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北斗七星の先は・・・? ~ 将門巡礼☆番外編2 ~

2008,,05
1307391_2995647430.jpg
↑No.067 安倍清明の隠された過去 http://fleshwords.at.infoseek.co.jp/dt/dt067.htmより転載。

 シリーズ初回の「将門巡礼 ~ アセンション序章 ~」で、
>都区内の将門ゆかりの神社・霊場は、将門が信仰した北斗七星の配列になっている。
という話をしましたが、 では、
>江戸の北斗七星の先、北極星に当たる部分には何があるのか、気になりました。
という質問を受けました。
 私自身、気になっていたのですが、今日、やっと大きく広げられる地図を買ってきて確かめてみました。

 兜神社と鳥越神社を結んだ線を5倍に延長していくと……、
そこは足立区の青井とか一ツ家とかいうあたり。
 西新井薬師のちょっと東、綾瀬のちょっと西ですが、たぶん都区内としてはローカル地帯でしょう。 この付近で神社らしきものは、青井公園のすぐそばの愛宕神社だけ。ホームページもないくらいだから、小さな無人の神社かな。……と思って検索しまくったら、ひとつだけ、ちょっと詳しい情報をゲットしました。

               atagosama1.jpg

⇒足立歴史散歩、綾瀬村・・Ⅱ http://www.adachi.ne.jp/users/a.trm/ayasemura2.htm
(以下、上記HPより引用)
 平田家の屋敷神であったものが地区の神社になった。足立区では唯一である愛宕神社は、武家の崇敬が篤い勝軍地蔵が祀られている。創め、平田家の東に鎮座していたが、熱心に信仰する人が増え、参拝し易いようにと屋敷の表へ移し、明治の初めに下妻道に面した場所に移し(若菜家の敷地)村持ちになり、再度、現在地を求め、新地番制に伴い、青井5町会の区域を氏子に加えた。

 愛宕神社というからには、祭神は迦具土(カグツチ)かと思ったら、

ほむすびのみこと(防火)
みづはめのみこと(水神・安産)
やまとたけるのみこと(武・戦の神)
三柱の神様を祀る。


とあります。

 火神と水神をセットで祀るところは、イザナギに斬殺されたカグツチというよりも、饒速日&瀬織津姫の元伊勢の古代神祭祀を感じさせます。
 また、御神体には「勝軍地蔵尊像」を安置、ともあるので、武の神、勝負の神を祀るところは、将門祭祀と共通するものもあるかもしれません。

 さらに気になるのは、「平田家の屋敷神であった」というけれど、もしかしてこの平田は、国学者、平田篤胤と関係するのでしょうか。
 維新倒幕の思想的原動力となった平田国学だけれど、意外にもこの平田篤胤が“逆賊”将門をあつく崇敬していたという話があります。姓に「平」の字が入っているのも、篤胤が平将門の末裔であったからだと。

⇒展示の裏話紹介(「明治維新と平田国学」展 第2回 篤胤の将門信仰) http://www.rekihaku.ac.jp/relieved/l0005.html
(以下、上記HPより引用)
 平田篤胤ほど固定イメージをいだかれている人物も少ないのではないか?平田国学の話をすると、ほとんどの場合、廃仏毀釈の張本人ではないか、とか、戦前諸宗教の上に君臨した国家神道の創唱者ではないのか、といった意見や批判が出てくる。
 また性格的にも偏狭で、国粋主義的な国学者の立場から、僧侶や儒者にガミガミ攻撃的な非難をあびせた、といったイメージをもたれているらしい。しかし、今回の展示品の中に、篤胤が大事にしていた新井白石肖像画があるように、学者としてすぐれ、実証的に論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだき、自己をその域に達しようと日夜努力したのである。
 また国家神道の親玉といったイメージをもっている人々には、展示されている平将門神像をみて、びっくりするにちがいない。この平将門像は、1825年、常陸国から江戸の篤胤宅に持ってこられたものであり、篤胤の信仰あつく、平田家に今日迄伝えられてきたものである。
 国家神道の立場からすれば、将門は天皇への反逆者以外のなにものでもないのに、なぜ篤胤がこれほど深く信仰したのか、このあたりの謎解きから、平田国学や篤胤の説いた復古神道への理解が始るのだろう。



…………う~~~ん



 とりあえずこれでアンテナを切り替えて、この深夜から淡路島へと旅立ちます。[m:119][m:66]

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神田神社(神田明神) ~ 将門巡礼、都区内編④ ~

2008,,17
          江戸地図
          ↑埋め立てられる以前の江戸の地図↑   
http://www1.odn.ne.jp/hatomachi/04edo/edo_business/edo_business01.htmlより


 あまりにも怨霊づくしのお参りではシンドイから、最後はほっこりしたいよねえ、ということで、今回の将門巡礼のラストはお馴染みの神田明神
 この神社もオカルト系ネタ本などではおどろおどろしく紹介されがちだが、一般的な御利益信仰の神社として賑わっている観光名所的なスポットでもある。それもそのはず、かつては江戸108ヶ町の総氏神であり、江戸総鎮守ともされたメジャーな神社なのだった。

 昭和50年完成の総檜造りの随神門。
               随神門1

               随神門2

 朱塗りの華やかさが、大宮の氷川大社や祇園の八坂神社など、スサノオ系の大きな神社と共通する雰囲気がある。日枝神社や松尾大社もそうだが、朱塗りの社殿は秦氏などの渡来系氏族のもたらした信仰だという説もある。

 随身門をくぐるとまもなく、左側から石造りの大黒様が出迎える。こちらは昭和51年完成。
               大黒像

 石造りとしては日本一の大きさ(高さ6.6メートル)だそうだが、なんだか姿そのものも大雑把なつくりで、一時代前のハリウッド映画的なムードがする。
 この大黒様の正面手前に大きな茅の輪が設置されていて、誰が発案したのか、これを∞状(無限大印=横8の字)に三回くぐれば御利益があるようなことが書いてあった。

 そのちょっと奥に、波に囲まれた金色の恵比寿様と魚の像がある。
                    恵比寿 

 大黒があるから恵比寿も、ということだろうか。でも、この恵比寿像は小人として表現されているので、大黒と共に七福神の代表選手である恵比須よりも、出雲の大国主(オオクニヌシ)の助っ人神としての少彦名(スクナヒコナ)をイメージしているようだ。
 恵比寿と習合した日本の神は事代主(コトシロヌシ)や水蛭子(ヒルコ)との説もあり、この少彦名説は私も最近になって知った。業務上のパートナー神として見た場合、大国主&少彦名をそのまま大黒&恵比寿にスライドすることができて都合がいいのだろう。
 (そもそも七福神信仰は室町時代以降のもので、本格的に定着するのは江戸町人文化においてのこと。日本神話の神とのこじつけや辻褄合わせに苦労のあとがうかがえる。
⇒七福神の信仰の歴史


 こんな御守りも目を引いた。(情報安全守護) 情報化時代の生き残りには必須だろう。さすが勝負事の神様、目のつけどころが違う。
                    情報安全守護


