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古(いにしえ)の神降る峯の古峰ヶ原 ~ 北関東に埋没する古代霊場④ ~

2007,,09
 2007年10月9日

 大平山、大中寺、岩船山と巡り、一泊した翌日、ガイドブックを見ながら目星をつけたのが古峰ヶ原(コブガハラ)高原。太平山からは北北西の方向、中禅寺湖の南側にひしめく山並みの中にある。
 車で行く場合は、東北自動車道の鹿沼ICから、県道14号鹿沼日光線をひたすら西北方面へ。途中、日光方面への分かれには向かわず、大芦川と並行する58号線をそのまま西北に進む。これを「古峰ヶ原街道」と言うらしい。

 創祀は1300余年前、京都からこの地に移った隼人というお方であると、古峯神社のホームページにはあるが、一般にはむしろ日光を開山した勝道上人(735~817)が若き日に修行した山として知られている。
 このたびの私の北関東霊場巡りとしては、文字通り真打ち登場という感じで、古代日本の秘教ファンにはお薦めできる場所だ。と言うのも、一見して、物部系古神道と修験道と真言密教が渾然となった、独特の習合オーラを発しているからだ。

 私自身、まず惹かれたのは、「古峰ヶ原」という名称だった。麓の神社名は「古峯(フルミネ)神社」というのに、バス停は「古峰原(コブガハラ)神社」となっている。これは「フルミネ」のほうが古称であり、「コブガハラ」への読み替えは後の時代のカムフラージュだったことの痕跡ではないのか。そして、山の名前も「コブガハラ」ではなく、もとは「フルミネ」だったのではないだろうか。
 華供(はなく)の峯が供峯(くぶ)になり古峯(こぶ)になった、という説もあるようだが、
⇒http://www.kongousanzuihouji.jp/history/index.html 古峯原・金剛山瑞峯寺縁起
私の考えは「フルミネ」は「(神の)降る峰」なのであり、これが『記紀』による天孫降臨の表現「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に抵触するから、体制側の弾圧を避けるため、フルミネ⇒コブガハラとの読み替えを余儀なくされたのではないか、というものだ。
 『記紀』を編纂した朝廷以来の「正史」からすれば、天孫降臨の地はあくまでも九州の高千穂でなければならず、我が国の伝統は、皇祖神たる「女神アマテラス⇒天孫ニニギ」の系譜による万世一系の統治でなければならない。この皇国史観からすれば、恐るべき異端である“別系の”天孫降臨である、「男性太陽神ニギハヤヒ」や「元伊勢の女神セオリツヒメ」の系譜は、史料から徹底的に抹殺されなければならなかった。
 弾圧され戸籍を削除された古(いにしえ)の神々は、他の姿を借りて存在を伝承する。その代表格が山岳仏教との混交である修験道である。

 古峰の霊場に貢献した勝道上人は、最澄の天台宗よりも空海の真言密教よりも前の時代であるため、謎が多く、宗派もはっきりしない。山岳宗教の時系列としては、修験の祖である役行者と真言密教の空海との間に位置することになる。
 勝道上人には竜蛇や水神に関する伝説も残されているので、調べてみると面白いかもしれない。また、7歳の時、夢の中に「明星天子」という神が現れてお告げを下したという伝説から、古代物部の星神信仰との繋がりも窺えそうだ。
⇒http://www.mct.gr.jp/world_h/nikko1/shodoshonin.shtml 世界遺産 日光の社寺 日光開山の祖 勝道上人
⇒http://www.zuisousha.co.jp/book2/4-88748-135-7.htm 聖なる衝動 小説・日光開山 勝道上人
⇒http://www.oku-chan.net/p0737_35.html 日光山の開祖、勝道上人の銅像

 さて、麓の古峯神社だが、これは何とも不思議なたたずまいだ。
 古峰ヶ原街道にそびえる一の大鳥居は、重厚でくすんだ色が奈良の大神神社の大鳥居を想起させるが、境内の参道に入ると、短い区間に三つも四つもの鳥居が縦列している。よくあるお稲荷さんの鳥居のアーケードほどではないが、このあたりから外界から区切られた一種の結界を感じさせる。
            
1大鳥居

2連立する鳥居

 ところが、肩透かしをくらわされる気分になるのは、この鳥居の縦列の延長正面に社殿はなく、突き当り右側に囲われた空間に、ひょいと横っ飛びして入りこむような形で参拝する。
 出雲大社のように、社殿内部で神様が囚人のように(井沢元彦説)横っちょを向いた部屋に監禁されているわけでもなかろうが、何やら迷路のような閉塞空間を感じさせる。封印されているのか、それともオカルティックな外的に対する目くらましのカラクリ造りなのか。
               5本殿正面

               6本殿アップ

               7本殿壁の埋め込み襖
 拝殿自体も、正面からは全く中が見えず、「嘆きの壁」でもあるまいに、まるで壁を拝んでいるような気分になる。秘教的と言ったらいいのか、風通しが悪いと言ったらいいのか、こんな神社も初めてだった。

               8古峰園
 それでいて、参道の反対側には古峰園という25000坪もの広大な日本庭園があって、その中には裏千家の茶室まであり、毎年、美術関係の有力者の協力を得て茶会が催されているという。また、何百人も宿泊できる参籠施設があり、祈祷を受けた後の直会(なおらい)では、伝統料理がいただけたりもする。
⇒http://www12.ocn.ne.jp/~furumine/kohoen.html 古峯園の御案内

 いったいどこにそんな広大な施設があったのか。当日はすぐに山登りに向かったため詳しく見学もせず、この日記を書くためHPを調べてみて初めて知った私は、おったまげてしまった。このシリーズの副題である「埋没する」古代霊場どころではない。さながら“隠れ上流”の社交霊場だったのだ。(もっとも、茶の世界と言うのも、千利休の時代から高級秘密クラブのような、諜報活動めいた臭いがあるわな)

 神社の位置からさらに少し奥へと車を進めると、車道の左側に「関東ふれあいの道 古峰ヶ原高原1.3km」と標示された遊歩道のような登山口が見つかる。(付近に駐車場もあり、なかなか便利にできている) そこから古峰ヶ原峠(1144m)を越えて、隣の峯の三枚石(1377m)で折り返す往復ルートを目指す。

                    9巨石上の供養社
 ゆるやかな登りがやや急になったあたりで、最初の巨石に出会う。若い修行僧が辛い修行に耐えかねて夜逃げしようとしたが、追っ手に迫られ、ここまできて転倒して死んでしまった、とかいう云われが書いてあった。岩の上の祠はその供養のためらしい。大中寺にもこのての怪談が伝わっていたが、どうもこのへんの霊場はそういう話を残すのがお好きなようだ。

