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西南の海風を呼ぶ竹島弁天

2009,,03
 三河湾の対岸から約400メートルしか離れていない竹島(たけしま)は、その全域が竹島弁天=八百富神社の境内ということになっている。琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)より勧請したというだけあって、島の形が非常によく似ている。
⇒竹島 (愛知県) - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C)
⇒竹生島 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%9F%E5%B3%B6
 後で気づいたが、泥のしずくを落としたようにポッコリとした格好は、国産み神話の「おのころ島」を連想させる。竹生島がおのころ島なのだ(淡路島のどこかではなく)、という異説もどこかにあったような気がしてネットで検索してみたが、見つからなかったかわりにアッ!と驚くタメゴロ~(古い!)な説を発見した。淡路島をそのままひっくり返して裏返した形が琵琶湖なのだという。出典はわからないが、さしずめ王仁三郎の神諭かナントカ神示の類だろうか。
 いずれにせよ、淡路島と琵琶湖は、スピリチュアル地政学(なんだそりゃ?)からいって、相当密接なつながりがあるに違いない。「富士と鳴門の仕組み」くらいに密接なのだ。……たぶん。
(「富士と鳴門の仕組み」については、「吐き出すほう=富士」と「吸い込むほう=鳴門」で地球の呼吸調節をしている、という程度の基礎知識が入門編。秘儀としてはトンデモナイ世界があるらしいので、各自勝手に調べてください
 その琵琶湖の竹生島と三河の竹島が相似形というのも、また何かありそうではないか。
               
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 この竹島橋を渡り、弁天の異界へと踏み込んでいく。
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 前出、「竹島 (愛知県) - Wikipedia」によると、

 先述のとおり、対岸とは僅か400mしか離れていない。しかしながら、竹島は暖地性の植生であり、対岸の植物相とは大きく異なるという特異的な環境である。このため、昭和5年に天然記念物に指定された。昭和28年から行われた調査では、238種の高等植物が自生していることが判明した。

……とのこと。
 さしずめ「ノアの箱舟」ならぬ「ノアの箱島」のように、植物の遺伝子の貯蔵庫という感じがする。生命を生み成し、未来に伝える、女神の島にふさわしい。

 島の入り口にあった、重厚な由緒書き。
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 清潔感ある白い幟がはためくのは、豊川稲荷と同じ。 「八百富神社」とはまた、あやかりたい縁起のいい名前だ。
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  ガバチョ!と口を開き鋭い歯を見せる、手水の龍神さん。これほどの開口型は、珍しいかもしれない。
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 島の頂上では、弁天の同族としてはおなじみの宇賀神を祀る社が、まず眼に入ってくる。
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 こちらは七福神信仰の副産物か。「大黒神社」とある。
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 これは何だ? 姿形としては、明王や四天王に踏みつけられる邪鬼を連想してしまうが、もうちょっと高尚なガンバリを表現しているような? 何をがんばっているのだろう。 
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 本殿の横丁から、「厄除神 八大龍神社」の案内板が、さらに奥へと導く。この時、正面からサ~ッ!と風が吹き込んできて、何かあるぞ?という凄い霊気のようなものを受け止めた。実際には海風なのだが、肌に粘りつかないさわやかな強風だった。
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 そして、この日のベスト・パワースポット。八大龍神社のコンパクトな参道。
 奥宮に八大龍が控えているとは、これまた意味深長だ。一説によると、八大竜王とはヤマタノオロチの浄化した姿であり、母神イザナミの化身なのだ。
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 この延長が海となり、未申(ヒツジサル=西南)の方角から、黒潮と共に汲めども尽きせぬ裏金神パワーが流れ込んでくる。
 実際にはほぼ真南を背にしているのだが、西南を紀伊半島に遮られる入り組んだポケット状の湾なので、西南パワーは一度ここに呼び込まれ、蓄えられてから、南風として上陸するのではないだろうか。
 ちなみに湾を挟んで、伊勢とも眼と鼻の先にある。
 
 この日の後の数日間、全国的に強風が吹き荒れた。列島のカルマを洗い清める浄化の風であり、裁きの風のようだった。
 ちょうど3月20日の春分の日。「一陽来復」というのは、暦の上では旧暦11月の冬至を言うわけだが、この時浮かんだ言葉がそれだった。辛酸を舐めてきた裏の女神の苦渋が、ここにきてようやく洗い流され、清冽な春風に乗って世界を駆け巡る。

 妻も幼少の頃の記憶とはまるで違う和らいだ空気感に、とまどいを隠せないようだった。確かに過去は暗い神社だったのだろうが……。
 (余談だが、この日の竹島の風にあたってからというもの、私はどんなに夜更ししても、朝パッチリ眼が覚めるようになってしまった。また、いつもだったら昼寝したいはずの時でも、やたらとお日様や外気に当たりたい気分になる)

 残りの画像をどうぞ。
 
 島の円周をぐるっと回って、橋に戻る。
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  鳩さんがたむろする、入り口の横の燈篭。
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 岸には、遥拝所のような形で拝殿がある。
          八百富神社 全景
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 その拝殿の反対方向(陸の側)の延長上に、ビルの隙間から昇っていく参道がある。
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 「御鍬神社」とあった。
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 さらに昇っていくと、前回の冒頭で紹介した蒲郡プリンスホテルの庭や駐車場へとつながってしまう。
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 そこから俯瞰した竹島の姿態。桜だったか桃だったか、花の蕾がそろそろ開きかけていた。


 (「竹島弁天」全2回を完結します)

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「弁天」信仰を巡る日本の裏面史

2009,,21
 日本七弁天のひとつとされる竹島弁天へと向かったのは、豊川稲荷に詣でた翌日の3月20日だった。こちらも豊川稲荷以上のサプライズとして、見えない力で引き寄せられた感がある。
 前日の宿に入るちょっと前、走らせている車の窓からお城のような屋根をしたホテル(蒲郡プリンスホテル)を目にした妻が、いきなり声をあげた。子供の頃の家族旅行で、このホテルに泊まった記憶が蘇ってきたのだという。小学校にも上がらない頃かもしれないので、過去が空白の(?)妻にしては珍しいリアクションだ。
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 近くに橋を渡っていく島があり、薄気味の悪い鳥居をくぐって鬱蒼とした森の中に入っていくと、神社のようなものがあった。スピリチュアルなことなど何も意識しない子供だったが、ともかく暗くてモノ恐ろしい印象が焼きついていている。近くに来た以上、もう一度その場所を確かめてみたいという。それは遠慮しつつも、かなり強い御要望だった。
 