 こちらが社殿。関東大震災で消失後、昭和9年に再建されたもの。 
社殿
 
 耐震耐火構造を目的として、当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本殿、幣殿、拝殿、神饌所、宝庫などが重なり合うように造られた新しい形式をもっている、……ということは私もつい最近知った。

 社殿の正面両脇に、誇らしげに胸を反らしている狛犬。なんとなく、諏訪の上社本宮の青銅の狛犬に似ている。
狛犬:左 狛犬:右
 
 意外と知られてないが、明治以降、神田明神の正式名称は神田神社となっている。
 現在の祭神は、一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト)二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト)三ノ宮に平将門命。
 社伝によると、一宮の大己貴命は将門が祭られる以前からの祭神で、この神社の原型が出雲氏族の子孫による建立(730年)であったことが伝わっている。

 もとの社名が安房神社であったとする説も伝わっていて、これが安房国一ノ宮からの流れであるとすると、朝廷に仕えた中臣⇒忌部氏の系統と考えられるが、安房国より「流れ三つ巴」の紋を持つ漁民集団が移動してきた、という記録もあるので、「三つ巴紋」系の海人族というと八幡信仰も考えられる。
⇒new平将門怨念ツアー 将門考記 飛んだ首の謎 そして神へ
 この八幡神はポピュラーであるにもかかわらず非常に謎が多い神であり、後に武家代表としての源氏の守り神=八幡大菩薩となったが、もとは平氏のほうに近しく、さらに大和朝廷以前の古代ではむしろ出雲系と親しかったという異説もある。(この説を採るなら、通説による宇佐の八幡三神=応神天皇、神功皇后、比売神は、かなり後の時代に合祀されたものということになってしまう)

 二ノ宮の少彦名命については前にも触れたが、明治なって将門が朝敵として祭神から外された時、代理のようにして大洗磯崎神社から勧請されたもの。
 将門神霊については、没後360余年の1309年から相殿に祀られ、明治7年(1874年)に境内摂社に移され、昭和59年(1984年)に三ノ宮として復活している。

 但し、異説もある。
 
 神田明神の祭神について織田は「平将門を主神とし洲崎天王社を以て第二の祭神とする。大国主神(おおくにぬしのみこと)を一の宮とし将門を二の宮とするのは宝永以降享保のころ(18世紀前半)の作りごとで、これは将門が朝敵だとの物議を避けるためのねつ造である」との立場から論旨を展開している。なお織田は、将門公に謀反の意志はなく朝敵うんぬんは全くの冤罪との説を採っている。

 すなわち平将門公の霊が主神であり、洲崎天王社が摂社であることは明らか、と織田は言う。続いて明治維新以後に書かれた神田神社鎮座歴史の部の一文を引用。「八雲神社は本殿の西にあり古来神田天王と称して当所の地主神社と言い伝える。この地は安房国安房郡安房大神(天太玉命)の后神アメノヒリノメノミコト(天比理乃メ=口ヘンに羊=命)を祀っている。」というものである。
 続く一節は首塚の地の古代をうかがわせるうえで非常に興味深い。その要旨は洲崎宮(安房神社)の祝部の祖である忌部栄麿という人物が武蔵国に来て洲崎の岡にアメノヒリノメノミコトを祀ったとの伝承があるが、それがこの地である。神田の台が江戸の海に張り出し船着きの洲崎となっていたので「豊島の洲崎」といった。その洲崎明神がこの八雲神社である。しかし乱世の中で古伝は失われ遂に牛頭天王社と誤り伝えられるようになった。
 現在、洲崎という地名は固有名詞だが、ここで言うように洲崎は本来普通名詞、すなわち海に陸地が張り出した部分という意味だったと思われる。そして首塚の地が海辺であったことは既に見た通りである。

⇒将門首塚を考える・Part2

 整理すると、次のようになる。

730年~、  祭神:天比理乃命?大己貴命(大国主命)?     
      社名:洲崎天王社?安房神社?(八幡系?)
1309年~、 祭神:平将門公、天比理乃命。
      社名:神田明神?
18世紀前半、祭神:大国主命、平将門  
      社名:神田明神
1874年~、 祭神:大己貴命、少彦名命。      
      社名(正式名称):神田神社
1984年~、 祭神:大己貴命、少彦名命、平将門命。 
      社名(正式名称):神田神社

 境内向かって左奥に神田明神資料館があると案内があるので行ってみたが、土日祝のAM10~PM4以外は閉館とあった。
 ここでまた猫と出会った。知らん顔で通り過ぎ、静止していてくれないので、写真のピントが合いづらく、妖しい絵画のような写真になってしまった。
               猫1

               猫2
 
 私の持論では、「猫」はその霊場における祭祀の正当継承者の象徴である。上の写真ではその猫が、鉄柵の向こう側に回って、檻に監禁されているように見える。ここは霊的封印ポイントなのかもしれない。神田神社は思ったよりも、未だ報われていない霊場なのかもしれない。

 すると、そのそばに三兄弟のように仲良く軒を並べる末社(摂社?)が目をひいた。
三天王社

 説明書きを見ると、江戸の三天王とされ、祭神はすべて建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)。社殿を持つ神社神道としては、この地の最古の地主神であったものらしい。三天王の「天王」は、祇園の牛頭天王社(八坂神社)由来であるらしいことも、ホームページで知った。(但し、先に引用した織田完之の調査によると、これは洲崎天王社の誤った発展系)
⇒http://www.kandamyoujin.or.jp/precinct.html
大伝馬町八雲神社:説明版
大伝馬町八雲神社:説明版
小舟町八雲神社:説明版

 スサノオと将門もどこか共通項があって、「天津甕星ルーツ説」を考える以前は、将門をスサノオの末裔だと思っていた時期もある。それもまんざら間違っていないかもしれない。高天原を追放されて出雲を開拓するスサノオ神話は、京に逆らって東国に新天地を築こうとする将門と、かなりダブるものがあるから。
 出雲から東国へとスサノオ信仰が流れてきた基盤の上に、親出雲系の八幡信仰や将門信仰が重なったと考えると、なにがしかの因縁(歴史の必然)を感じてしまう。


 家系の因縁ということでは、将門を出した東国における桓武平氏(桓武天皇の子孫で平姓を給わって臣下にくだった氏族)の系図は、私にとって非常に興味深いものだった。鎌倉北条氏がここから出ているし、後の小田原北条氏の初代、北条早雲も、伊勢平氏の流れだとするとこの末裔である。また、剣豪、塚原卜伝に鹿島神流を伝えた鹿島氏の家系も、桓武平氏の系図に入っている。
 これらは将門と直通の血脈ではない別の枝分かれからの展開であり、どこまで信憑性があるのかもわからないが、私の中では妙にそそられるものがある。