 ちょっと気味の悪い場所はそこだけ。しばらく登っていくと、今度は合金色をした小型の鳥居に出会う。
                    10合金色の鳥居               
 
 そこから先は、様々な形をした巨石のオンパレードだ。ここまで石の多い山も珍しく、飛騨の位山以来だろうか。

                    巨石1

               巨石2

               巨石3

               巨石4

 それも不思議な感じがするのは、樹木や土と巨石が共存している風景。山肌全体が岩場が多いのならまだわかるが、背景はわりとたおやかなのに、おびただしい数の巨石がころがってる図は、まるでマニアかコレクターが庭石でも運んできたような印象を受ける。

 中には、あきらかに人口的にカットした断面ではないかと思わせる石も見受ける。

               巨石5

               巨石6

巨石7

 古代において巨石を御神体とする原始信仰が盛んだったことは、皆さんも聞いたことがあるかもしれないが、私が思うに、ただ素朴なだけの精霊信仰(いわゆるアニミズム)だったのではなく、現代科学とは別次元のハイテク・スピリチュアリズムを駆使していたのではないか、という気がしてならない。つまり、石というものを高次の霊的な受信機として、人口的に開発利用していたのである。
 もちろん、こうした人工的カットの痕跡がいつ頃の時代のものなのか、調べてみなければ定かでないし、もっと近代のものなのかもしれない。が、たとえばエジプトのピラミッドの建造技術を不思議がるばかりでなく、こういうところに目を向ける視点があってもいいと思うのだ。

 古峰ヶ原峠は、それら巨石群の尾根道の途中、ぽっかりと開けた高台にある。「ヶ原」とはよく言ったもので、本当に信じ難いくらい広大な原っぱが出現する。(HPによると、1万ヘクタールとか!!) ワイドレンズがなければ写真にも収まりきれない光景なので、シャッターも押さなかった。
 この地形が本当に自然の造形によるものなのか、これも不思議と言えば不思議。まるで山上の飛行場。饒速日(ニギハヤヒ)の乗るUFOである「天の磐船」が、軍団で着陸したところと言われれば、絶対、信じてしまいそうだ。(天孫降臨の地というのは、べつに一箇所に限定する必要はないと私は思っている。あちこち巡回していたかもしれないし、霊体の降臨ということならば同時多発もありえる)

 三枚石の峠の直前に、「天狗の庭」と名付けられた一画がある。林の中に中小の岩がひしめいていて、さながら岩の牧場のようだ。

               天狗の庭

               天狗の庭2

               巨石8

 以前、サボテン公園に行った時、温室の中でサボテン同士がテレパシーで世間話でもしているような感覚を覚えたことがあるが、現代科学では無生物のはずの岩に対して、それと似たような感覚を覚えてしまった。

 「三枚石」は大きな岩が三枚重なっている形と、勝道上人が座禅修行(三昧)した場所という、二つの意味を掛け合わせているようだ。そして、ここが麓にある金剛山瑞宝寺(古峰神社よりもバス停で1~2個手前)の奥の院ということになっている。
⇒http://www.kongousanzuihouji.jp/inquiry/index.html 古峯原・金剛山瑞峯寺ご案内

 ここには珍しい像がたくさんある。
 三昧石の側面にあって、小型だがまず目を引くのが、「古峰原聖観音」と刻まれた優雅な坐像。 
               1古峰聖観音

          2聖観音アップ

 一見して、如意輪観音のようなしどけない姿勢だが、髪の結い方とか頭巾のような被り物が、確かに聖観音ではある。でも、見る人が見ればとんでもなく異色なのが、右手に金剛杵(コンゴウショ)を携えていること。密教の仏である証左だろうが、こんな三種混合(如意輪+聖観音+金剛杵)の観音は他にどこにもないだろう。
 金剛杵は密教の修行者や、大威力の金剛部の仏が持つ法具であり、観音のような蓮華部の菩薩が持つものではない。柔和なように見えても芯は金剛力である、という主張だろうか。このへんに私は、瀬織津姫の“隠し”イメージを感じとる。

 道の反対側に三尊像のような立像がある。向かって左から、弁天龍神、大白龍神、弘法大師修行像、とある。
               3弁天龍神

4弘法大師

5弁天龍神アップ 6弁天龍神、後姿

                    7太白龍神

               8太白龍神、後姿
 
 弁天龍神と大白龍神は、あきらかに瀬織津姫のフェイク(変装、隠し名)だろう。龍を身体に巻きつけてお供にしている姿は、伝えられる水神としての最高神のイメージそのものだし、大白や天白という冠詞が瀬織津姫の東国での称号であることは、以前にも説明した。

 同じ弁天でも出雲系の弁天は、迫害された末に未浄化な女のカルマを背負っていった感じがするが、瀬織津姫の変装した弁天は、凛としてスカッとした体育会系、と言うか、武芸者系の波動を感じる。

               9弘法大師、単独
 でも、勝道上人ではなく弘法大師なのは、どういうわけだろう。後の真言密教に勝道上人の修験のスピリットが受け継がれている、と言いたいのだろうか。

10大山祇、石碑 11別雷、石碑
 近くに、大山祇大神、別雷神と刻まれた碑もあった。

 いよいよ勝道上人が修行したという三昧岩の霊場へ。

三昧岩の社
 ↑三昧石の社を側面から撮ったもの

               12三昧岩、鳥居
 ↑社と鳥居の正面

                    13三昧岩、説明版
 ↑説明書き

               14三昧岩、穴
 ↑岩の下部の隙間にある祭壇。

 穴倉に祀ってあるのは「金剛童子」とあるが、このへんの山岳信仰の本尊の推移や変化形は、ファジーでよくわからない。
 「金剛薩埵(こんごうさった)」がインド密教伝来の原型らしいのだが、これが中国⇒日本へと渡り、定着する過程で「執金剛神(しゅうこんごうじん)」や「金剛力士」となり、修験道の「金剛蔵王権現」や「金剛童子」へと変遷していった、……というのが学術的な解釈だが、本当にそれでいいのかな。
 しかし、説明書きによると、金剛童子=不動明王であるような書き方もしてあるので、こうなると何がなんだかわけがわからない。
 修験道の不動尊も、ある意味、日本で完成されたイメージなのかもしれない。他の明王は皆「明王」なのに、不動明王だけに「不動尊」という呼び名があるのは、神道の「尊(ミコト)」と共振しているような気がしてならないのだ。

