し方が、他の淡路の人と違うことに気がついた。淡路も土佐も基本のイントネーションは関西弁っぽいのだが、この常隆寺のお婆ちゃんは、私の母の実家があった東京の調布あたりの古い言い回しを思い出させて、なんだか懐かしいのだ。つまり、私のお婆ちゃんとか、「猫のおばちゃん」と呼ばれていた伯母などの、自分自身にも語り聞かせるような独特のイントネーションに似ている。
 ちょっと文章では表現不能だが、東京(≒江戸、武蔵野、多摩)に方言がないという先入観は嘘っぱちで、ちょっとばかり“濃い”世界もあるのだ。録音しておかなかったのが残念な気もする。
 妻に気がついたか聞いてみたら、全くわからないとのこと。育ちの中でインプットされたものへの感度とは、それほど微妙なものなのだろうか。
 同じ淡路でも、特定の区域では何か異質の文化が入りこんでいることも考えられる。代々の島の人間なのか、お婆ちゃんに訪ねてみたい衝動にかられたが、耳が遠そうで、話がややこしくなると面倒なのでやめておいた。

(1)常隆寺

 なかなか由緒ある寺らしいが、人口も少なく、里人も足を運びにくそうな山の中、よくこれだけ維持しているものだと感心してしまう。神社などは無人で放置されているところも見受けたので、このへんでは寺のほうが伝統的に根づいているのだろうか。

          (2)御朱印集            
 淡路には何種類もの霊場巡りがあるようだが、その代表的なもの、淡路三十三観音霊場の御朱印集らしきものが、お堂の外壁の上のほうにかかっていた。(ちょっと数が合わないかな?)
⇒淡路三十三観音霊場

(3)常隆寺縁起
 寺の由緒書きを見ると、怨霊の祟り鎮めに半生を費やした桓武天皇の、京の都とのただならぬ因縁が浮かび上がってくる。
 皇位継承紛争にまつわる嫌疑で島流しにされる途上、抗議の絶食をして憤死した早良(さわら)親王の菩提を弔った寺が、どうやらこの常隆寺らしいのだ。その後、陰陽師によって早良親王の祟りを告げられた桓武天皇は、深く悔いて、淡路にある親王の墓に何度も勅使や僧侶を送りこみ、参拝・供養させ、「祟道(すどう)天皇」の尊号まで追贈している。と同時に、陰陽師集団を抱え込み、怨霊対策の平安遷都を開始する。
⇒早良親王の怨念と遷都

 平将門よりも菅原道真よりも以前、怨霊の先駆けとして猛威をふるった、その祟道天皇=早良親王の王墓が、この淡路の伊勢の森付近にあるということなのだ。(王墓は常隆寺とはまた別の場所だが、近くにあるらしい。その後、遺骸は掘り返されて奈良へ運ばれたともいう)
⇒早春の淡路島をゆく 常隆寺・早良親王墓
⇒奈良の陵墓:崇道天皇(早良親王)八嶋陵 その1「とんでもとらべる」

 ということは、このあたりには早良親王を慕う遺族や、祟りを鎮めるための桓武天皇の使いが移住してきて、代々、寺や王墓を守ってきた、ということにならないだろうか。その一族と私の母方の方言が似ているとしたら、突拍子のない話だが。まあ、アンチ天孫権力の「鬼の家系」ではあるので、通じる部分はあったのかもしれない。
 そう言えば、平将門シリーズをやった時、桓武平氏(桓武天皇の子孫の武家)に親近感を持ち始めたのも、このへんと絡んできそうだ。それは桓武天皇と言うよりも、弟の早良親王の遺志が引き寄せ、織り上げた歴史ストーリーなのかもしれない。

 これは正真正銘、ここで初めて知ったことだ。つまり、この日記を書くために調べものをしなければ、気がつかないまま通り過ぎてしまっただろう。
 今、熟読できなくとも後でチェックできるよう、関連サイトをメモしておく。
⇒京都まにあ/早良親王
⇒【よろパラ ~文学歴史の10~ 萬葉人物列伝『早良親王』】
⇒抹殺された早良親王の功績

(4)鳥居  (5)神変大菩薩像 
 本堂内部の左奥に、神変大菩薩(役行者)のえらく古そうな木造が祀ってあり、外からでも拝めるようになっている。(これは望遠で撮ったもの)               
 その本堂の外側、すぐ左奥に石の鳥居があり、曰くありげな上り階段が続いている。寺の境内の、しかもこういう位置に鳥居があるのは、とても珍しい。登ってみたが、奥の院というには少し淋しい、小さな石の祠があるだけだった。そこが伊勢の森の頂上と言うことらしい。
⇒常隆寺山
 それにしても、この一帯を「伊勢の森」と呼ぶようになったのはいつ頃からで、どういういわれなのだろう。そして、この地に早良親王の王墓が引き寄せられたのも、何かの因縁だろうか。

          (6)石碑
         
 境内に並んで立っていた石碑。「淡路巡遷弁財天奉○碑」「大峰山五十○記念碑」と読める。(○のところ、解読不能)
 真言宗の寺だが、弁天や大峰山が出てくるところを見ると、修験道とも縁が深そうだ。ということは、古神道とも地下水脈がつながっていることになり、どことなく反体制の香りがする。そちら側の力をも借りなくては鎮まらないくらい、強力な怨霊パワーを感じさせたのだろう。

(7)トリック・アート
↑これはちょっとばかりイタズラ心がおきて撮ったトリック・アート写真。六地蔵の上に、妖精のように小人化したMy奥さんが立っているように見えないかな? 遠近法のトリック。

 ここに車を停めて妙見山へ登りたいのだと、寺のお婆ちゃんに申し出たら、だったら車で入れるところまで入って、そこから歩いたほうがいいと薦められた。細い道だがすれ違う車などいないから大丈夫、と太鼓判を押す。半信半疑だったが、あまりにも自信たっぷりなので、教えられた道へと車を進めてみた。
 とてもハイキング・コースとは思えない薄暗い廃道のような裏道だったが、なるほどかなりのところまで車で行ける。ここをすべて歩くのは、ちょっと気が滅入るかもしれない。
 だんだん雑草のジャングルの中のような、むさ苦しい狭い道になってきて、大きな鉄塔のところまで来たら、さすがにそれ以上進むのをためらう光景になった。昨年の枯れ草がまだ萎れずに密生し、両側からその草薮が覆いかぶさる中、車の轍(わだち)だけは続いている。軽のSUVだったら行けるかもしれないが、2000CCのエクストレイルではこのへんでギヴアップだろう。
 車を停めて、先を偵察しに妻が歩いていく。臆病者の妻がめずらしく一人でずんずん行ってしまうので、私も後に続いた。ところが、カメラを車に置いてきたのと、キーをかけていなかったのを思い出して、急いで走って戻った。一声かけてから戻ればよかったのだが、いきなり私の姿が消えたのにビビッた妻も、驚くほど早く戻ってしまった。
 そこからまた再出発する気力も湧かず、その先の妙見山は断念。ワクワクするような予感も失せていたので、今来たもの寂しい道を引き返したのだった。
 我々の秘教探索旅行は、期せずしてこういう小アドベンチャーになってしまうことが多い。

 正規の車道に戻ると、やけに広々としてすっきりと感じる。あたりは民家も少なく、田園風景にしても独特の雰囲気が漂っていたが、後で考えてみると親王の王墓がどこかに見えていたような気もする。

 そして島の東へと横断。大阪湾側の伊勢久留麻神社へと向かう。

(つづく)

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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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