 将門の時代からは下るが、江戸氏の動きも面白い。
 武蔵江戸氏と常陸江戸氏の系譜があるが、武蔵江戸氏のほうが桓武平氏の流れをくむ秩父氏の出である。この江戸氏がまだ入り江の未開地だった江戸の地に勢力を張り、最初に城を築いた豪族である。その後、太田道灌が江戸城として完成させ、後北条氏の支配を経て、徳川家康が増改築して活用した。家康はさらに入り江を埋め立てる一大工事に着手し、町人、職人の住む城下町として完成させたのである。(この埋立地が、現在も下町と呼ばれる地域である)
 巡り巡って、江戸氏が建てた江戸城の鬼門を守る神、及び江戸の総鎮守として、将門霊が招魂されたのも、奇しき因縁と言えないだろうか。江戸⇒東京の首都文明は、まさしくこの江戸城や首塚や神田のあたりをコンパスの中心軸として、今日まで発展を遂げてきたのだ。そして、今は皇居までもが、城址を包むようにして背後に構えている。
(一極集中化して爛熟した現在の東京が、将門の理想としたものと言えるかどうかは、怪しいけどね)

 一方、常陸江戸氏は将門を討った藤原秀郷の末裔である。常陸国において佐竹と敵対していた那珂氏の一族でもあり、戸村城をめぐる因縁が目まぐるしい。(「戸村」は私の父方の姓) 当初は那珂戸村氏の居城であった戸村城だが、この戸村(前戸村=那珂戸村)を滅ぼした佐竹が、自ら戸村(後戸村=佐竹戸村)を名乗って占領して後、戸村城は常陸江戸氏に対する佐竹の防衛拠点となる。

 この佐竹氏というのが、要所要所でけっこうえげつないことをする一族で、武勇にも優れたのだろうが、サバイバルのためならなんでもするようなところがある。

 鹿島・行方の大掾氏一族は「南方三十三館」と称されて、南北朝の争乱期より佐竹氏と行動をともにしてきた、いわば協力者たちであった。そして、常陸において佐竹氏の威勢があがるにつれて、佐竹氏に従属する傾向にあった。しかし、かれらが居住する常南は佐竹氏領の中心から遠く離れた地であり自立性も強かったため、佐竹氏としてはこれを除かないと常陸統一は成らないと考えたようだ。そして天正十九年二月、佐竹義宣は鹿島城主清秀をはじめとして、烟田・玉造・行方・手賀・島崎らの各氏を太田鶴来城の梅見に誘い、一気に謀殺してしまった。
⇒武家家伝_鹿島氏

 佐竹氏は豊臣秀吉の小田原攻めに加わって後北条氏を滅ぼしたため、そこまでは上々の出来だったようだが、関が原の合戦においてけちがつく。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に際して義宣は家康派と三成派の間にあってどちらにも加担しなかった。しかし、実際は家康に敵対する意志のないことを表明しながら、裏では三成派やそれと結ぶ会津の上杉景勝ひそかに密約を交していた。これが、のちに佐竹氏が常陸から出羽へ転封となる原因となったのである。慶長七年(1602)春、義宣は家康と大阪城の豊臣秀頼に謁するため水戸を出立し、上洛の途についた。
 謁見の結果は上々と思われ、義宣はその旨を国元へ書き送っている。ところが五月八日、家康から義宣に対し、領国を没収し出羽の内で替地を与える旨の転封令が伝達された。すでに諸大名に対する転封は一段落したと思われる時期に、突如として出された命令であった。

⇒武家家伝_佐竹氏

 その時、信長が君主だったら、間違いなく皆殺しだったろうが、家康の温情により佐竹氏は二十万五千八百石の近世大名として存続することとなる。
 常陸江戸氏の生き残りは徳川家康に仕え、姓を江戸氏から水戸氏に改め後世に至ったという。

 なぜこんな引用をしたかというと、以前にも書いた通り、佐竹氏は私の父方の先祖である可能性が高いのだ。親出雲系と思われる東国の桓武平氏をことごとく討ってきた佐竹の家系ということは、母方(出雲⇒諏訪系)とはとことん敵対関係なのだなあと、納得するやら呆れるやら……。

 将門と近しい縁故関係にあった千葉氏も面白い。小田原北条氏に加担したため、佐竹氏とは逆に没落の憂き目に遭うが、この末裔からは北辰一刀流の千葉周作がでている。
 
 しかし、千葉氏が興味深いのは、将門と同じ九曜紋を家紋として、妙見信仰(北斗信仰)を伝えていたことである。
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   九曜紋   月星の九曜紋   繋ぎ馬の紋

  左:将門の家系である相馬氏や千葉氏一般が使用する九曜紋。
       中:千葉氏本家の月星の九曜紋。
            右:将門自身は「繋ぎ馬」の紋を使用していたことも有名。
⇒千葉氏の家紋

 千葉氏には九曜紋の変形(原型?)として十曜紋もあるが、実は大本の出口王仁三郎も、「十曜の神旗」なるものを掲げていた。
     十曜の神旗

 九曜や十曜の中央は、北極星とする説(将門にまつわる伝説)や、月であるとする説(千葉氏伝承)、太陽とする説など様々だが、王仁三郎はまた独特の神学的解釈を加えていたようだ。 
⇒十曜の神旗

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 将門はこの妙見大菩薩の加護を得て破竹の進撃を続けるが、後に慢心して見放されたようなことが『源平闘争録』にある。
 捨てる神あれば拾う神ありで、その後、八幡信仰に乗り換えたような解釈もあるが、もともと幼い頃から八幡神の夢告を得たり、八幡神の託宣で「新皇」を名乗るようになった経緯が伝わっているのだから、こちらのほうが一貫性がある。妙見大菩薩は一時期の助っ人神のようなものか、あるいは、妙見信仰の氏族との確執があって、共闘の後に離反したことの暗示かもしれない。

 物語の中で妙見大菩薩が十一面観音の垂迹と語っているところも惹かれるが、この妙見信仰とからんで、母方の出身が製鉄の部族であったという見方もあり、こうなるとかなり古い物部系の血が入っていた可能性もある。

 将門は「妙見菩薩」が去った後八幡信仰となっていく。八幡信仰も同様に北斗を意味し後に源氏の主神となる。「八幡」とは「北極星+北斗七星」を意味し鍛冶神の一つとされている。後の八幡信仰であった源頼朝は日光東照宮において神格化され、円仁が連れて来たという道教系の神「摩多羅神」と同一化する傾向にあるという。「摩多羅神」は「死人の臓物を食い成仏さる」という妖怪と神の中間のような神で「踏鞴」の語源ともいわれるほど鍛冶神(鉱物神)である。
⇒new平将門怨念ツアー 将門考記 飛んだ首の謎 十九首の謎2

 将門の出身母族が山師としての県犬飼氏であるということは、その武力と財力の背景として、結城郡八千代町尾崎の製鉄遺跡の発掘によって裏付けられました。それが直接将門のものであるという証拠はないにせよ、鬼怒川の砂鉄を利用した製鉄所が将門の勢力地盤のなかにあったのです。
⇒丹伝説