 今の時代は神社もかなり整備され、街の灯りも増えて、迫力モノの怖いところは減ったけれど、我々の世代の子供時代には、まだまだ暗くて怖い神社がそこかしこにあったように思う。いや、そもそも神社というのは、日が暮れると怖い場所だっだ。目に見えない何者かが居るという空気が濃厚で、それが必ずしも神々しい存在ばかりでなく、怨霊や魑魅魍魎のような「物の怪(もののけ)」の類も棲息を許されている空間のような気がしていた。かと言って、その怖さが嫌いなわけでもなく、水木しげる的な一種の「負のメルヘン」とでも言うのか、あるいは私特有の怨霊への愛惜・愛着の念だったのか、よくわからないのだが。

 まして弁天ともなると、実は虐げられた先住民系や反体制側の、レジスタンスの信仰対象だった。七福神の一人として毒抜きされてポピュラーになるのは、室町時代以降のこと。(財宝の福神として「弁財天」の名が当てられるのも、七福神信仰が定着してから後のことのようだ) それまでは呪詛と調伏の本尊として、秘教中の秘教の女神だった。
謎の弁才天女―福神の仮面をかぶった呪詛の神 (トクマブックス)謎の弁才天女―福神の仮面をかぶった呪詛の神 (トクマブックス)
(1989/08)
吉田 大洋

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 この女神への信仰は、山伏、忍者、海賊、旅芸人、琵琶法師、など、主に非農耕民の異能の民によって伝えられてきた。彼らの先祖はもとは農耕生活を営んでいた者もあろうが、弥生以降の征服者の支配から逃れるため、土地を捨て非農耕化せざるをえなかった者達もいたに違いない。その後の歴史の大きな転換点では、彼らが裏で重要な働きをしてきたのであり、したがって日本を農耕民の単一文化とする歴史観は、上澄みの気休めにすぎない。

 そうした先住系の非農耕民を束ねてネットワーク化しようとしたのが、役の行者(役小角)だった。縄文以来の古神道への迫害をカムフラージュするため、新興勢力の仏教と習合し、朝廷の律令神道に対抗したのである。
 この基本姿勢は弘法大師:空海とて同じで、空海は列島古来の土地神にも敬意を表していた。そうでなければ、分厚い反体制の古代霊場である吉野・熊野と峰続きの高野山に、拠点を築くことなどできなかっただろう。おそらくは嵯峨天皇との二人三脚で、太古神復活のヴィジョンを描いていたのだろうが、未だ時節到らずと断念し、高野山に戦略的撤退をした。
 隠れ蓑としての神仏習合だった役小角に比べると、空海のほうが各派閥間の調整を試みる折衷志向が強かったため、政治的ステイタスの華やかさとは裏腹に、板挟みの苦悩は深かったようだ。(これはいろんな霊能者や私自身の考えを総合しての判断)

 さて、弁天だが、『記紀』神話ではスサノヲとアマテラスによる天安川での誓約(ウケヒ)の時、十握の剣から生まれた宗像三女神とされている。
⇒神話 みずほのくにのかみのものがたり(4) http://www.d3.dion.ne.jp/~eriko_k/sinwa/sinwa04.htm
⇒宗像三女神 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/munakata.html

『古事記』  ⇒ 多紀理毘売(タキリヒメ) ・市寸島比売(イチキシマヒメ) ・田寸津比売(タキツヒメ)
『日本書紀』 ⇒ 田心姫(タコリヒメ)    ・市杵嶋姫(イチキシマヒメ)  ・瑞津姫(タキツヒメ)
『書紀』別称 ⇒ 田霧姫(タキリヒメノ)   ・奥津嶋姫(オキツシマヒメ)  
 異説    ⇒            ・狭依毘売命(サヨリヒメ)   ・多岐津比売、滝津姫(タキツヒメ)

 宗像神社の配置としては、タキツヒメが辺津宮であることは共通だが、タキリヒメとイチキシマヒメの位置が『古事記』と『日本書紀』では逆転している。
『古事記』  ⇒イチキシマヒメ:中津宮、タキリヒメ:沖津宮
『日本書紀』 ⇒タコリヒメ:中津宮、イチキシマヒメ:沖津宮

 全国の弁天社では、この三女神のうちのイチキシマヒメを弁天として祀っているところが多い。
 また、異説として、三女神のひとり、タキツヒメに「滝津姫」の字を当てるところから、この女神を滝と禊の女神:瀬織津姫だとする見方がある。奈良~平安朝以降の権威の象徴である伊勢皇大神宮のアマテラスよりも以前からの、消された縄文の※天津神:瀬織津姫と姉妹神であったとなると、この弁才天女も日本のプリミティブな原型に近い女神ということになる。
(※征服王朝以前の縄文系先住民の神を、すべて「国津神」とするステレオタイプに、私は異を唱えている。真の天津神は国津神以上に封印されてきたのだ。問題の核心は「天津神]VS「国津神」ではなく、「真の国祖神&真の天祖神」VS「イミテーションの天津神」である)

 一方、インドの河川の女神、サラスヴァティが弁天の原型であり、宗像三女神は後から習合したものであるとする見方も根強い。
⇒蛇~弁天・弁才天・弁財天の蛇 http://www15.plala.or.jp/timebox/top/07sinsi/fukuda/hebi/hebi-1.html
 サラスバティと霊的な縁戚関係はあったかもしれないが、日本の弁天は弁天で独自のルーツがあるのだと私自身は思っている。それも『記紀』神話に出自を求めるのは無理なくらい、太古神の系譜であり、実は母神イザナミと非常に近親性があると直感している。
 世界の矛盾を背負い、ひとり黄泉の国に堕とされたイザナミの、男神の“逃げ”と“責任転嫁”を憎む気持ちを剣の攻撃性で代弁しているので、これは生半可な男権社会にとっては相当デンジャラスな神には違いない。反体制側の怨念の受け皿としても、ぴったりの信仰対象だったのだ。
宝厳寺(滋賀県長浜市・竹生島) 東京藝術大学蔵の弁才天立像
 △左:宝厳寺(滋賀県長浜市・竹生島)の弁天像  △右:東京藝術大学蔵の弁才天立像
⇒弁才天 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%A4%A9%E5%A0%82より。

