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「大甕」余話 ~ 戸村氏の興亡 ~

2007,,20
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左:奥州藤原氏の祖であり、那珂戸村氏(前戸村氏)の遠祖ともされる藤原秀郷。百足退治の伝説もある。
中:南朝のドン、後醍醐天皇。那珂戸村氏は南朝のために戦った。
右:藤原秀郷に討伐された平将門は、どこか神話の天津甕星とイメージ がダブる。敵対関係ではあるが、将門と共に関東武将のルーツ的存在である。  
************************************************************************
『星神「天津甕星」誅殺神話の深層』
『大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国? ~』
……で紹介した「大甕」関連の歴史談義をもうひとつ。

 これまで母方先祖「矢ヶ崎」の、諏訪および出雲の神話関連ばかりにフォーカスしがちだったが、ネット・サーフィンしているうちに、実は父方「戸村」の姓とものっぴきならない因縁があったことが発覚した。
 そんなのカンケイね~!という方もおられるかもしれないが、これはいちおう私の個人ブログである故、私自身の記憶と記録の整理のため記しておく。(細部を忘れちゃった時、これを読み返すと便利なんだよね)

 大甕駅や大甕神社のすぐそばに那珂郡、那珂市、那珂町といった地名があるが、このへんは昔、那珂氏という有力豪族の領地であったらしい。そして、その中の一派が、なぜか戸村氏を名乗っていたという。
 下記ホームページ
[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)
によると、次のようになる。

 時期は、久安5年(1160)那珂通能によると言うから平安時代末期である、那珂通能は戸村氏を名乗る。
 南北朝時代に南朝方に属し、この地方の覇権を佐竹氏と争った那珂一族である。
 しかし、戸村氏は南北朝の騒乱に南朝に味方したため滅亡してしまう。


 もうちょっと詳しいことを言うと、次のホームページ参照。
[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_fujiwara.htm 戸村一族
一部、引用する。

 下野押領史藤原秀郷の来孫・藤原通直の子通資は、那珂太郎と名乗って、那珂氏の祖として常陸国の那珂川北岸の那珂郷を領有して起こりました。通資の孫通兼の長男・通泰が那珂宗家の嫡子となり、次男の能通が那珂郡戸村に居を構え、戸村小三郎と名乗りました。これが藤原氏秀郷流の戸村氏の始まりとなりました。
[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)

……ってことは、戸村ってもとは地名だったの?

 そして、1335年「甕ノ原の戦」において那珂通辰の率いる一族郎党として、戸村氏も勇猛果敢な戦いをしたという記録があるらしい。
 これは下記ホームページ。
[資料③]⇒http://www17.plala.or.jp/naka_edo-history/mititoki_024.htm 南朝方として戦った那珂通辰
 戦記ものみたいで面白いので、前半を転写する。

 1335年(建武二年)12月、北畠顕家が率いる官軍八千の軍勢は、奥州多賀城を進発し、常州多珂郡甕ノ原(三ヶ原=みかのはら)に差し掛かったところで休息をとっていた。
 北畠軍は後醍醐天皇の勅命を受け、鎌倉にあって反旗をひるがえした足利尊氏を、京都から鎌倉に向かった新田義貞と共同して、挟み撃ちの形で討つための行軍であった。

 休息中の北畠軍を襲ったのは、常陸国豪族、佐竹貞義率いる四千とも五千とも言われる軍勢であった。長途の疲れと混成部隊、地理不案内も手伝い、北畠軍は総崩れとなり、壊滅寸前となった。
 そこへ背後の大甕山(おおみかやま)から駆け下り、優勢に立つ佐竹軍に猛撃を加えた軍団があった。それは常陸国の豪族那珂通辰が率いる軍勢二千であった。従うのは同国大井郡戸村城主戸村氏、川辺郷川野辺氏、那珂東郡平沢氏の一族郎党であった。


 このホームページの作者は、朝敵(南朝の敵)を討つという名目で、悪神「天津甕星」成敗の神話とひっかけているが、この時代、逆賊とされたのはむしろ南朝の側である。天皇家の血筋でありながら逆賊とされた南朝の行く末は、私が「まつろわぬ天津神」と設定した天津甕星のカルマとダブりはしないか。