 成田不動尊との仇敵関係など、まだまだ話は尽きないが、今回はこのへんにしておこう。
 

 最期に神田明神でひいた御神籤の和歌を載せておく。

 第一番 大吉

 月ごとに眺むる月ぞくまもなき 
        光を四方の海にうつして
 
 岩に砕けて清く流れる水。その水面に映る月の光。
 誠に平穏静寂。心の奥底までしみ渡るような清らかさ。
 然し乍ら治にいて乱を忘れずの教えの如く自省する事も肝要。


 私のことを言っているようにも思えなかったので、これは将門公の現在の心境ではないだろうか。激流のような生を送り、殺生の罪も重ねたが(将門の時代の部族戦争は皆殺しが基本だったようだ)、今は生来の真っ直ぐに澄みわたるスピリットをとりもどしている。何者かがそのように通信してきたような気がした。

 第一番の御神籤をひくのも鹿島神宮以来の二度目だが、そういえば、首塚の住所が大手町1-1-1だったよなあ……。

 参道入り口の有名な甘酒屋で、あったまって帰ったのだった。


 ひとまず、「将門巡礼☆都区内編」シリーズ、終わります。

伊達騒動、因縁の地としての首塚(将門巡礼☆番外編1)/付:将門の歌

2008,,17
 神馬紋 将門像
      左:日輪寺の平将門神馬紋           右:岩井市国王神社の将門像

 前回「将門巡礼 ~ 都区内編③首塚 ~」の番外編です。



 私自身、全く知らなかったのだが、現在の千代田区大手町にある将門の首塚は、江戸時代の大老、酒井雅楽頭忠清の屋敷跡であり、寛文十一年(1671年)の伊達騒動による刃傷事件があった因縁の地でもある。このことは首塚の敷地内のどこかにも立て札があったらしいのだが、見逃したらしい。
(写真:酒井氏 – Wikipediaより)             
立て札                              

 お家騒動の審議中に刃傷事件が勃発し、重要関係者の双方が死亡という血生臭い結末を迎えた事件、その水面下には仙台藩の弱体化を謀る幕府の陰謀と、それを阻止せんとする藩の忠臣の命がけの頭脳戦があった。……という謎解き物語をしたのが、1970年NHK大河ドラマにもなった山本周五郎の『樅の木は残った』なのだという。(わたしゃ読んでないけどねあせあせ(飛び散る汗)

⇒今日は何の日?徒然日記 伊達騒動の影に幕府の思惑
⇒伊達騒動(1671)

 将門の時代は江戸時代ほど中央(京)の支配体制がガンジガラメではなかったろうが、同族同士の骨肉の争いが発端となり、そこに最悪の形で中央の統制がからんでくるという構図において、似た側面はある。将門の因縁が伊達騒動を呼び込んだのかという憶測も、できないではない。

 しかし、ここで私が言いたいのは、なんでこんな重要な因縁の位置づけを誰も語りたがらないのか、とうことだ。首塚の祟り話をする場面では、決して伊達騒動の話は出てこない。伊達騒動の話では首塚のクの字も出てこない。
 歴史を過去の遺跡的な断片としてしか見ようとせず、個々の絵としてロマンが盛り上がればそれでいいや、みたいな、使い捨てドラマ的歴史観はなんとかならないものか。歴史(あるいはカルマ)を未来へと続く連続流動体として解析する感性のない人間とは、そんなものなのだろうか。

 さらに、ぶっちゃけて言いたいのは、近代以降の首塚にまつわる祟り話のうち、スケールの小さいもののほとんどは、自縛霊的に見て伊達騒動の武士達のものと見たほうが妥当ではないのか。将門自身はこの地で終焉したのでもなければ、当初の首塚の位置であったのかも怪しく、首そのものの行方さえ不明なのだから。
 将門霊が全く無縁だとも言わない。この世の人間が一生懸命に祀ってくれる以上、おそらく上空か、もっと広い天地から見守っているのだろう。だけど、いちいちつまらないことに祟るほど暇でもないし、もうちょっと御魂の浄化が進んでいるはずだ。

 加えて提言するなら、あの地には伊達騒動の藩士達の供養塔も建てるべきじゃあないのかい。


 そんなわけで、将門公への供養の心もこめて、ここ二、三日に降りてきた(?)言葉を詞にしてみた。



    将門の歌 (新井満「千の風になって」の替え歌るんるん

  私の首塚の前で 怖れないでください
  そこに私はいません 祟ってなんかいません
  千の民の 千の怒りとなって
  この穢れた政(まつり)を 睨みすえています

  海には嵐を呼んで 敵を退ける
  大地に希望を託し 野山を駆け巡る
  朝は神馬と共に あなたに駆けつける
  夜は星になって この国を導く

  私の首塚の前で 怖れないでください
  そこに私はいません 祟ってなんかいません
  千の民の 千の願いとなって
  この奇跡の地球(ほし)の 未来を観ています

  千の民の 千の願いとなって
  この奇跡の地球(ほし)の 未来を観ています

  この奇跡の地球(ほし)の 未来を観ています




首塚 ~ 将門巡礼、都区内編③ ~

2008,,17
                      ▽首塚、付近の地図
               地図

                      ▽都に曝された将門の首(『平将門退治図会』)
                      平将門退治図会

 いよいよ首塚へ。
地下鉄千代田線大手町駅の5番出口が最短なのだが、我々は九段下から東西線で向かったため、方向感覚がいまひとつわからない。またまたビルの周りを反対方向にぐるりと回ってしまった。築土神社の時もそうだったが、どうも無意識に時計反対回りに歩いてしまう癖があるようだ。それともこの左回りに何かおまじない的な意味があって、神様にやらされているのだろうか。

 三井物産ビルの角を曲がると、ビルの隙間に場違いのように茂った樹木の緑に囲われて、それらしき存在が視界に迫ってくる。待ちかねていたかのように上空で突風が吹き荒れ、樹木のてっぺんのほうの梢が千切れんばかりにざわめき揺れ、ビルの横壁に叩きつけられた。
 築土神社もそうだが、林立する高層ビルで横から空間が圧縮されるぶん、風水エネルギーが縦方向の高みに噴き抜けるようなラインを感じさせる。
          首塚1

 頭の中でそれなりのイメージは出来上がっていた将門塚だが、それとはかなり違う印象の情景だった。そのての興味本意なオカルト本などに見る首塚の写真は、薄暗いモノトーン調のものが多く、わざとおどろおどろしい雰囲気をかもし出しているかのようだが、実際、緑の木陰になっている部分があるとは言うものの、むしろ殺風景な都会のコンクリート・ジャングルにあって、一陣の涼風を呼ぶような透明感さえ感じる。
 いや、7~8割の透明感に、2~3割の妖気だろうか。長い年月を経て将門の怨念がここまで浄化されたのか、それとも、祟り伝説に尾ひれがつき、人々の怖いもの見たさの邪念の集積が、別の妖気を呼び込んでしまったのか。

 しばし瞑目して、これからも関東の鎮護を何卒よろしくお願いします、と祈る。            
首塚2

 ところで、将門の首塚は昭文社地図の大手町周辺図(拡大図)にも、意味不明のスペースがあるだけで、文字としては明記されていない。いまだに皇国史観の圧力を恐れて、隠しておかなければならない不文律でもあるというのだろうか。
 が、現地まで行くと東京都教育委員会、千代田区将門塚保存会、三井物産社員有志寄贈などによる、何枚もの気合いの入った説明版が設置してある。特に三井物産のものは英語、韓国語などに翻訳されたインターナショナルなものだ。(写真の写りが悪いが、中段のものはアラビア語だろうか?) 実際、我々が行った時は、先客として年配の西洋人夫婦が見学に来ていた。