 初期の弁天像は、八臂(八本腕)で剣や弓矢などの武器を持ったものだったが、ヒンズーのサラスバティは四本腕らしいので、腕の数が倍に増えている。日本の弁天のほうがより密教化していた、と言えるかもしれない。(腕の数で秘教の度合いを計るのもへんなものだが、人間離れした異形の姿のほうが、「取り扱い注意」的な危なさを感じさせる)

 天河弁才天に伝わる曼荼羅の絵姿は、さらに奇怪なもので、三面蛇頭の妖怪みたいだ。
⇒弁天さまはなぜ脱いだ http://www.zoeji.com/06syoron/06-sanwa05/06sanwa-benten.html より。
               天河秘曼陀羅
 この多頭蛇身のモンスターぶりは、イザナミの転身がヤマタノオロチになったという異説を想起させる。(霊体というものは本来、内実の心性に従って変身が自在なものだから、激しい怨念の発露としての姿という見方もできないだろうか)
 
 鎌倉時代に琵琶を弾く優美な姿として慕われるようになったというが、これもイザナミ本来の美と愛の特性を受け継いでいる気がする。
江の島の妙音弁財天 淡路島弁才天(智禅寺)
 △左:江の島の妙音弁財天
⇒江の島天王祭(錫杖)-日本裸祭全集(和田フォト) http://wadaphoto.jp/maturi/maturi078.htm より。
 △右:淡路島弁才天
⇒淡路島弁才天 http://www.awaji-is.or.jp/t4sara7/home/bentenbmp.htm より。
 
 優美な技芸神の面を持ち合わせているのは、白山妙理姫(菊理姫)もおそらく同じであり、その大本のルーツをたどると、前回に論じた豊受・豊雲野のヒツジサルの裏金神グループになる。
 しかし、この地母神グループは剣を持たないエコロジーの食物神の働きで括れるが、弁天は剣を持ち非農耕的であるところが、山の民であるウシトラの金神グループに近い。あるいは、龍蛇神を従え剣を携える女神としては瀬織津姫とリンクするが、瀬織津姫は天降る水神であり、弁天は川や池や入り江など、一般には地上の水神である。

 瀬織津姫や白山菊理姫がクールビューティで、反面さばさばとした“男気”のある女神とすると、イザナミや弁天は底なしの情の深さを持つ一方、女性特有の愛憎のエキセントリックなところのある女神、という二分法もできそうだ。

 以上の私の勝手な印象を整理すると、次のようになる。

弁天      女性的でエキセントリック   非農耕的   剣を持つ     武・芸両道
イザナミ    女性的で情が深い       農耕的        剣を持たない   芸能神的
瀬織津姫   男性的で豪胆          非農耕的       剣を持つ     武神的
菊理姫     中性的でクール          マルチ文化的    剣を持たない   芸能神的

豊受大神   両性的だが、核は芯の強い女性性
         自然生態系に則った農耕・食物神
         剣で表現しないが、肝っ玉は不屈
         武・芸の具体的表現はとらない自然根源神



 ☆以下、「竹島弁天」紀行編として、次回へ続く。



最大の謎にしてタブー ~ 豊川稲荷の“豊”は、豊受大神の“豊”か ~

2009,,09
前々回、謎の超人:寒巖禅師と、謎の女神:豊川ダキニ真天、……と私
前回、豊川稲荷ギャラリー ~ 大本殿から霊孤塚へ ~
の続編となっています。


 
 前回ギャラリーの続きからどうぞ。

 趣きのある木立ちの中の奥の院。「奥の院」とは言うものの奥ではなく、本殿の横方向、霊狐塚の手前の位置にある。
 参道の真ん中に立つ樹も伐らずに残しておくセンスは、いいんじゃないだろうか。
木立ちの奥の院

 お参りしようとしたその時、お散歩気分の鳩さんがゆっくりと社の床を横切った。間近からカメラを向けても逃げようともしないので、ちょうど真ん中の位置で写真に収めることができた。何かの吉兆だろうか。
          鳩

 大本殿の新築にともなって、ここに遷された経緯が説明されている。
               奥の院:説明

 こちらは鎮守堂。
               鎮守堂

 私の眼を惹きつけたのは、祭神が白山妙理大権現という説明。道元や曹洞宗にとって、白山の神がそこまで縁の深い守護神だったとは、初めて知る話だったからだ。
          鎮守堂:説明

 道元が開いた日本曹洞宗の大本山である永平寺は、加賀・越前・美濃の白山信仰地帯と位置的に重なっていて、道元が白山妙理権現に護られたという話は、一見、理にかなっているようにも思える。しかし、道元はあのあたりの生まれ育ちではないはずだし、永平寺を開くのも宋から帰国してから後のこと。当初は京で教えを広めようとしたものの、当時の保守勢力である比叡山天台宗の妨害を受け、越前に新境地を求めたという経緯がある。
⇒永平寺 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA
⇒道元の教えと道元後の意外な展開 http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/eiheiji/4,dougen%20osie%20sonogo.htm 
 にも関わらず、白山妙理権現が道元禅師を助けたという故事は、道元が宋から帰朝する前夜であり、永平寺など影も形もない頃である。白山の神と道元との繫がりは、この世の時系列を越えたところで、あらかじめ約束されていたものだったのだろうか。
 ※ちなみに宋国で道元を加護した白山妙理権現は、古神道の姫神(白山妙理姫・菊理姫)ではなく、道教の神仙のような老翁の姿であったらしい。(※↓末尾「追記2」参照)
⇒大本山總持寺◎「看経(かんぎん)」(修行生活その六 http://www.sotozen-net.or.jp/books/syuppan/tomo/0706/0706_b.htm
⇒白山妙理大権現 - 祇園の仏事 少林の家風 - Yahoo!ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/sotozen7676/22979496.html
 白山神道系の霊能者によると、そもそも白山神界は日本だけのものではなく、世界中にネットワークが形成されているというが、計らずもここに傍証があったということか。

 では、道元を加護したその白山妙理大権現と、道元の直弟子である寒巖禅師が帰国の船上で邂逅した(後に豊川稲荷に鎮座する)ダキニ真天とは、いったいどう繋がるのか繋がらないのか。これがここでの謎の焦点なのだが、私には瞬間的に腑に落ちてしまった。常識的な頭の判断ではないので、この感覚はなんとも説明しがたいのだが……。