               15金剛水
 三昧石の峠からもう少し足を伸ばすと、「金剛水」という矢印がある。行ってみたが、現在の水量はチョロチョロ状態だった。

16巨石舞台
 まだまだ巨石地帯は続く。
 妻があきれて先を急いでいたので、私が共に写真に入って大きさを強調することができなかったが、この石は飛鳥の石舞台を髣髴させるくらい、相当にでかくて平べったい。しかも一枚の岩なのだ。


 下山してから、行きに車の窓からしか見なかった金剛山瑞宝寺に寄ることにした。ここも見ごたえのある像がたくさんあって楽しい。
⇒http://www.kongousanzuihouji.jp/history/index.html 古峯原・金剛山瑞峯寺縁起

17不動尊(小)

18不動尊(大)

 上が行きの車の窓から撮った不動三尊像。下が帰途に寄って、像のすぐ下まで行って撮ったもの。
 なぜか私は、不動様のこの恐い顔を見ると、懐かしさを覚えてしまう。

               19不動尊の剣
 逆鉾があるのは、天孫降臨と縁ある地のシンボルでもある。東国(関西以東)の場合は、饒速日&瀬織津姫の霊場であった可能性が高い。製鉄の民族や信仰とも密接な関係があり、なぜか必ず不動尊や龍王神ともセットになっている。

20金剛山瑞宝寺
 山門がないのに、仁王様(金剛力士)が居るユニークな構え。こちらは、古峰神社と打って変わって開放的?

                    21蔵王権現
 修験の寺らしく、蔵王権現像。ボリュームがあって、不動尊と見まがう貫禄。

                    22観音如来
 これも観音とあったが、結跏趺坐した如来のような観音像も珍しい。(密教には観音如来というのがあったと記憶するが…)
                    
               23倶利伽羅竜王
 夕空にシルエットでとらえた、倶利伽羅竜王の躍動。

24役行者
 暗くなってきたせいか、闇の帝王みたいで、ちょっと凄みのある役行者(役小角)像。

25弁天観音
 これもユニーク! 弁天観音と名付けられた、オリエンタルな天使のような雰囲気の女神。これも瀬織津姫のフェイクだろうか。お供の龍神が、散歩の犬みたいでかわいい。

 こうした独創的な尊象イメージは、古来からこの寺に伝わっていたものなのだろうか。不思議と言うか、ファンタジーだねえ。


 帰りの高速SAにて。
 私がちょっとゴミを捨てに行っている間に、妻が白黒二匹の猫に包囲されていた。お公家さんのようにうっすらと描き眉の模様がある白い猫が、テーブルの上から迫り、椅子の下からは真っ黒な猫が忍び寄る。黒は用心深くて懐かないが、好奇心旺盛で、垂れているリュックの紐にちょっかいを出している。

               26白猫

                    27黒猫

 妻はどちらかというと犬型人間なので、猫に好かれることは珍しい。私は霊場でよく猫と遭遇するジンクスがあるので、代理人として捕まってしまったのかもしれない。
 
※『古事記』によると、祟神天皇の御代、天災や疫病の祟りが止まないので、お告げによってオオモノヌシ(大物主神)の子孫であるオオタタネコ(大田田根子)に祭祀主を勤めさせたら治まったという。
※参照
⇒http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page202.html 現代語訳〔古事記・日本書紀〕
⇒http://kammuri.com/s1/motoise/index.htm 丹後元伊勢伝説
 
 この話から、その霊場の守り主の正当継承者と霊的なホットラインが繋がった時、合図として「ネコ」が登場するのだと、私なりの勝手な解釈をしている。

 妻が固まっているので、私が選手交代。白にニャ~と話しかけると、すかさずハスキーな声でニャ~と返してきた。犬みたいにわかりやすい奴だ。当然のように、膝に這い上がってくる。ちょっと図々しいくらいに懐っこい。黒は相変わらず、椅子の下から、私の手や足に遠慮がちに猫パンチを繰り出していた。

 白黒は陰陽の象徴だろうか。陰陽は勧善懲悪の二元論とは違う。電気のプラスとマイナス、磁石のS極とN極、どちらが欠けても仕事にはならない。陰が開放されてこそ、陽も最大限に力を発揮できる。
 だが、封印されていた黒(陰)が解き放たれたとしても、すぐには外界と打ち解けられない。多少のリハビリとウォーミングアップ期間が必要なのだろう。
 いろんなことを考えさせられた、このたびの北関東巡礼だった。


 [追伸] 
 今後の巡礼日記でも、猫が続々と登場します。猫は「根っこ」にも通ずる。根の国、底の国のお清めであるぞよ。

 そう言えば、古峰神社の狛犬は古典的なデザインだけど、犬と言うより獅子舞の獅子。つまり、猫科に見えます。
               狛犬1

               狛犬2


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死霊の集う岩船山高勝寺 ~ 北関東に埋没する古代霊場③ ~

2007,,08
 2007年10月8日(「大平山神社、開かずの奥の院の謎 」「ホラーの名刹、大中寺」 の続き)

 晃石山から「ぐみの木峠」にもどる尾根道の途中、南面の大中寺へとショートカットして下る道がある。これが伐採した丸太がゴロゴロと寝かせてある斜面で、とても整備された正規のルートとは思えない。
 途中に道標もないし、道に迷ったかと心配になるほどだが、あちこちのローカルな低山に行っていると、だんだん土地勘というものも働いてきて、バカボン・パパの境地(「これで良いのだ!」)になってくる。どこもかしこも高尾山や武蔵御岳山や丹沢の大山のように、山道が整備されていると思うほうが間違いなのであり、地方の低山へ行くと、だいたいこんなもんである。

 それはよいのだが、このあたりの山中の雰囲気は何だかヘンだ。たまにすれ違う人間の印象がヘンなのだ。挨拶してもボ~ッとした顔をして、こちらに気づいているのかどうか、ムンクの「叫び」のような顔をして無言ですれ違う。(山に行かない人は知らないかもしれないが、ふつう山道で出会うと、見知らぬ人でも気持ちよく挨拶を交わすものだ)
 あるいは、だらけた雰囲気の作業服の労働者が一人、尾根道のベンチにひっくりかえり、ラジオで野球放送を聞いている。わざわざ受信状態の悪いこんな山の中で、雑音混じりの大音量でラジオを聴くという心境もよくわからない。
 晃石太郎の怨念のせいか、大平山奥宮の古代カルマのせいか、はたまた隕石が運んできた未確認物質の残留磁場のせいなのか、ともかく何やら脳波を狂わすようなヘンな世界を感じさせるのだ。

 大中寺の「馬首の井戸」のすぐ横から、山腹の林道を横断すると大平山神社の側面へと戻ることができる。
               天狗の投石

 この日はもうひとつ、岩舟山高勝寺へ寄ることにしていた。晃石山からそのまま尾根づたいに西南へと足を伸ばせば、岩舟山方面へと踏破できないこともないのだが、それだと大平山の駐車場にもどってくるのに大変な時間がかかってしまう。そこで一旦、駐車場まで戻り、車で移動することにした。