          説明版1

説明版2

説明版3
 
 このマイナーとメジャーの間をくるくると転調して揺らぐポジションこそが、将門の特異な存在感だったのかもしれない。(なんだか親近感を感じてしまう。私は子供の頃から、誉めそやされるかと思えばシカトされるという経験が多かったような気がする)

 石塔婆(石碑)に刻まれた「南無阿弥陀仏」は、日輪寺に現存する真教上人直筆の石版から復元したものだという。
⇒日輪寺と平将門
                    首塚3

 近隣住民の間には、碑の正面から写真を撮ってはいけない、という言い伝えまであるそうだが、知らずに撮ってしまった。(でも、私の写真は暗い感じがしないでしょ? 撮る側の波動との同調ってものもあるんだよね)
 確かに、石塔婆の向きも、大通りに面する形では立っていない。出雲大社の本殿内部と同じで、L字型に奥まっているのだ。祟りを恐れたり、強すぎるパワーを婉曲に伝える時の風水テクニックなのだろう。周囲のオフィスでも、できる限り首塚にお尻を向けない位置にデスクを置くという、ウソのようなホントの話がある。
 
蛙、左 地蔵&蛙(右)
 碑の脇に蛙の列があるのには、ふたつの説がある。父親の復讐を果たそうとする将門の娘、滝夜叉姫が、筑波山のガマの毒気を浴びて妖術使いとなったからという説。「カエル=(無事)帰る」の語呂合わせから、海外赴任の多い大手町のビジネスマンが「将門の首のように戻ってこれますように」と願をかけて置いた、という説。
⇒【聖地巡礼】将門首塚(中)願い込め置くカエル (1-3ページ) - MSN産経ニュース
 飾りもの程度の縁起ものかと思ったら、本当の御利益話があった。昭和61年、三井物産マニラ支店長の若王子さんが、マニラ郊外でフィリピン共産党の新人民軍に誘拐された事件があったが、出発前にこの首塚にお参りして蛙をなでていったから無事に帰れたというのだ。(事件があって後、家族がカエルに願をかけたとか、会社の者がその時に初めてカエルを設置した、などの異説もある。生き証人がいるうちに、誰か正確なところを取材してほしいものだ)
⇒将門首塚を考える大手門と将門さん - 散歩道
⇒東京のクマ日記 【聖地巡礼】将門首塚(上)都心に今も生きる伝説

 将門の首が今もここに埋まっているのかというと、残念ながら違うようだ。関東大震災で塚が破損した時に発掘調査がされたが、塚の下から現れた石室の中は空っぽだったという。
⇒将門首塚検証
 盗掘によるものか、それとも初めから無かったのか。もしかしてキリストの復活・昇天や※仙道の屍解仙(しかいせん、しげせん)のように、死体を気化・霊化させてしまったのだろうか?!
…………………………………………………………………………………………………
※古代中国の「道教」のうち、民間信仰でも国家セレモニーでもない部分、究極の自己完成を目指すプロのハイテク・スピリチュアルな道を、「仙道」とか「神仙道」とか言う場合がある。
 一方、ハウツーのテクニカルな側面よりも、その本来の境地を思想的に表現したのが老荘思想だろう。この老子と荘子の思想のうち、比較的牧歌的で柔和な老子の思想が、近年の欧米で「タオイズム」の名のもとに紹介されているが、老子がイコール「道教」なのかというと、ちょっと違う気もする。

 道教の思想や行法は、高度にスピリチュアルなものから現世利益べったりで黒魔術的なものまで、非常に裾野が広いものだ。他者の生気を略奪してまで肉体の老化を防ぐというブラック・マジックな進化型もあるが、神仙道の道教における「不老長寿」の本来の姿は、肉体の永続と言うよりも、生身の肉体そのままに次元転換させて、肉体を気化・霊化させてしまう境地にこそある。即ち、空海の真言密教の「即身成仏」とルーツを同じくするものだ。
 これに対して、一旦は肉体が死ぬが、霊魂のパワーに引っぱられて、抜け殻の死体もほどなく気化・霊化し、物質界からは忽然と消えてなくなってしまうものを「屍解仙」と呼んでいる。生きているうちの即身成仏ではないので、神仙の中ではレベルの低いものとしているようだが、手順の問題だけで行き着く先は大差ないように私は思っている。

 これを個人のものではなく、地球丸ごとの発展段階としてとらえたのが、近頃よく耳にする「アセンション」という概念だろう。内的成熟の必然として地球環境全体が即身成仏することであり、低次の物質界としてはもはや地球が存続しえなくなることだ。物質界が無くなってしまう以上、物質界へのこだわりが強すぎる者は、低次の霊界に行くしかない。人間(や程度の低い神)はそれを勝手に「地獄」と名付けることもある。
 したがって、神に選ばれた者だけが地上界を離れて、位置限定の天上に召されるという、従来のキリスト教的な選別の概念とはあきらかに違うものだ。
………………………………………………………………………………………………

 首の行方については、考え出すとややこしい。そもそも築土神社側の伝承が正しいとするなら、あの神社の変遷の歴史の中に首の行方の秘密も隠されているはずだし、
⇒築土神社御由緒
首塚の伝説が正しいのならば、築土神社の存在そのものがフェイクということになってしまう。
 それに、将門の首塚を主張する神社は、実はまだあったのだ。岐阜の御首神社である。
⇒御首神社ホームページ
 ここまでくると真面目に論ずる気力を失うが、それでもなお、この大手町首塚の有無を言わさぬ存在感は、厳然としてそびえ立っている。


 このあたりで、頭の整理のため、首塚と神田明神にまつわる祟りの伝説を、時系列にそって並べてみよう。(他ホームページからの継ぎはぎ転載)

 伝説では都で獄門となった首が再び戦う事を誓い、体を求め白光を放ち東国へ飛び立っている。しかし首は力尽き芝崎村に落下し、大地は鳴動し太陽も光を失い暗夜のようになったという。村人はこれを恐れ、塚を築き埋葬した。
⇒平将門の乱と関連伝承(其の一)

 将門の死亡から360余年後の嘉永3年(1305)、時宗の真教上人(一遍上人2世)が将門塚を訪れた時、塚は荒れ果て、村には疫病が流行しており、これが将門の祟りだと村人は恐れていた。真教上人は将門に『蓮阿弥陀仏』という法号を追り、塚を修復して、供養したところ疫病が治まった。喜んだ村人たちは上人に近くにある日輪寺にとどまってもらうことにした。真教上人は天台宗だったこの寺を時宗に改宗して、念仏道場とした。 1307年に真教上人は将門の法号を石板に刻み、塚の前に建てた。さらにその翌々年の延慶二年には旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたことが日輪寺の記録にあるという。同時に日輪寺も『神田山日輪寺』と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった」(史跡 将門塚保存会資料による)
⇒江戸東京ものがたり 将門伝説篇(1)
 