 視点を変えるならば、寒巖禅師の感得したダキニ天は、なぜ「豊川」の地に祀られ「豊川稲荷」となったのだろう。「豊」の言霊が導く“何か”が、そこにあったのではないか。それが私の“ひらめき”の起点だった。
 「豊」の付く古い地名として有名なのは、北九州の豊前・豊後などの豊国だろうが、もうひとつ、神社神道における最高権威、伊勢神宮の外宮のことを「豊受大神宮」と呼び、主祭神を「豊受大神」というのを御存知の方も多いだろう。
 外宮神官の渡会家の神学では、豊受大神は『記紀』の最高神である天御中主や国常立と同神であるとしている。(普及版の一般論による)単なる食物給餌係の保食神・御食津神であることを暗に否定し、内宮のアマテラスよりも上位であるとの優位性を主張したわけだ。(伊勢は決して、一般人がしたり顔の似非識者にまるめこまれてきたような、終始一貫した「和」の場などではない。上古日本の多元重層的なものの内紛を言いくるめるため、強迫的・脅迫的に「和」を主張していなければ自己満足できない人達の「仮面の殿堂」であり、「歴史隠蔽の防波堤」なのである。だからこそ最大の謎であり、そのスジの日本人にとっては最大のタブーなのだ)

 外宮神が今の地に遷座する以前のルーツである丹後一宮:籠神社の伝承や、近代日本最大の預言者であり怪人であった出口王仁三郎も、この点では意見が一致していたようだ。
⇒裏金神(うらこんじん) 原爆をこの世に ... - Google ブック検索 http://books.google.com/books?id=mT32gb3ETzUC&pg=PA267&lpg=PA267&dq=%E6%B8%A1%E4%BC%9A%E7%A5%9E%E9%81%93%E3%80%81%E5%A4%96%E5%AE%AE&source=bl&ots=jBmHRbjvYL&sig=R4NaJR7vY7RVaPK9Uoaa2ENty6o&hl=ja&ei=vwTbSfzDDsWIkAWp8aiwCA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=7#PPA268,M1
 このへんは詳しく検証していくと議論百出で収拾がつかなくなるほどの、神道界最大の迷宮であり、タブーでもあるので、ここでは私の直感だけを述べておこう。
 ①渡会神道②籠神社の伝承③出口王仁三郎の慧眼、による「豊受大神=天御中主や国常立」という構図は、基本的に正しいと思うのだが、半分だけの正しさなのだ。

 「豊」の付く神名は女性神であることが多い。かと言って、外宮トヨウケが女性神であり、内宮アマテラスは男性神である、という混線した逆説も私は支持しない。内宮と外宮で一対の男女神を祀っているという、その前提自体に疑問を抱き始めているからだ。

 内宮は時の体制側が人為的に構築した権威の象徴なのであり、外宮は神託(夢告)によって後から創建されたものである。内宮が本当に太古の根源神の意向を反映する神殿だったならば、初めからペアの形態をとらせたはずで、そうではなかったことが、人間都合の(近い代の特定の部族の祖神として)政治目的で建てられたことの物証である。

止由気宮儀式帳によれば、雄略天皇のとき、天皇の夢に天照大神が現われ、「吾れ一所のみ坐すはいと苦し、しかのみならず大御饌も安く聞こし召さず、丹波国比治の真奈井に坐す等由気大神を、我が許に連れて参れ」とおおせられた。この教えに従って丹波からお迎えしたのが豊受大神宮であるという。
⇒社家の姓氏-度会氏- http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_wata.htmlより。

 外宮は内宮の祭祀形態を修正するための、神界からの働きかけなのだ。男女・陰陽の片割れとしてではなく、大元の祖神として、外宮“だけ”で“もともと”男女の対であり、子孫の神々のプロデューサーとしての仲人神だったのである。為政者の都合によって検閲され捏造された不完全イミテーション版の内宮祭祀を、本来のあるべき姿に復元・更正するための、ノーカット完全版のサンプルが外宮祭祀だった。
 したがって、内宮と外宮はペアで補完するのではなく、内宮から外宮へと、一旦、神権を返納するべきものだ。あるいは内宮を一度リセットして、外宮の祭祀スタイルへと、ダウンロードの更新をするべきなのだ。それが成った時には、外宮は御用を終えて元伊勢の奥の院に隠遁してもいいのである。

 近頃よくささやかれる内宮にまつわる異聞は、祭神が女神であるか男神であるかという、「男か女か」の優位論に傾くきらいがある。どちらか一方を優位にしてしまって(あるいは、一方を「崇り鎮め」的におだてあげてしまって)、縦の序列に収めてしまえば安心する、というのが、こういう人達の事なかれな感性である。男女・陰陽の間を相も変わらず頑なに「岩戸閉め」して、力関係のみで支配・服従(=力主体従)し、姑息な処世術で間に合わせようとしている。私に言わせれば、どちらも同じ穴のムジナであり、古神道でもなければ縄文でもない。

 繰り返すが、外宮祭祀はそのものの内に、“初めから”女神も男神も共存しているのだ。女神の中に男神が働き、男神の中に女神が息づく、裏表の相互浸透・相互交流として宇宙・大自然は機能している。そういう本来の祀りの場として、降ろされた「型」だったのだ。
 それを内宮の神が「独り身で寂しいからという理由で」相手を引き寄せた、などと世俗レベルの男女の戯れ事に矮小化して、外宮創建の経緯を解釈するのは、いかにも子供だましで見苦しい。
⇒古代史謎解きの「キーパーソン50」 名 ... - Google ブック検索 http://books.google.com/books?id=XaNcvJZH7d8C&pg=PA33&dq=%E8%B1%8A%E5%8F%97%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E3%81%8C%E3%80%8C%E7%8B%AC%E3%82%8A%E8%BA%AB%E3%81%A7%E5%AF%82%E3%81%97%E3%81%84%E3%80%8D%E3%81%A8&as_brr=3&hl=ja
 おおかた「下位の神(内宮)が根源の神(外宮)のサポートなしで、世を治めるのは自信がなかった」というのが本音である。それはちょうど、広告塔を務める影武者が、本物の指示を仰がなければ心もとない、というのと同じ心象風景である。
 