 高勝寺については何の知識もなく、「岩船山」という名に惹かれただけの話。古代ヤマトの先住大王、饒速日尊が天降った時の「天の磐船」伝説を期待したわけだが、どうやらそれは見当違いだったようだ。山の形から「岩船」と呼ばれるようになっただけの話で、饒速日や物部の痕跡は見当たらない。
⇒http://www.geocities.jp/iwahune_town/public_html/iwahune-san/koushouji.html 岩舟町鷲巣・岩船山高勝寺
 172メートルしかないこの山が、関東の高野山とか、日本三大地蔵とか呼ばれていたという。この山の上方が、死後の霊が集うあの世の出入り口のように思われていたらしい。死霊の乗り物としての船、とも考えられるだろうか。特に子供の霊の供養が盛んだったようで、地蔵信仰と強く結びついている。
          岩船山高勝時

 古代信仰には違いないが、どちらかというと中古~近古の補陀洛山や補陀洛渡海の信仰に近いような気もする。
⇒http://www.ztv.ne.jp/web/kiho/nachihudaraku.htm 補陀洛渡海(ふだらくとかい)

 後で他所のHPやブログなど検索して見ると、朱塗りの山門や三重塔など、それなりに綺麗に写っているが、現地で感じた雰囲気はというと、表玄関の見てくれだけ金をかけていて、卒塔婆など乱雑にうっちゃらかして、ろくに掃除も手入れもしてないように見える。すすけて、澱んだ、おどろおどろしい空気を感じてしまって、写真を撮る気さえおこらなかった。
 死霊供養の霊場として青森の恐山と並び称する記事も見つけたが、私にはこれが一番ピンとくる。

 山門付近に車を停めて、少し上っていくと本堂らしきものがある。いちおう参拝してから、中を覗くと、不気味な光景に出くわした。お堂の天井からたくさんの古着がぶら下がっている。何かの御利益信仰としてのおまじないだろうか。最初は洗濯物でも干しているのかと思ったが、これが長年の砂埃や泥汚れをたくさん吸収して放置された、もの凄く古びて汚れた衣服に見えるのだ。いずれにせよ、清々しさを尊ぶ神社神道だったら、ありえない光景だろう。
 後で思い当たったのだが、境内の道端のあちこちに石仏の地蔵が並んでいて、それに信者が持ち寄った衣服が着せてある。その中であまりに古びたものを回収し、供養して棄却する前に一時保存していたのかもしれない。

 さらに登っていくと、奥の院と書かれた小さなお堂があった。周りにスポンサーらしき「ナントカ観光」と書かれた旗が、ひしめくように立っている。死者供養の寺のわりには俗っぽいなという感じで、手を合わせる気力も失せてしまった。妻などはだんだん機嫌が悪くなっている。

 さらにまた少し登ると青空の開けた広い場所に出るが、ここが頂上なのではない。本当の頂上はそこから尾根続きのとなりの峰らしいのだが、金属の柵で仕切られて行けないようになっていた。
  実は頂上を含む山の大半が、採石で丸裸にされ、崩れかけた赤土が剥き出しの惨めな姿をさらしている。      
               禿山

 なるほど、神体山もここまで風水を破壊されてしまっては、御利益は疑わしい。狂わされた自然エネルギーの流れが、何らかの有害波動を伴って人間にしっぺ返しをしてくるはずだ。

 今、足を運べる仮の頂上(付近)には、何やら建立物の跡地があった。柱の位置からして、寺院と言うよりは、手前の拝殿と奥の祭壇が直列に配置された神社形式のようにも見える。しかも、奥宮にしては大きなものだ。
奥宮跡?1

 説明版も何もないが、往古はここが本殿だったのではないか、という考えが頭をもたげる。そして今は丸裸になって崩れかけた頂上付近に、本当の奥宮があったはずだと。(資料や伝承は見当たらないので、本当のところは不明)

奥宮跡?2

 中央奥の祭壇に位置するあたりに、小さな小屋のような曰くありげな物体が、虚ろにたたずんでいる。古びて割れた板の隙間から中を覗くと、外界から区切られた暗闇の箱の中に、弁天社のような「一間社流れ造り」の形をした石の祠があった。ボツボツに荒れた石の肌からして、これまたずいぶん古びたものだろう。

 何を思ったか妻が写真を撮れと強い口調で言うので(またまた「天に口なしMy奥さんをして言わしむ」か?)、あまり気はすすまなかったが、丁重に拝んで挨拶してから、破れた箱の隙間にカメラを突っ込んだ。
 出来上がった映像を見ると、封印された漆黒の闇の中に、フラッシュを浴びて浮き上がる姿が、何やらわけのわからない激しいインパクトがある。悪いものではなさそうだが、霊的に過敏で虚弱な憑霊体質の人が見たら、ひょっとして深刻な影響があるかもしれない。よって、ここでは公開しないことにする。

 祭祀の場らしからぬ密閉された箱状のもので、祠を覆ってしまうというスタイルは、どこかで記憶があると思ったら、瀬織津姫を祀る早池峰山の山頂奥宮だ。これも一種の封印なのだろうか。↓
               早池峰山頂上

 封印には二種あって、ひとつは侵略した外来勢力が先住系の神を隠蔽し、忘却させんがための政略的なもの、もうひとつは人類の霊性の発達が未熟なため、いっぺんに高次の光を当てると、個人も社会もパニックとなり、アノミー状態になってしまう危険があるため。
 たとえば、病の好転反応などもいっぺんに激しく出すぎると、肉体の器が耐え切れず、あの世へ行ってしまう危険もある。禊(みそぎ)の極致はそれであり、禊とは、偽りの自己が死んで、真の自己が蘇ることなのだ。
 
 禊の大神である瀬織津姫らが封印されるのは、この世の人間どもの偏狭な浅知恵からだけでもなかったかもしれない。大神の方便として、だましだまし、人間に自由裁量権を与えながら、順を追って導いているのだ。
 しかし、魂の道場全体としての地球が、あまりにも破壊、汚染され続けたなら、悠長なことは言ってられない。禊の大神たちが、大ナタを振るわねばならない時も迫っている。だからこそ、封印されたり、自己封印してきた太古の強力な神々が、復活の胎動を始めている。そういうことなのだ。

 ここ岩船山に封印された古代神は、どういう系統なのだろう。「一間社流れ造り」の石の祠の印象が強かったせいか、私は弁天系の女神のような気がした。
(瀬織津姫とは姉妹関係にあたるような女神だが、瀬織津姫そのものではないと、根拠はないが何となく感じている。瀬織津姫のほうが竹を割ったような豪胆なところがあり、弁天も激しい気性はあるが、女性性の激しさのような気がする)