 徳川家康が江戸入りした際、この神田明神は現在の千代田区神田へ移転するが、将門塚は古墳であるため、そのままこの地に残ったと伝えられている。
 
 明治元年、(神田神社が)准勅祭社に指定されたが、明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。

⇒神田明神 - Wikipedia
 
 明治6(1873)年、神社側は、朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚り、平将門を別殿に移し、その代わりに少彦名命の文霊を迎え入れたい、との願書を提出した。翌明治7(1874)年、その許可が与えられたが、納まらないのは188か町にも及ぶ氏子たち。何しろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのである。それが、どこの誰だか知らないような神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。
 そのため、本社には、さい銭がろくに投ぜられないの対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。将門に対する信仰は、その後も続き、明治17(1884)年の神田祭りが台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂に上った。

 新聞紙上にも、
 
 祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りをメチャメチャになさった

 などという記事が掲載されるくらいだった。

 明治東京人は、本殿の祭神を表面上は敬いながらも、実質は将門社への信仰を中心にして、神田祭りの伝統を保っていったのである。

⇒江戸東京ものがたり#12 将門伝説篇(1)

 「将門公が祭神から降りた後の十年はお祭がなかったんです。昔はお祭は秋だったんですが、それを十年ぶりにやったらすごい台風にぶち当たりました。将門台風なんて言われて、『将門公の呪いだ』なんてい言われました。で、それで祭の時期を5月に変えちゃったんですよ」とTさん。
⇒神田明神のお膝元にて 神奈川県 東京での小ネタ話あれこれ 

 大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災。この時、大蔵省庁舎は全焼した。将門塚も崩れ、この機会に塚の調査を行うこととなり、その年の十一月に、工学博士大熊喜邦らに塚の発掘を依頼した。塚の中からは石室が掘り出されたが、すでに盗掘されており見るべきものが無かったため、塚は取り崩され、池を埋め立て平地とし、その上に仮の庁舎が建てられた。ところがその後、大蔵大臣早速整爾が病にかかり大正十五年(1926年)九月に死亡。その後、現職の矢橋管財局課長他その他十数人が死亡した。また武内作平政務次官他、多くの人が仮庁舎で転倒し怪我をする事故が続出し、これは将門塚を破壊した祟りであるとの噂が広がるに至り、昭和三年(1928年)塚域の仮庁舎を撤去し塚跡に礎石を復元し、神田神社社司平田盛胤が祭主となり盛大な慰霊祭を行った。この時、大蔵大臣三土忠造以下幹部関係者多数が拝礼した。

 第二次世界大戦の重大な局面を向かえていた昭和十五年(1940年)。皇紀二千六百年にあたるこの年、将門塚では盛大な奉祝祭が行われた。ところがこの年六月二十日、突然暴風雨がおき、大手町逓信省航空局に落雷、火はたちまち広がり大蔵省をはじめ九官庁が全焼してしまう。時あたかも将門没後千年にあたり、またも将門の祟りの噂が広がり、これに驚いた大蔵省大臣河田烈は神田神社の社司平田盛胤を招き慰霊祭を執行し、関東大震災で損傷していた故蹟保存碑を新調した。また、正和二年(1313年)の真経上人晩年の真筆「南無阿弥陀仏」の板碑を模刻し板石塔婆をこの時建立した。

 その後、大蔵省本庁舎は霞ヶ関に移転。その跡地は東京都の本庁舎建設用地として移譲された。
 昭和二十年(1945年)第二次世界大戦終了。大手町は東京大空襲により焼土と化していたが将門塚は焼け跡の中に取り残されていた。進駐米軍はここに広大なモータープールを造る事を決定し、早速工事に着手するが、墓のようなものの前突然ブルドーザーが横転し、運転していた日本人が死亡するという事故がおきる。確認した所、この墓のようなものこそが将門の首塚であった。大手町々会長遠藤政蔵氏は住民とともにGHQに出頭し、「ここは古代の大酋長の墓である」と説明し、米軍は了解をし、将門塚は保存される事となった。

 よど号事件の起きた昭和四十五年(1970年)。何者かによって将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという怪事件が起きる。将門の祟りを引き起すために何者かが犯した犯行なのだろうか?祟りを恐れ、すぐさま新しい板石塔婆を真教上人が将門を供養した徳治二年の旧状を模し再建した。翌年、将門塚は東京都の文化財として保護される事となる。

⇒平将門の乱と関連伝承(其の一)

 これら数々の事件がオカルティックな現象としての“祟り”であったにせよ、それが本当に将門公の怨念によるものだったかは、また別の話になってくる。と言うのも、この首塚を霊査した霊能者が「まさしくここは将門の霊場である!」と太鼓判を押した、という話は、ついぞ聞いたことがないからだ。だいたいは「強いエネルギーは感じるが……、云々」という言葉を濁したビミョ~発言が多い。
 私自身も、将門が意図的に特定個人の不敬をターゲットに祟りをなす、という考えには否定的だ。しかし、許容量を超えた強いエネルギーに触れれば、何らかの傷害・変調がおきる、ということはありうる。高圧電流に触れれば感電する、というのと同じことだ。その霊的な高圧地帯に、将門の因縁がからんでいたのだろう。(将門だけが特定因子ではないのかもしれない)
 オカルティックな世界だから合理的思考を一切放棄する、というのではなく、霊的世界もまた、霊的次元の多角的視野と合理的思考に基き、推理・判断するべきものなのだ。


 将門の祟りがこれだけ畏れられるようになったのは、東国においては明治以降のものだという見方もある。

 意外と言うか、当然と言おうか、東国には将門の祟りという伝承は、ほとんどない(目立つものは、前回触れた『佐倉風土記』における秀郷の子孫への祟りくらいなものか)。
 ――首塚が祟る、という伝承は、むしろ明治以降のもので、これは「都市伝説」の範疇であろう。

 将門没後、その遺民としての分を守り、何事もひそやかに、目立たないようにと暮した人びと。たとえば正月の門松などもわざわざ庭先にころがしておき、五月の鯉のぼりなども絶対に揚げない風習。また、その霊を慰めるために、坂東の野のあちこちに築かれている将門塚等々……。かぞえれば、将門を追慕し崇敬する習俗、伝統の行事等が、まことに多い。
 
と、伊藤晃氏が『平将門 その史実と伝説』で書いている。

 まさに、坂東土着の民にとって、「追慕し崇敬」こそすれ、将門が祟るなどということは想像にも及ばないことだっただろう。
――鎌倉時代末期には、首塚が荒廃し、天変地異が相次ぎ疫病が流行したため、この塚を祀らないためだとされた、との記録があるが、これは将門の霊との関連性には触れられてはいない。したがって、御霊信仰とは関係なく、単に死者への供養を怠ったことへの報い、という意味しかもたない。

 ことほどさように、将門に対する東国での親近感は根強いものがある。
それも、京の政治権力に圧迫されてきた坂東の人びとにとって、東国自立の願望が強かったことの一つの表れであろう。

⇒江戸東京ものがたり・将門伝説篇(1)