 豊受大神の謎解きにもどろう。
 外宮の主祭神が最高神である天御中主や国常立と同神である、というのは、基本的に正しい。
 しかし、豊受大神は女神であり、天御中主や国常立は『記紀』で「独り神」とされるも男神のイメージが強いので、矛盾するかのように見える。
 とは言え、実は外宮は男女の両神を表裏一体で祀る場なのであり、男性最高神の天御中主や国常立と同時に、太母神の豊受大神の神威が、縦糸と横糸のように組み合わさりながら表裏一体に降臨していてもおかしくないのである。

 出口:大本教の神学では、国祖神「国常立」の妻神として「豊雲野」を挙げているが、これが別名「ウシトラの金神」に対する「ヒツジサルの金神」である。方角で言うと、鬼門(東北)に対する裏鬼門(西南)の神となる。この「豊雲野:ヒツジサルの金神」こそが豊受大神ではなかったか、というのが私の大胆な着想となる。

 鬼門神:ウシトラの金神は、これまでもあちこちで語られてきたので、耳にしたことのある人も多いだろうが、対の裏鬼門神:ヒツジサルの金神のほうは、ネームバリューとしてあまりにもマイナーだった。それだけ強力に封印されてきたということだろうが、実は我々人間の実生活に身近なのは、こちらの妻神のほうなのである。
 なぜならば、両神とも地球の祖神であることに変わりはないが、「国常立:ウシトラの金神」は、山や谷や、岩石や地殻の硬い部分や、原生林や、海底の水や、地核など、剛性のものを自身の霊体の分身として物質化させた大神だが、「豊雲野:ヒツジサルの金神」のほうは、地表の柔らかい土や、農作物や草花や、地表に近い部分の水や大気など、柔性のものを司ってきた大神だからだ。
(この段落、私見によるアドリブで、資料はなし。だが、九星気学や奇問遁甲の八卦方位盤による「八白・艮(丑寅=東北)」「二黒・坤(未申=西南)」の基本象意とほぼ共通すると見ている。
⇒九星気学 http://www.layer.ne.jp/~ushio-ekidan/kyuusei/kyuusei01.html
 「~の金神」と言いながら、五行思想での属性は「土星:土性」となってしまうが、私は「コンジン」の本当の字句は「金神」ではなく「根神」、即ち、地球の「根本の神」の意と解している)

 この男女両神の働きは、本来、融通無碍で、部分的な互換性(役割交換)はあってもいいのだが、伊勢外宮の場合、表札に女神「豊受」の神名を持ってきたのは、「ヒツジサルの金神」のほうが地球の地軸を西南の方向から支える神であり、世界の雛形である日本列島においても、西南の霊場の帰着地点である伊勢は、この女神の守備範囲だからである。「ウシトラの金神」の持ち場は関東以北~東北であり、こちらの神威はまだ土壇場まで秘されたままとなっている。

 もうひとつは、根源なる超古代に遡るほど日本神界はレディファーストであり、男神は縁の下の力持ちでどっしりと構え、あるいは目立たぬ黒子として女神を命懸けでサポートしエスコートする、というのがスタイルだったからだと思う。
 これが有史以後、中間期の“昔”になると(現代人が「昔はこうだった」というレベルの「昔」や「伝統」)、ポジションが反転すると同時に、役割が分断固定化する。そして現代に至って、再び、男女陰陽のフォーメーションの再編が起きているようである。


 それでは、本題の豊川ダキニ真天や白山妙理権現と、豊受大神との関係はどうだったのか。
結論だけ言うなら、同じ親神(豊受大神)から分かれた子孫神(豊川ダキニ真天&白山妙理権現)というのが、私の直感だ。いわば神霊の親戚(兄弟姉妹や従兄弟姉妹?)である。
 白山菊理姫の場合は、母神イザナミのさらに母神かもしれない、という説を前に他の場所でも論じたので省略するが、「豊受大神→白山神→イザナミ」という母神の系譜は、さほど抵抗なく受け入れていただけると思う。(円空の足跡をもとに瀬織津姫の復権を期するグループは、白山姫=瀬織津姫という構図を描いているので、承服しがたいかもしれないが、ここでそれを論じていると先に進まないので、とりあえず保留する)

 ダキニ天のほうはと言うと、これはインドの人喰い夜叉だったということで、常識的にはなかなか受け入れがたいものがある。しかし、このダキニはインド神話において決してポピュラーな神ではなかったらしい。一地方のローカル神(あるいは少数民族の神?)が仏教に取り入れられたもので、それだけ史料も乏しく謎の存在なのだ。

ダキニは日本では比較的知られるインドの神であるが、本場インドでは、逆に無名である。彫像があまり見当たらないのはそのためだが、一般インド人に「ダキニなんて知らない」と言われたことが何度もある。
⇒ダキニ(黒魔術の系譜) http://chaichai.campur.com/indozatugaku/dakini001.htmlより。
(↑余談だが、このHP、東南アジア~インドの宗教習俗の理解として相当面白い!)
 日本では呪詛や戦勝の女神として弁天と習合したりしている裏の顔もあるが、本当にそんなおどろおどろしくも凶暴なだけの神だったのだろうか。屍肉や内臓を食うということは、腐敗したものが虫や微生物や菌類に食われて土中で分解し、土壌を豊かにし、草木を育てる養分となる、そういう生態系の再生サイクルを暗示してはいないだろうか。また、そこから、農作物の豊饒を促がす「稲荷」の神へとつながっていく。そうは考えられないだろうか。
(但し、これは霊主体従メカニズムからくる私の直感であり、学術的な歴史・民族・宗教学の解釈とはまるで違う。私自身、豊川稲荷に詣でるまでは、ダキニは征服されたインド先住民や下層階級の、怨念混じりのおどろおどろしい邪神かと思っていたのだ)