 箱の中の暗闇を覗きすぎたせいか、息苦しい気持ちになって空を仰いだ。ちょうど雲間が切れて、午後の太陽が姿を現したところだった。
 目を閉じて、
「ア・マ・テ・ラ・ス・オ・オ・ミ・カ・ミ」
の言霊を、一音一音、発射する。
 三回くらい唱えたところで、まぶたの裏のルックスがぐわ~っ!と10倍くらい明るくなって、胸のアナハタ・チャクラのあたりと、身体の前面が、真夏の日光浴のように暖かくなった。以前もこういう経験はあるが、ここまで顕著な反応は初めてだ。
 妻も私の真似をして合掌する。ひとしきりの沈黙が過ぎると、「わかった!ここの神様は女神様だ」と、妻から口火を切る。
 ただ、私はその時、女性太陽神としての皇大神宮のアマテラスの御名を唱えたのではなく、特に男神太陽神のアマテル神(饒速日)を意識したわけでもなかった。地球上ではなく、天体としての太陽におわします、文字通り太陽霊界の太陽神団を呼んだのだった。(おこがましくて、すんません!) ここに封印された女神を救出するため、ペアとなるべき男性神を手配してもらえるよう、無意識に祈っていたのかもしれない。この闇の深さは私の片手間では手に負えません、というコーリングでもあった。


 この旅行から帰った晩に、夜中に重たい鬱想念に襲われ、ベッドから抜け出し反省猿の姿勢でまどろんでいるうちに、ソファにもたれて眠ってしまった。どこで拾ってきた鬱波動だろうか。怪談の寺の大中寺か、大平山神社の縁の下の洞窟を凝視しすぎたからか、それとも岩舟山の曰くありげな封印箱か。
 妻にも多少きているようだったが、気がつくと理由もなくため息をついているという程度のもので、激しい作用はなさそうだ。これはお役目の違いもあるし、体質の問題もある。私のほうが激しく来て激しく抜けてしまう。妻のほうがだらんだらんと抜けていくのだ。

 それでは皆さん、妄想につき合ってくれてありがとう。
皆さんもネクラ妄想にとりつかれた時は、曇り晴れ曇り空を見上げて、「ア・マ・テ・ラ・ス・オ・オ・ミ・カ・ミ」の言霊をお試しください。(これは日本神道の祈りではなく、宇宙神道の言霊なので、宗教宗派は超越しています。そういう想念で唱えればね手(チョキ)

 るんるんそ~のうち何とか、にゃ~~るだ~ろ~お~~!ウッシッシ

ホラーの名刹、大中寺 ~ 北関東に埋没する古代霊場② ~

2007,,08
 10月8(「大平山神社、開かずの奥の院の謎」 の続き)

 大平山奥宮の富士浅間神社から「ぐみの木峠」を経て、さらに尾根づたいに西へ進むと晃石山(419m)の晃石(てるいし)神社がある。
          晃石神社
 
 一見、昔ながらの鎮守様のようなたたずまいだが、これは晃石太郎という人霊を祀ったものであり、由来を調べると、どう見ても祟り鎮めのためのものだ。

 いくつか異説があって定かでないが、地方豪族の小競り合い(時代不詳)という説と、戦国末期の小田原北条氏滅亡にまつわる、地方の家臣の悲劇という説があるらしい。
⇒http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/1808/daityuu.htm 大中寺の悲話
いずれもこの山の中腹にある大中寺にまつわる因縁話で、佐竹小太郎という武士の悲憤の最期を伝えている。この佐竹小太郎が晃石太郎と呼ばれるようになるいきさつは、なかなか迫力のあるホラー話なので引用する。

 古河の郷士である佐竹太郎信綱は、小山家と争って戦で敗れ、縁家である大中寺の住職を頼って落ち延びた。しかし、大中寺は小山家の建立菩提院の関係上、助けることはできなかったので、佐竹太郎信綱は馬の首を井戸に投げ入れ、恨みのまま自害した。

 その数日後、この場所から光輝くものが西方の山の上に飛び散る。村人たちが、光った場所を見ると、ひとつの怪石が現れた。村人たちは、その石を西方の山頂へ移し、「照石権現」としてその霊を祀った。そしてその山を「照石山」、故太郎信綱を「照石太郎」と呼ぶようになった。


 「石」に祟りが象徴されるあたりは、古代先住民の巨石信仰を思わせるが、佐竹小太郎は古代部族の血をひいていたか、または前世がそっち系だったのかもしれない。
 ところで、佐竹小太郎の「佐竹」は、常陸国の那珂を制覇した佐竹氏と関連しているのだろうか。だとしたら、私の御先祖様とも無関係ではない。(本ブログ『「大甕」余話 ~ 戸村氏の興亡 ~』に詳しい)
 あるいは、常陸の古代部族、鹿島一族の流れを汲む那珂戸村氏を滅ぼした因果応報として、今度は滅ぼされる側にまわってしまった佐竹氏の子孫が、佐竹小太郎だったのだろうか。

 「光り輝く」怪石というのは宇宙の隕石の破片も連想させて、どこかSFホラー的でもある。それにしても、その怪石は今、どこに行ってしまったのだろうか。ふつうなら晃石神社の御神体となっているはずだが、どこにも見当たらない。
 もしかすると、禁足地である大平山神社の奥の院にある磐座というのが、実はこの隕石だったのではないか。人体に有害な放射能を発していたため、“祟り”として遠ざけられ封じられた……、などと空想を膨らませるときりがない。

 佐竹小太郎の妻もこの寺の厠で自害したということで、上記HPでは戦国時代編のほうに詳しい。

 小太郎は、隆庸と広照の奥方を無事に正義の屋敷に送り届けたが、帰り道に敵兵に見つかってしまった。小太郎は豪の者でもあったから、ひるまず敵と渡り合ったが次第に斬りたてられ、愛馬と共に傷つきながら何とか囲みを脱し、叔父が住職をしている大中寺の門前にたどり着いた。傷の手当てをと思い、扉をたたいた。まだ夜明けまで時間があったが、叔父の住職は門を開かず、「佐竹小太郎とやら、ここは敵も味方もない場所、いかなる者も匿うことはできぬ」と退けてしまった。小太郎はここまでと思い自害しようとしたが、愛馬が鎧の袖をくわえて離さない。小太郎は涙ながらに愛馬の首を斬り落とし、側の井戸に沈めて自身も腹を切った。