 なるほど、明治以降の東京は薩長系の新興政府による文化的略奪であり、東国自治の伝統ではない、との見方もできよう。ここに東国の守護神としての将門と、東京を憎む破壊神としての将門、という背反感情のドラマが生まれる。荒俣宏『帝都物語』の狙いどころもこのへんだったとすると、深いなあ……。

 10年以上も前に映画化されたのは、この長編小説の序盤部分だったので、この物語の行き着く先を知らない人は多いかもしれませんが、小説版のラストまで読むと、この作品はまさしく、東京の守護者としての平将門と、日本史上希に見る祟り神としての平将門の、相克の物語です。神としての将門の、複雑な性格が分かる一作かもしれません。
⇒将門の首塚(前編)英雄と怨霊の間

 
 最後にもうひとつ、面白いネタ話を。
今をときめく(?)爆笑問題の太田光がまだ駆け出しの頃、ローカル番組の企画で首塚のレポートに出かけたことがある。無神論者の太田は、首塚の上に乗ったりドロップキック(飛び蹴り)をくらわせたりして、スタッフをドン引きさせたという。
⇒本当は痛いテレビ番組太田光が将門の首塚に蹴りを入れた件について - livedoor Blog(ブログ)
⇒【聖地巡礼】将門首塚(上)都心に今も生きる伝説 (1-2ページ) - MSN産経ニュース
 その後しばらくの間まったく仕事が舞い込んでこなかったと、本人が冗談まじりに語ったとか語らなかったとか。

 あいにくだが、この程度の狼藉でむきになるほど将門公の器は小さくなかろう。脅迫的オカルト権威主義に牙をむきたいのなら、太田光も大槻教授も、細木数子でも相手にしたらどうなのか?と言いたいところだが、それは別として、太田光はむしろ、将門に「反骨心があって面白い奴!」と気に入られてしまったのではないだろうか。
 日テレの番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』の発想は、将門の願望を反映しているように思えてきたからだ。
⇒日テレ 番組紹介
⇒太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。 - Wikipedia
 「私が総理大臣(新皇)になったら…」とは、まさに将門の言いそうな台詞だと思わないか? お笑いバラエティ番組のオブラートに包まれてはいるが、どのような大物や権威にも臆せず、自分の理想を真正面からぶつけていく姿勢は、将門のスタイルそのものではないか。時に激昂して、顔面を紅潮させ、眼を見開き、歯を食いしばり、論敵と聴衆を見据えるパフォーマンスも、実は『将門記』に描写される戦闘時の表情に似ている。

 『将門記』ではこのとき、将門の勇壮で超人的な戦いぶりが描写される。戦うときには眼を大きく剥き、歯をくいしばって敵中に突進。そして馬にまたがり、疾風のように激しく追撃していく姿は英雄と言つほかはない。
⇒首伝説(学研より0)

 太田光は首塚にドロップキックした時に、将門の霊流回路に接続してしまったのだ。そして約20年の潜伏期間を経て、天下の奇病である将門病が発症した。かくなる上はジタバタせず、朝敵として首をかき切られるその日まで、将門公の手足となりて世のため人のため働いていただきたい。合掌。


築土神社 ~ 将門巡礼、都区内編② ~

2008,,17
 築土神社は日本武道館のすぐそばにあるが、ビジネス・ビル群の一画に埋もれているので、なかなかすぐには目につかない。地下鉄九段下駅(東西線、半蔵門線、都営新宿線)の1番出口が近いのだが、我々は7番出口から反対方向をぐるりと探してしまったので、遠回りになってしまった。
 妻が「いったいどこにあるのよ!」とイライラ気味。私が地図を頼りに「絶対、このへんの方向にあるはずだ」と当てずっぽうに指差した瞬間、どんぴしゃ!その延長上のビルの隙間に、緑色の異様な屋根がのぞいたところだった。
          築土1
 写真ではいまひとつ感じが出ていないが、一目見たその瞬間、近代ビルの隙間に埋め込まれたオトギの国の宇宙基地のように見えてしまった。超合金で出来た合体ロボットがガチャン、ガチャン!と組み変わって変身し、ロケットになって天空に発射するかのように見えたのだ。
 ここが地下鉄1番出口からのポイントであり、一番近いアプローチらしいのだが、社殿の向きからすると斜め後ろの角度となってしまう。そうとは知らず、ビルの谷間の階段をダウン・アップしながらのアプローチは、何ともいえない不思議空間だ。

                    築土2
 ↑本当はこちら側が神社正面からのアングル。ビルの端の下部が参道になっている。太い石材の柱が並ぶさまは、近くで見るとギリシアの神殿みたいでエキゾチックだ。

 もっと現実的な観点から見ても、なんとも奇抜な建築様式だ。屋根が前後に三段構えになっていて、一番前面の拝殿だけ出雲大社と同じような切妻造り、中間と後ろが神明造りになっている。
⇒神社建築の種類) 
               築土4

築土3
 いや、厳密に言うと、中と後ろの間の谷間にもうひとつの小さな神明造りが挟まっていて、合計四つの屋根。しかも、正面拝殿の切妻造りの屋根板が、最後尾の神明造りの前面軒下まで、底面を支えるように伸びている。何と言ったらいいのか、一つの切妻造りの上に三つの神明造りが組み木細工のように組み込まれた感じかな。
 言葉で説明するのも大変だが、眼で見て把握するのもなかなかの難物だ。私もこの原稿を書くためにしげしげと写真を見比べ、初めて全体像を理解した。(この神社はビルの狭間に組み込まれているので、遠景から全体像を把握するのが難しい) 一目見た時の不思議感覚の秘密も、こうした前代未聞のデザインにあったのかもしれない。

築土5 築土6.
 屋根の千木は、正面と後ろは縦切り(垂直切り)、真ん中だけが横切り(水平切り)。谷間のチビ屋根には千木なし。鰹木の数までは確認できなかったが、このへんもなんだか謎めいている。(一般には、祭神が男神の場合は縦切り、女神の場合は横切り、鰹木が奇数の場合は男神、偶数の場合は女神、と言われている)
⇒千木・鰹木 – Wikipedia

 いったい何者がこの社をデザインしたのだろう。古神道の霊学的な素養がある人だろうか。だとしたら、何の意味を込めたかったのだろうか。それとも、何の意味ともわからず、異次元の何者かに突き動かされるように、このデザインを選んでしまったのだろうか。
 私はどうも、伊勢の内宮と外宮の陰陽再結合の秘教思想が秘められているような気がしてならない。男神と女神が分裂して、封印されてしまった後の、征服国家の権威の象徴である伊勢神宮ではなく、神宮建立以前の“原初”元伊勢への回帰志向である。
 