 そこで、ここが問題となるのだが、ダキニ真天の利益する「再生」「豊穣」とは、あくまでも地球生命全体の生態系サイクルを健全化するがためのものであり、人間都合の人間利益だけを優先する「再生」「豊穣」ではない!ということだ。
 それはちょうど、不耕起、不除草、不施肥、無農薬を原則とする「自然農法」と、目先の収穫・収益の効率だけを追及した、農薬まみれの農業ほどの違いがある。
⇒自然農法 – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E8%BE%B2%E6%B3%95
⇒自然農法・微生物 http://www.geocities.jp/sizenyasai07/farm/microbiology.htm
 現代においても、この両者は敵対している、……と言うより、自然農法の側が奇異の目で見られ、なにかとイチャモンをつけられているが、上古の時点でもおそらくそうした対立はあっただろう、と私は見ている。農薬や化学肥料こそなかったものの、侵入した征服者が先住民を奴隷化して農耕作業をやらせる時、求めるのは目先の収穫・収益である。その土地にもとから居た者ではない故、その土地や自然の生態系に無頓着だからだ。

 日本人は農耕民族、農耕民族と復唱する者は多いが、私が素直に聞き入れることができないのは、そうした農耕“奴隷”民族のDNAが鼻につくからだ。自然農法を提唱・実践する者は、どうしても「和を乱す」少数派として白眼視されがちなのが、その動かざる証拠である。
 奴隷化した民は、上(多数派)にへつらい下(少数派)を蔑むという「いじめ」の習性を、保身の術として本能化する。「多数決」の「民主主義」の美名の下に、少数派である不服従の、本当の大地の民を、「和を乱す」異端分子として排斥し、闇に葬り、挙げ句の果てはキレイさっぱり忘却する。そして「日本は昔から平和だった」と言って、媚びへつらった自分を慰めるのである。日本の敵は日本人であると、私は常々思っている。
 土壌が薬品で汚染されるのと同じように、人の心も洗脳によって汚染される。私はそんな「農耕民族」にはなりたくないから、「日本人=農耕民族」説には頑なに沈黙する。字面だけでは、否定も肯定もしづらい世界だからだ。

 おそらく、豊川ダキニ真天は、そうした歴史的・民族的な捻れや歪みとしての重い十字架を、最も背負ってきた神の一人なのだろう。農耕“奴隷”民の優等生である日本人からは、強烈な反発をくらうであろう鬼っ子の農耕神だからである。
 しかし、この行き詰まった地球文明において、この「ヒツジサルの金神」の流れを汲む女神の封印を解かない限り、もはや人類にも未来はないはずだ。天からの禊(浄化)の女神が瀬織津姫だとするなら、地からの再生の女神が、豊受・豊川の白山・ダキニ神系となる。
 腐敗したものを生命の再生サイクルに還元する、……それは神話的に比喩するなら、黄泉の国を浄化再生することであり、根源の太母神から流れ来たる、万類への癒しのエネルギーだ。言うまでもなく、母神イザナミもそこで完全復活し、地母神グループの無敵の大連携が完成する。

豊川稲荷ギャラリー ~ 大本殿から霊孤塚へ ~

2009,,31
 前回(⇒謎の超人:寒巖禅師と、謎の女神:豊川ダキニ真天、……と私)の続編として、今回は写真解説主体です。

 豊川稲荷の境内は、どう見てもシンメトリーを無視した不思議な配置をしている。一番大きな本殿が向かって左側の参道奥に構えているが、あとはかなり不規則だ。
annaizu001a.jpg
↑豊川稲荷公式ホームページ/各種御案内 http://toyokawainari.jp/inariframe3.html より転載。

 本殿に向かう参道の、最初の鳥居。(一の鳥居?)
大鳥居

 その両脇の、最初の狛犬ならぬ狛狐。
狛狐:左 狛狐:右

 本殿すぐ前の狛狐を、本殿側から写してみた。インドにおいてはダキニの眷属は狐でなくジャッカルだったというが、なんとなく面影があるような……。
               狛狐:本殿側から左
               狛狐:本殿側から右

 大本殿の説明版。「伏見宮家」の名が見える。伏見稲荷とも交流があったのだろうか。「豊川閣」と呼ばれるのは有栖宮家から下賜された大額に由来するらしい。
大本殿:説明

 参道左横に面して、「寺宝館」という、仏教美術を収めた立派なミュージアムがある。その入り口に控える赤土色の狛狐。なんとなくエジプト的な雰囲気がしないでもない。(どうしても狐には見えないけれど)
美術館の狛狐:左 美術館の狛狐:右

 寺宝館の中にあった、現代画家が描いた不動尊。(胸が光ってるのはフラッシュの反射)
          不動尊
          不動尊:説明

 これは珍しい、准提観音の像。「諸仏の母」と言われる密教の仏。龍王をしたがえ、剣を持っているところは、秘仏としての日本の弁天や瀬織津姫との習合を思わせる。
          准提観音
          準低観音:説明

 これも独特の構造。各建造物を橋渡しするような形で、地上高の高い回廊が巡らされている。そのむこうに千本幟が見える。
               回廊の下から

 千本幟は信者や参拝者が一本二千円で奉納するらしい。
               千本

 少し行くと、「霊狐塚」の案内の石碑に出会う。これを見た時、この先でたくさんのお狐さんに会えるという予感がして、なぜだか切なく、ときめくような、はやるような気持ちになった。むこうの気持ちがこちらに伝染していたぶんもあるだろうか。
               霊狐塚:石碑

 奥へと誘うように、霊狐塚の参道が続く。鳥居は石の地肌のままに白っぽい。幟(のぼり)も白が基調で文字が赤。並木のような千本幟の列が、一種の結界を感じさせる。伏見系の妖しげな赤い鳥居のトンネルよりも、私はこちらのほうが清楚な印象を受ける。
霊狐塚:鳥居

 参道の途中に、ところどころ守衛のように左右一対の狐が配置されている。でも、これは狐というより、犬だねえ。狛犬の犬というより、本当にそこらへんにいそうな飼い犬を漫画チックにした感じ。
霊狐塚:狛狐1左 霊狐塚:狛狐1右

 こちらは大胆なデフォルメ。耳がなければアヒルかワニか……。
霊狐塚:狛狐2左 霊狐塚:狛狐2右

 参道がそのまま林の中の霊狐塚へと導く。さながら、この寺の奥の院の様相。
霊狐塚:参道

 石垣のすぐ外側に居た母子狐。かなり漫画チック。
               母子狐

 護衛隊のような、岩場の狐。ここの狐だけが、あきらかに雄とわかる凛々しい姿をしていた。
 岩狐

 将軍狐?の雄姿。
               岩狐:近影

 反対側の小さめの岩の上に、雌の見返り狐がいた。
                    見返り狐

 場に溶け込む私……。白髪染めが半端なせいか、はたまた光線の具合か、髪の色が狐のよう。(ちなみに同じ日の他の写真では、ここまで不思議な髪の色に写ってはいない)
                    遠近ショット