 さて、小太郎の妻は森に潜んでいたが、合図が聞こえないため大中寺に忍んで行くと、夫はすでに自害して果てたあとだった。妻が悲しんでいると、見回りの兵が辺りを探索しているのを住職が気づき、あわてて小太郎の妻を厠に隠し、釘を打ってその場をやりすごした。兵が去ったあと、住職は厠を開いたが、小太郎の妻はのどをついて死んでいた。

 それからというもの、厠に女の亡霊が現れたり、寺の周りを駆ける馬のひづめの音、明け方に門をたたく音が聞こえたり、井戸に浮かぶ馬の影が見えたりと、奇怪なことが続いた。それはいくら供養をしても消えることは無かった。

 寺の僧も一人、二人と去り、とうとう住職だけとなってしまった。そして、ある真夏の夜に大中寺は炎上してしまう。まるで辺りが昼間のように明るくなってしまうほどの大火事で、それは誰も手のつけられない状態だった。

 焼け跡から住職の遺体が見つかった。固く閉まった門扉のかんぬきにつかまったまま焼け死んでいた。

 村人の話では、「火事の前、寺と東山の裾から相呼応するように火打石をたたく音が聞こえた」という。大中寺の再興は、越前永平寺より来た僧伯堂により成されることとなる。


 小太郎夫妻と馬の祟りが、これほど凄まじいものかと圧倒されるが、あるいは祟りはこの一代だけのものではなく、ずっと前生からの宿業の地に登場人物が引き寄せられるようにして、ドラマが再演されたのではないか、というのが私の想像だ。

 この大中寺は平安時代の当初は真言宗だったが、その後、荒廃していたものが室町時代に再興されてからは曹洞宗となる。荒廃の原因がたび重なる「祟り」と火災だったとしたら、怪談調の因縁話はそれなりに古いことになる。
 再興後、戦国の上杉謙信と北条氏綱が和睦(越相同盟)を結んだ舞台としても知られ、一時は曹洞宗の寺院を統括管理する「関三刹」とまで称された。が、後世では怪談話のほうがインパクトが強かったのか、話に尾ひれがついて(?)むしろ「七不思議」伝説で有名になっているようだ。
⇒http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/1385/7-hushigi.html 大中寺の七不思議

 この七不思議の軸となった物語が、先に紹介した佐竹小太郎の悲話であろうことは想像がつくが、そこに江戸時代中期の放浪の文人、上田秋成の筆による「青頭巾」(『雨月物語』のうちの一話)の物語がカバーされることによって、俄然、文学性が増してくる。
 私も今まで知らなかったのだが、恐さとおぞましさと美しさが幻想的に交錯した、一級品のホラーである。下記ホームページに読みやすい現代語版を見つけたので、お暇なかたはぜひ堪能していただきたい。
⇒http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0505aozukin.htm 上田秋成『雨月物語』巻之五「青頭巾」より
 
 この寺は今も心霊スポットなどで有名らしいのだが、まだ明るいというのに、静まりかえった境内に人っ子一人見当たらない山寺の情景は、形容しがたいものがある。今は名所旧跡としてだけ保存され、檀家を抱える寺としては機能していないんじゃないだろうか。
 それでいて、御用の方が鳴らすインターホンだけは用意されている。太平山神社のほうへ戻る道を確かめたくて、鳴らしてみたら、奥様らしき落ち着いた声で応答があった。しかし、決して姿を見せようとはしない。これも雰囲気を演出するサービスなのだろうか、などと勘ぐりたくなる。

 暗くなったらさぞ恐いだろうが、この時のMy奥さんは不思議と恐がらず、小太郎の妻の生首が出るという「不開の雪隠」とか、馬のいななきが聞こえるという「馬首の井戸」とか、物珍しげに見学していた。
 あんまりそこいらへんペタペタ触るなよ、因縁霊がくっついて来るとシンドイぞと、気が気じゃなかったが、私自身も基本的に怖がらないほうなのでたちが悪い。間違って成仏させてしまったら、寺のセールスポイントがなくなってしまうから営業妨害だな、……などと馬鹿なことを考えていたりする。
 
 でも、ヘンなものが写っても困るので、写真はあまり撮らなかった。数少ないスナップを、最後に載せておく。
 
               捻れ巨木
 境内の捩れた巨木。何の木だか、ガイドブックでもわからない。 

     参道階段

 広々とした参道並木。ここだけ見ると、怪談の寺とは思えない。

(つづく)

大平山神社、開かずの奥の院の謎 ~ 北関東に埋没する古代霊場① ~

2007,,08
太平山神社、見取り図

      ↑境内図 (http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/index.html 太平山神社 公式ホームページより転写


 10月8日

 茨城の次は栃木にまわってみよう、ということになった。
 ここらへんも大和朝廷以前の先住部族が築いた古代祭祀跡の宝庫である。あえて“跡”とするのは、今現在のスピリチュアル・スポットとしてはいかがなものか?と、首をかしげる部分もあるからだが、それでも私のような者には、遺跡的な興味をそそるところがある。

 全国区としてさほどの知名度はないが、太平山(オオヒラヤマ)神社は今も現世利益的な信仰の地として、あるいはピクニックやデートコースに手頃な山として、当地や近隣の人々には親しまれている。

 瓊瓊杵命、天照皇大御神、豊受姫大神を祀るとされているから(天正年間の棟札では、天孫命、皇大神、豊受大神の三座)、伊勢神宮との親近性がありそうだが、旧号が「大神社」(オオミワノヤシロ)と言うからには、古層は大和の大神神社と同系だろう。
⇒http://www.genbu.net/data/simotuke/taihei_title.htm 太平山神社 大平山神社
 天孫命=瓊瓊杵命を星神と設定し、日神=天照皇大御神、月神=豊受姫大神の三位一体としているところは、日向系の天孫の旗印を掲げる勢力に、この地が乗っ取られたことを暗示している。
 本来の星神信仰は物部のものであり、饒速日あるいは大物主の神名が出てこなければおかしい。(またはストレートに天甕星か)
 『諸神座記』によれば、人皇第十一代垂仁天皇の御宇に大物主神・天目一大神が三輪山の剣宮に鎮座されたときに始まる、とされているらしいから、こちらのほうが本筋だろう。
⇒http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/web/his.html 太平山神社|公式ホームページ

 今の信仰の形態は先住側の祭祀が駆逐され、あるいは封じられつつ混交したものだ。したがって、封じた側の俗的な権勢欲と、駆逐された側の呪詛のようなものが、未浄化なままの残滓としてあちこちにへばりついている感じがして、全体的には清々しいとは言いがたい。あるいは、風水的に澱みやすい土地柄というのもあるのだろうか。(好き勝手なこと書いてるけど、これって営業妨害?)