 しかし、なぜ、平将門を唯一の祭神として発祥したこの神社に、その元伊勢志向があるのだろうか。将門公の霊威というものが、意外と“原初”日ノ本に通ずる窓口として開いていたからではないか。
 だいたい非業の死をとげた者など、長い歴史の中にはゴマンと居るはずである。その中で有史以降の人霊神としては将門霊のみが、なぜここまで祟り神の帝王として畏れられ、あるいは慕われ、破格の待遇を受けてきたのか。それは将門が原初の神の分け御魂として、強靭で崇高な使命を纏って遣わされてきた、洗礼の先駆けだったからではないか。このたびの将門巡礼で、私の中にそんなヴィジョンが芽生えはじめていた。
 (菅原道真が「最大の怨霊」などともてはやされることもあるが、今は学問の「御利益信仰」の神としてポピュラーだし、その学問ももっぱら「お受験」担当であることを考えると、見事に体制派のマスコットに置き換えられている。実際、道真自身も平安京の貴族社会への未練がましさのようなものがあって、将門とは怨霊としての質も格も違う気がする。騙されて捨てられた「女心の演歌」が道真なのに対して、こっちから問答無用で一刀両断する「復讐の荒野」が将門なのだ)

 もしかすると将門の御魂は、大本のウシトラの金神(国常立尊)や素戔嗚尊に通ずる救世神の後裔だったのであり、海外においては、まさしくユダヤの「王(新皇?)」を名乗った「逆賊」として処刑されたイエス・キリストや、そのイエスの先駆けとして洗礼を施し、民を惑わしたとの罪で斬首された洗礼のヨハネなどと親戚筋にあたる霊系だったのではないかと。
……まあ、常識的な皆さんは、御伽話として胸に収めておいてくだされ。

 余談だが、この洗礼者ヨハネを検索しているうちに、興味深い話を発見した。
⇒洗礼者ヨハネの墓
⇒ウマイヤド・モスク[シリア編]
 ヨハネの首が埋葬されているという教会が、実はイスラム教の現存する最古のモスクになっていて、ムスリムにとっても参拝の対象になっているのだとか。いわばユダヤ教とキリスト教の時代的橋渡しを演じた役回りのヨハネが、今はイスラム教徒からも礼拝されている。……となると、万教同根・地球共生の理想からすると、洗礼者ヨハネはイエスをも超えていることになる?!(キリスト教徒には内緒だよ)
 もっとも、イエスも「キリスト教」として後の帝国主義に担ぎ出され、差別と征服の奇形増殖した世界宗教への道さえ歩まなければ、もっともっと素朴に異教徒や異民族にも慕われていたかもしれない。その意味では、将門もへんに国家公認の聖者に祭り上げられず、地方分権の無冠のヒーローとして全うしてきたのが正解だったのかもしれない。


 法外な話が長くなったので、神社の歴史的変遷について触れておこう。
 この築土神社の起源も将門の首の埋葬に由来するということだが、大手町(旧地名:武蔵国豊島郡の芝崎)の首塚がそのまま今の場所に残ったのに対し、築土神社は様々な事情から近隣各地を点々としている。
⇒築土神社遷座史

 一方、将門の胴体のほうを埋葬した塚に由来するのが神田神社(=神田明神)であり、「からだ」が訛って「かんだ」になったというのが通説。さらし首にされていた京から、この江戸の体=神田をめがけて飛行してきたが、直前で力尽きて墜落した、というオカルト&ホラー調の伝説が、首塚の祟り話にハクをつけている。

 この神田の語源には異説もある。この地にはもともと神仏に帰属する田とされる「神田(おみた)」があり、後に将門の遺体や首が持ち込まれたのだとする。これは神社側の社伝(神田明神 - Wikipedia)だが、しかし、神田神社は明治政府の圧力で将門が祭神からはずされたという経緯があるので、この説明はカムフラージュではないかという疑念も湧いてくる。というのも、このあたりは埋め立て地であり、古代では海岸線が目前まで迫っていたのだ。(江戸の「江」は入り江の「江」だという説もある) そういう土地に、神社に奉納するような良質の田地がつくれるのだろうか。

 体の塚の元地についても、異説がある。将門の遺体はもとは下総国の菩提寺(現在の茨城県坂東市の延命院)にあり、後に芝崎の首塚のところまで運ばれてきて、合わせて祀ったのだとする。これでいくと、身体を埋葬・供養した最初の地も、江戸の神田ではなかったことになる。
⇒将門首塚を考える

 将門没後360年以上を経て、時宗の真教上人が荒廃していた塚を修復し、「蓮阿弥陀仏」の法号を贈って首と身体と霊とを合わせて祀り、さらにその地にあった安房神社と合祀して、初めて神田神社の原型ができた。これはかなり合理的な説明だ。
 この時に上人の拠点になったのが日輪寺であり、したがって、この話は日輪寺の伝承だろう。
 この説明によると、首塚の当初の位置は現在の大手町ではなく、日輪寺の元地である台東区西浅草となっている。後に日輪寺と共に現在の大手町に移転したということだ。

 このように細部では矛盾していて統一感がないのが、将門の埋葬や祭祀の伝承だ。
 中でも築土神社の伝承記録は、かなり詳しいにも関わらず、他の首塚伝説や日輪寺側の伝承とも食い違っていて、異彩を放っている。
⇒築土神社御由緒
 まず、首の飛行伝説を採らない。「首桶に納め密かに持ち去った」という合理的な説明であり、また、首塚というものも登場せず、上平河村津久戸の観音堂に祀ったのが最初としている。(武蔵国豊島郡までは現在の首塚と同じだが、芝崎ではなく上平河村津久戸) この「津久戸」から「津久戸明神」と称したのが始まりで、その後あちこちを変遷する過程で、新宿区築土八幡町へ移転した時に「築土明神」となった。
 「津久戸」と「築土」の発音が似ていたのは偶然なのか、それとも、似せた音の地名を新たに付けたのか、そのへんは記録が定かでないのでわからない。(でも、この最初のほうの「津久戸」は、『日月神示』や『ひふみ神事』の「天日津久大神」を連想させて、なにやら予言めいた響きがある)

 首塚と神田明神と築土神社と、この三つがなぜバラバラの場所になってしまったのかも、根拠がよくわからない。
「首:奇魂(知性・理性)」と「身体:荒魂(意思・情動)」とを繋ぐ、「和魂(中心力・求心力)」みたいなものを、この築土神社は受け持っているのだろうか、などと勝手に解釈してみる。

 将門信仰史の御多分に漏れず、この神社も明治政府の冷遇を避けるため、便宜上「天孫」の天津彦火瓊瓊杵尊を主祭神として勧請している。将門公は今も、怨霊の先達、菅原道真公と共に、相殿に配祀されている。


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詳しいことは築土神社のホームページにあるので、興味ある人は覗いてほしい。
http://www.tsukudo.jp/(築土神社-平将門を祭る武道の神様)
「複写・転載は御遠慮ください」とあるので、引用も遠慮しておくが、どの神社のページよりも多角的で詳しく、歴史的探究心を感じる労作ホームページである。
 次のホームページも、やたら詳しい。
http://www.k2.dion.ne.jp/~hike/fest.html(将門首塚を考える)
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Twitterに合わせて、ハンドルネームを「五右衛紋☆Rhapsody」に変更しました。( 旧ネームは「三斗Ra隼人」、Twitterは「五右衛門☆Rhapsody」)


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プロフィール

1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

五右衛紋☆Rhapsody

Author:五右衛紋☆Rhapsody
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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