 呆けたような表情の子狐。全体に伏見系の狐よりひょうきんで、のどかな印象を受ける。 
               にやけ狐

 コーラスグループのように整列する狐たち。
整列

 おびただしい数の群狐。とても全景を一枚に収めることはできない。
群狐1
 
 だいたい同じ方向を向いている。各部署にリーダー格の狐が居て、統率しているような印象。
群狐2
 
 これだけ居ると壮観
群狐3

 この霊狐塚は「もとは納めの狐像を祀る場所でしたが、現在では御信者の献納された像が安置されています」とホームページにある。ひらたく言うなら、御用が済んだ像をお返しする場所だったものが、現役の神聖な霊場に昇格してしまったということだろうか。狐の造形や表情が様々で個性豊かなのも、個人が造って奉納したものなので、画一的な規格がないからかもしれない。

 ここにしばらく居ると、脳髄が軽くジ~ンとしびれるような感覚に見舞われる。かなり濃厚なスポットなのだろう。直通の高次元というのではないが、霊的次元と物質的次元を結びつける接着剤のような役目を、このお狐さんたちは担っている気がする。
 なぜ「狐」なんだという疑問は誰しも抱いたことがあるだろうが、私はこの霊狐が必ずしも動物霊だとは思っていない。自然霊の能動的な形態の一種なのだ。この世の哺乳類の狐の死後霊魂なのではなく、物質界が出現する以前からの、原初の地球霊の分け御魂として分かれ分かれた末の、ひとつの表現形態なのだ。つまり、もともと霊体なのであり、この世の動物に転生して生を持ったことがあるかどうかは別問題だ。(この意味では龍神も蛇神も天狗も同じ。だから爬虫類の死後霊魂などはるかに超越した知的霊体であり、「神」なのであり、その大元締めは地球の「創造主」でさえあるのだ)

 しかし、人類が自然破壊を繰り返すことによって、彼らは多大なる犠牲と拷問的な苦痛を強いられることになる。そこで耐えきれず、人間界への復讐のため怨霊化・邪神化するケースも多々ある。とは言え、もとのお役目は地球道場の世話係として人間界をサポートすることでもあったので、心の基本姿勢が正しい人には力を貸す健気な霊狐もたくさんいるのだ。
 この怨霊組の邪狐と、守護霊組の神狐の勢力とは、これまでの段階でおそらく半々くらいだったろう。その大元締めが、伝説にある金毛九尾の邪狐と、白狐九尾の神狐である。頭でっかちの人には、この区別がなかなかつかない。知能犯の邪狐は、巧みな偽装工作を張り巡らしてくるからだ。
 豊川稲荷の狐が人喰い悪鬼の使いだと、一部で吹聴されてきたのも、その偽装工作のひとつだったと私は見ている。地球神である国常立尊(クニトコタチノミコト)=ウシトラの金神が、つい最近まで邪神とされ封印されてきたのと同じ流れである。私は伏見系よりもこちらのほうが、さらに本源の神狐に近いと思っている。

 邪神にそそのかされ真の地球神・自然神を封印してきた、日和見で軟弱なくせに自信過剰な、偽りの人間神の時代が、今、終焉を迎えようとしている。
 ただ、こういうことは、誰か偉そうな人がそう言ったから教条的に信じ込むという姿勢は、同じ過ちの繰り返しなのだ。“正”とか“邪”とか、固定した実体があるわけではない。
 世は無常だが、移ろう自然は美しい。苦難を乗り越えた人生こそ美しい。怠らず、正しい夢を描いていきましょう。


(豊川稲荷編、次回、もう一回あります)

謎の超人:寒巖禅師と、謎の女神:豊川ダキニ真天、……と私

2009,,21
 3月19~20日の一泊で、三河地方の低山を二つほど登ってきた。例によって、磐座(いわくら)祭祀跡の探訪が目当ての旅だったが、現地に行ってから何気なくお参りした寺社に、思わぬ感銘を受けてしまった。

 ひとつめは豊川稲荷(豐川閣妙嚴寺)。
 日本三大稲荷のひとつとしても知られる、かなりポピュラーなお稲荷さんだが、私は今回が初めて。もっとも、伏見稲荷も笠間稲荷も祐徳稲荷も行ったことがないので、大きなお稲荷さんとしてはこれが初体験となる。
 稲荷の総本社とされる伏見以外で、残りの三大稲荷がどこになるのかは諸説あり、まだまだスケールの大きな稲荷社が各地にあるらしい。
⇒荼枳尼天 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E 
⇒Sight-seeing Japan 三大稲荷 http://www.sight-seeing-japan.com/genr/gin3.html

 それらの中でも豊川稲荷が特殊なのは、仏教の寺院(曹洞宗)であり、インドのダキニ(荼吉尼、荼枳尼、咤枳尼)天神を稲荷として祀っていることだろう。(神道の神社では食物神・穀物神のウカノミタマを稲荷大神としている)
⇒稲荷信仰 http://www.geocities.jp/johannes_schiffberg/Inari.html
⇒ダキニ(黒魔術の系譜) http://chaichai.campur.com/indozatugaku/dakini001.html
⇒ウカノミタマ - Wikipedi http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%9E
そのため伏見系の稲荷は日本の正神だが、豊川稲荷は人喰いの恐ろしい悪鬼だという霊能者もいる。

 そうでなくとも、稲荷というと「狐=人を化かす」というイメージが強く、地方の小さな社や祠などではどんよりとこもった暗い雰囲気を感じさせるものも多い。スピリチュアル系の人でも(だからこそ?)敬遠するむきがあるは、このためだろう。
 おそらくはローカルな自治体の範囲内での「怨霊」的な存在を、(人霊・動物霊・自然霊を「問わず)すべて「稲荷」の名の下に祀ってしまった慣習があるので、妖しいパワーを持つ場が多いのだろう、というのが私の推測だ。それらすべてが元の稲荷大神のせいではないし、眷属のお狐さんのせいでもないのだが。