 とは言え、かつては聖地として栄えた場所。崇高な何者かが降り立ってくるのを感じるような瞬間はある。
8551898_1434050098太平山の随神門

 ナビにしたがって車を走らせていくと、山の中腹あたりにくすんだエンジ色の随神門があらわれる。長い階段状の参道を、車道が途中で横切る形になっているのだ。と言うことは、麓から徒歩で登る道もあり、それなりの見所はあったかもしれないのだが、ナビまかせで来たらいきなり横から失礼という格好になってしまった。
 脇の駐車場に車を停め、重厚な門をくぐって長い階段を登っていくと、横並びの社殿が現れる。背後の樹木ごと霧に包まれた姿は、それなりに荘厳だ。
8551898_1867792973霧の太平山神社

8551898_2639343237大平山摂社

 そう言えば、夏に鳥海山で濃霧に見舞われて以来、今年後半はやたら霧づいている。見晴らしが悪くなるので霧を嫌う人もいるが、何やらスピリチュアルなものとの接近遭遇を感じさせて、私は好きだ。

 今は別宮のような形としてだが、三輪神社が祀られている。昔はこの大平山を三輪山と称したらしい。
8551898_2701574112単独の別宮、三輪神社 8551898_1697703802三輪神社、近影

『消された星信仰』(彩流社、榎本出雲/近江雅和 共著)では、次のように主張している。

21世紀の古代史 消された星信仰―縄文文化と古代文明の流れ (21世紀の古代史)21世紀の古代史 消された星信仰―縄文文化と古代文明の流れ (21世紀の古代史)
(1995/12)
榎本 出雲近江 雅和

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 太平山神社を神道上から見れば、大和の三輪山信仰を論じざるをえない。三輪山を神体山とする大神神社は大物主を祀る社で、大物主とは大和政権が創作した神名である。その正体は天孫ニニギとは兄弟神の火明命であることはすでに既著で考証した。(P138)

 太平山神社の別名の三光神社は「日・月・星」の三者を一体として示すペルシャ語の「フル」からきている。この「フル」はまた物部氏の呪術である十種の神宝の一つである「布留の御魂」の「フル」であると考えられる。さらに『万葉集』にある「神代」の枕詞の「ちはやふる」の「フル」でもある。(P136)

 しかもかつては山全体を神体山としていたことは、境内のもっとも奥に太平山三輪神社があり、現在も禁足地になっている。三輪山の裏に洞窟があり、向かって右側の神体山に通じているといわれ、神体山の上には磐座がある(P134)

 三輪山の洞窟が大平神社の奥の院で、御影山の磐座に通じていると信じられている。御影山は大平神社の神体山である。(P136の挿図の説明文)


 この「境内のもっとも奥」「三輪山の裏の洞窟」「向かって右側の神体山」「神体山の上の磐座」「太平神社の奥の院」「御影山は大平神社の神体山」という一連のフレーズにそそられて、この地を訪ねたのだが、「現在も禁足地」だけあってさっぱり様子がわからなかった。
 そもそも御影山がどこにあるのかさえ見当がつかない。摂社の三輪神社の横に目立たぬ登山道の入り口はあるが、向かって左に折れて登って往き、ぐみの木峠を経て晃石山、馬不入山へと、西南に下っていく尾根道が続いている。おそらくは地形的なブラインドになって、「向かって右側の神体山=御影山」は姿を見ることさえできないのだ。

 しかたなくぐみの木峠への尾根道を登っていくと、まもなく大平山頂(346m)に到着。霧の中に富士浅間神社の赤い社が浮かび上がる。
                    8551898_2385121337大平山奥宮の浅間神社
               
          7.jpg

 なぜ浅間神社なのかはよくわからないが、富士も『記紀』文献の成立などとは関係なく、はるか古代からの一大霊場だったことは確かである。

 晃石山(419m)まで登って大中寺へと下り、再び大平山神社にもどった。(このくだりについては次回の日記「ホラーの名刹、大中寺」で)
 神体山=御影山への通路に未練があり、もう一度あたりを探ってみると、本殿正面の左右奥、社殿の縁の下のようなところに「禁足地」の入り口を見つけた。

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 しっかりと鉄柵で閉鎖され、「立入禁止」の札が下げられている。向かって左側の柵の奥に、子供でも屈まなければ入れないような、洞窟らしき四角い穴が見えた。
 人工的にコンクリートで枠を固めてあるようだが、なぜこんな小さな穴にしてしまったのだろうか。人が通行することを前提としていないように見受ける。

 あんなところからしか奥の院に入れないのだとしたら、まったく現代のミステリー・ゾーンだ。神職の人達は、今でも奥の院に通うことがあるのだろうか。(インタヴューが得意だったら、神主さんをつかまえて聞き出すところだが、弱気の私にはムリムリ!)
 いったん窪地へ下ってから登る御影山への道も、今は人がまともに通れないような荒れ放題の道になっているイメージが頭の中をよぎった。奥の院は、実質的に封じられているのだろう。尊い聖地だから「立入禁止」なのではなく、「危険!近寄るな!」みたいなヤバイ波動を感じる。こんな薄気味の悪い秘密収容所のゲートみたいな奥の院入り口は、今まで見たこともない。

 鉄柵よりも手前に、古代磐座のひとつであったらしい石がひとつ、標本のようにさらされている。
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 神の依り代であるはずの磐座が、社殿の縁の下のような場所に組み敷かれている位置関係は、今現在の大平山神社では、古代信仰は日陰者であることを意味するのだろう。

 一番大きな別宮としては、仏教のお堂のような形をした星宮神社がある。
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 これは神仏習合の時代、虚空蔵菩薩の本地堂だったもので、以前にも解説した古代部族の金星信仰に由来したものだ。
⇒http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-242.html 星神「天津甕星」誅殺神話の深層
⇒http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-54.html 日記:大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国①
 それが例によって明治の神仏分離で「神社」に復帰したものの、時を経すぎていて、もとの星神信仰が何であるのかはぼやけてしまった。

 したがって、星信仰を抹殺した大和朝廷の側からすれば、もともと異端だったのであり、異端が生き延びるための方便として、外来の新興勢力である仏教と習合し、身をやつしたのだ。神仏習合としての修験道(山伏の宗教)には、多かれ少なかれこうした古代信仰の“仮の姿”が投影されている。
 仏教には「本地垂迹説」という理論があり、神道の神々の本来の姿は仏教のホトケであったとする仏教優位の理論だが、実は逆なのであり、大和朝廷以前の古代神が本来の姿を隠して、方便として仏教の仏・菩薩・明王に自己投影したのである。

 日本の歴史の裏には、常にこうしたダイナミズムがはたらいている。古層のものが外来の新興勢力と結託し、時代的中間層の体制派に対抗する、という構図である。
 日本という宗教風土がいかに重層的であったか、「日本の伝統」VS「外来、舶来」という図式が、むしろ体制派好みの薄っぺらな二元論でしかないことに、いつになったら現代人は気づくだろうか。「単一定住民族の多神教」などではない、「古代ネイティブとヤオヨロズの外来民族による複合重層多宗教」の末裔が日本なのである。
 が、あまりに複雑系だと、人は呆けてしまってシンプルに回帰したくなる願望を持つらしい。その意味で、日本は「幻想の単一民族」と言えるのかもしれない。

 もうひとつ単独の別宮として足尾山神社があり、足尾山の「足」とひっかけたのだろうか、大きな下駄が供えてあった。
               15.jpg

 下駄や草鞋などの供え物や飾り物は山岳系の寺社に多く、天狗さんの履き物であるとか、旅人の健脚を祈願するものとか、一般には言われている。が、これも古代信仰のアラハバキ神と関連するもので、足に巻く脚絆(きゃはん)にアラハバキの音を模して、「荒脛巾」としたところからくるものだという。あるいはアラハバキを奉ずる部族が、山野を駆け巡るフットワークの屈強な職能集団であったことも連想される。

 アラハバキの健脚信仰と関連して、産鉄民との密接な関連も見逃せないだろう。
 かつては「太平」を(「オオヒラ」でも「タイヘイ」でもなく)「ダイダイラ」と読んだのだという。(近江雅和著『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』彩流社) そしてこれは古代の産鉄技法である「タタラ」から転じたものだともいう。タタラ⇒ダイダイラ⇒ダイダラと転じ、ダイダラボッチ、ダイダラ法師、ダイダラ坊などの片目片足の巨人伝説につながっていく。
 鍛冶職人の神である金山彦、金屋子神は、天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)とされるが、なぜ鍛冶神が片目、片足なのだろうか。

 村下は三日三晩の連続作業の中で、微妙に変化するタタラの色を見て炉内の温度を判断する。火の色は両目では見づらいため、片目で見るのでどうしても片方の目を悪くしてしまうという。要するに片目というのはタタラ師の職業病だったのである。
(『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』P88~89)

 片足の伝説も同じである。『日本書紀』神代の段にはフイゴのことが出てくる。「真名鹿(マナカ)の皮を全剥ぎて天羽鞴(アメノハブキ)に作る」と、皮フイゴはかなり古くから一般化していたらしい。『古事記』では真男鹿(サオシカ)と古形で記しているが、これを音読みすればマナカとなる。ハブキはフイゴの意で、吹き皮が訛ってフイゴになったという説もある。(岩波書店日本古典文学体系『日本書紀』神代上の注釈)。『鉄山必用記事』によると、フイゴの皮は狸、鹿が最良とされ、皮袋を片足で踏んで送風した。中世以降になると、天秤フイゴという大掛りなものになるが、足踏みすることには変わりがない。この足踏み作業が足萎えを起こすということで、片目とともに鍛冶、産鉄の伝承として語りつがれた。(同P90~91)


 しかし、近代の有名な足尾鉱毒事件などを思うと、古代においても鉱物の採掘・精錬作業には、業病がつきものだったのではないだろうか。アニメ『もののけ姫』の世界ではないが、自然界と人間の文明との壮絶な相克葛藤に圧倒される思いがする。
 しかも、古代において産鉄民は必ずしも支配層ではなかったのだ。一昔前のアカデミックな歴史観では、産鉄民が鉄の武器を携えて縄文・弥生の列島を席巻したという説がポピュラーだったが、鉄器を使う側の軍人と作る側の武器職人とはイコールではない。古代の産鉄民はむしろ征服された側の労働階級として、(ちょうど後の時代の炭鉱夫のように)支配層に使役されていた時代も考えられるのだ。

 摂社の並びのひとつとしては、機姫神社が目をひいた。
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 これも大和朝廷の天敵である古代女神、瀬織津姫を連想させるキーワードだ。『エミシの国の女神』(風琳堂、菊池展明)では、養蚕と機織りの拓殖婦人が、伊勢の地から追われた瀬織津姫信仰を東北へと移植した形跡が論じられている。
 一般には禊の女神として知られるが、水流や生糸ばかりでなく、オーラとしての霊光線を綾に織りなすことで、世界を再構築していく女神だと私は思っている。

 社務所で御守りのパッケージを見ていたら、ウナギを神使としていたらしき説明が目に付いた。
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 これは太古のアジア北方ルーツであると同時に(但し、原形はナマズ)、二、三匹の魚類が頭を寄せ合うデザインは、三輪系や出雲系、八幡系の神社の神紋である巴紋の原型である。(出雲系は三つ巴、三輪系は二つ巴と言うが、三輪系の大平山もなぜか三つ巴)
⇒http://www.genbu.net/sinmon/tomoe.htm 巴紋
          巴1  巴2  巴3

 これは世界的に見ても古代スタンダードであったことを、以前のmixi日記の自己コメントで書いたことがある。

(以下、日記の自己コメントからの引用)
ところで、仏足跡の写真をアップしたのには訳があります。魚が三匹、頭を寄せ合っているような図柄に注目してください。 (四国第37番札所 岩本寺にて撮影)

 18.jpg 19.jpg

 一方、日本の神社には、巴紋というものが古来からありました。(雷様の太鼓のマークとしても有名) これは水の流れを象徴したものであるとか、弓を射る時に使う鞆(とも)を形取ったものであるとか、勾玉の組み合わせだとか、いろいろなことが言われていますが、実は天皇家の菊花紋と共に、古代シュメール~バビロニアから伝来した紋章なのだという、物証を伴う異説があります。
 そして巴紋のほうは、ナマズのような魚が頭を寄せて旋回している図が起源である、と主張する本を最近読みました。その原型に近いデザインが、最古の仏足跡に刻まれていたらしいと知り、驚いてしまったのです。

 下段の車輪のような図は、転法輪とも解釈できますが、見ようによっては、(十六弁ではないけれど)菊花紋のようにも見えます。これはバビロニアにあっては、菊花ではなく太陽信仰に関係していたらしいですね。(放射状の光、あるいはチャクラのような内的な光)
 火(太陽光)と水(水棲生物)の陰陽一体、「カ(火)」+「ミ(水)」=「神」が、世界共通のスピリチュアル・シンボルだったのではないでしょうか。


 隠しても、封じても、抹殺しても、どこかに痕跡が残るものは残ってしまう。それをひとつひとつ発掘して、光をかざしていく旅もまたおつなものだ。

(つづく)
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プロフィール

1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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