 話の順序が錯綜するが、霊的な縁としての私と豊川稲荷とのコンタクトは、実を言うと30年以上も前にさかのぼる。
 ある日、寝床の中のアルファ波状態の母の瞼の裏に、白狐の霊姿がくっきりと現れた。当時の私は、魔霊・邪神の類とさんざん交戦していた魔神バスターだったので、霊戦の戦友状態だった母も警戒心もりもりで、反射的に魔除けの真言を唱えていた。ところが、その不動尊の真言のリズムに乗って、狐さんはますます元気になって跳ね回ったあげく、母の顔のまん前、数センチの距離まで迫り、ニコニコ顔でにらめっこしたという。次の瞬間、「トヨカワイナリ」という発音が、母の口をついて出た。
 当時の私は(おそらく母も)どこかで名前を聞いたことがあるなという程度で、豊川稲荷がどこかも知らず、地図で調べて赤坂に東京別院があることを知り、二人で挨拶&お礼参りに出向いた。何のお礼かというと、ちょうどその頃、私は指圧の免許を取りたてで、手探り状態のまま自宅で細々と開業する運びとなり、その商売繁盛の守護を、ありがたくもあちら様から申し出てくださったような気がしたからだった。稲荷というと商売繁盛のイメージがあったのだ。

 ややこじんまりとした東京別院に着くと、参拝者を堂内まで招き入れてくれて、勤行(祈祷?)をしているところだった。我々も床の上に座り、若い僧侶達の読経や真言を聞き入った思い出がある。
 面白かったのは、ここの寺の読経のリズムが、ぴょんぴょこぴょんぴょこと動物が喜んで跳ね回ってるような躍動感を感じさせることだった。偶然かどうか、不動尊の真言も繰り返し唱えていたので、てっきり不動明王が本尊の真言宗の寺だと思い込み、大きな本院が愛知県のほうにあることも、長いこと知らないでいた。(そもそも赤坂の豊川稲荷が別院だということも、はっきりした認識はなかった)

 実際には曹洞宗の寺なのだが、オカルティックなものには我関せずのはずの禅宗が、こうした天神の加護を仰ぐというのはかなり異例な気がする。この違和感は私だけのものではないはずで、次のブログが代弁してくれている。
⇒稲荷信仰 http://www.geocities.jp/johannes_schiffberg/Inari.html より

 そもそも曹洞宗という、高潔を持って知られる道元禅師を開祖とし、只管打坐という極めてストイックで厳しい修行で知られる宗派が、ダキニ天のような密教の中でも相当妖しげなものを看板に掲げていること自体が驚きなのだが。

 本院のダキニ天信仰の縁起を知ると、この驚きはますます増幅し、奇跡との遭遇のような畏敬の念にさえ打たれる。少し長くなるが、公式ホームページから引用しよう。
⇒豊川稲荷公式ホームページ/豊川稲荷略縁起 http://toyokawainari.jp/inariframe1.html より

               img_zenji-a01.gif

 豐川閣妙嚴寺の歴史は寒巖義尹(かんがんぎいん)禅師を抜きにして語ることは出来ません。
 寒巖禅師は第八十四代順徳天皇の第三皇子として京都の北山にお生まれになりました。
 出家得度当時は天台の教学を学ばれておりましたが、後に越前の日本達磨宗にて禅に参じ、さらに文暦元年(西暦1234)の頃、宗風一世を風靡していた日本曹洞宗祖道元禅師を宇治の興聖寺に尋ね、親しく膝元に参ずることおよそ十年、御年二十六歳の時道元禅師の法をお嗣ぎになりました。

 寛元元年(1243)「時世を救う」の大願心を発して当時宋代の中国へ渡り諸山の名刹を行脚、諸名徳に歴参して仏法の深義を究められました。建長六年(1254)に帰国された折りには師道元禅師はすでになく、永平寺は二世・孤雲懐弉禅師の代になって居りました。その後寒巖禅師は宇治・興聖寺にて道元禅師の語録を編纂集成されました。 弘長三年(1263)語録を携えて再び入宋、諸山を尋ね道元禅師語録の跋文を受けられ、文永四年(1267)に帰国、筑前博多の聖福寺に身を寄せられました。

 その後は宇土郷に三日山如来寺を創建、つづいて飯聚寺を開いて大悲像を安置、建治二年には熊本は釈迦堂村に青堤山極楽寺を開き、同年五月、自ら筆をとって幹縁文を草し、四方に勧進して浄財をつのり、白河・川の難所に大渡橋を約一年半を費やして架設、弘安六年その大渡橋畔に大梁山大慈寺を創建、また弘安七年には飽託郡の海辺に約200ヘクタールもの農地を干拓、開墾される等、「時世を救う」の大願は一つずつ成就し、その数重なる衆生済度の実績は九州一円は言うに及ばず、遠く鎌倉の将軍の元へ、また天皇の在す京都にも伝わるものでした。

 永仁七年(1299)八十三歳にして大慈寺をお弟子に譲り、正安二年(1300)八月二十一日、八十四歳の天寿を全うして御入滅せられました。寒巖禅師のお墓は大慈寺、如来寺及び浜松普済寺にあります。

 寒巖禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。

               img-daki001c.jpg

 見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。
 「オン シラバッタ ニリウン ソワカ」
 「われはこれ咤枳尼真天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」
 この出来事に深く感激された寒巖禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。

 豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巖禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巖禅師御自作の 像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元年(1441)旧暦十一月二十二日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。

 時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は當山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巖禅師の勝躅を護持し、豊川咤枳尼真天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。
 以後、豊川咤枳尼真天 は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。


 皇室の出でありながら仏門に帰依し、道元禅師の直弟子となり、二度も宋代の中国に渡り、帰国してからは師の道元とは対照的に、人里離れて静かに座禅生活を送るのではなく、衆生に分け入って、橋を渡し、農地を干拓、開墾し、寺院を建立し、一方では師の道元禅師の語録を編纂集成するという学僧ぶりも発揮し、のみならず自ら神仏の像を彫刻するというアーティストでもあった。
 な、な、なんなんだ!このスーパーマンぶりは 弘法大使級の超人ではないかっ なんでこんな偉い人を、今まで知らなかったんだ。なんでもっと知名度があがらないんだ
 そして、その寒巖禅師を守護していたのが、後に豊川に祀られたダキニ真天だというのだ なんだかブルッと震えがきたぞ。


(参拝した日の写真入り紀行日記は、また次回へと続く・・・)

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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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