 ということは、戸村氏は甕星の末裔だったのかな?
……と思いきや、
 しかし、戸村氏は南北朝の騒乱に南朝に味方したため滅亡してしまう。
 その後、120年間ほどこの城は廃城状態であったが、佐竹南家の南憲国が寛正元年(1460)北城を築城し、戸村氏を称して居城した。
 この戸村氏は佐竹氏の重臣として活躍し、現在の城址は前戸村氏の南城も取り込んで後戸村氏の時代に拡張されていったと思われる。

[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)
 
那珂戸村氏は、南北朝争乱の時期に、南朝側に付いて瓜連合戦など各地に戦ったのですが、居城は焼打ちされ破れ、建武3年(1336)に一族は滅亡してしまいました。後に、寛正元年(1460)、佐竹氏十三代義仁の三男義倭が戸村城を再興して、戸村氏を称することになります。
[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_fujiwara.htm 戸村一族

 つまり、前戸村氏と後戸村氏がいて、両者には何の血の繋がりもない。(なんだか前北条と後北条みたいでカッコイイというか大袈裟というか) しかも、前戸村氏を滅ぼした張本人の佐竹氏の系図から、後戸村氏が出てくるという奇々怪々さ。

 このへんもうちょっと詳しく解説すると、次のようになる。

 常陸守護であった佐竹義盛には子がいなかったので、山内上杉憲定の子・義憲(義仁)を持氏の後押しで養子に迎え、佐竹氏の嫡子としました。そして、佐竹義仁の三男・義倭は、城南にあたる常陸太田大崎に住んだので、「南殿」と呼ばれ、南氏と称しました。その後、義倭は戸村に移封され、滅亡した前戸村氏の城部を修復しました。戸村城を再興した義倭は、北城を本丸として居城し、佐竹氏の流れを汲む戸村氏の祖となりました。[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_satake.htm 戸村一族

 要するに養子つながりの縁から戸村の姓が再興されるのだから、佐竹とも血脈はないことになる。(但し、後述するように、義倭にも子がなかったため、後戸村の二代目からは佐竹の血脈にもどっている)
 そうすると、男系の血筋が絶えやすい因縁というのは、当初からのものだったようだね。前戸村氏を滅ぼした祟りか。はたまた南朝の祟りか。それとも、甕星の祟りかな。ぴかぴか(新しい)衝撃
 べつにどうだっていいんだけどね。私の魂の志向は、どっちかってえと南朝側だし。そんなのカンケイね~~~!!パンチダッシュ(走り出す様)

 こうした分断した血脈の中で、養子の三男、佐竹義倭は、なぜ滅亡した戸村氏を名乗ることになったのか。戸村城の地に前戸村氏を慕う住民がいたからだろうか。
 それ以前に、なぜ義倭は戸村に「移封され」たのか。このへんの経緯と動機が、最大のミステリーだ。

 その後の戸村氏の動きを転載する。

 戸村義倭には子がなかったので兄・佐竹義俊の5子・義易を嗣としました。義易の子・義廣は天永18年(1590)、佐竹氏と江戸氏の不和を知り、自ら奮戦して江戸勢を打ち破って、両家が講和する基盤を築いたと云います。戸村家は、戸村十太夫を名乗った義国まで、この地で7代にわたって佐竹氏の重臣として栄え、 佐竹領南方の要衛として城郭も整備されましたが、関が原の戦後、慶長7年(1602)、宗家佐竹義宣の秋田藩横手への国替えに供って、戸村氏もこれに従ったため、戸村城は廃城となりました。
 その後、秋田に移った戸村氏は、八代戸村十太夫義国が大阪冬の陣で、徳川秀忠から感状を与えられるなど功労が多い人物でした。そして、九代戸村十太夫義連は寛文12年(1672)、横手城代となり、その後も戸村氏は、明治時代まで佐竹一族の重臣として栄えました。三千風行脚文集には、「横手村の郡司・戸村氏は、秋田佐竹家の長臣として、文武兼備の雄士、ことに風雅の逸人なり」と記されています。

[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_satake.htm戸村一族

 私の父方の先祖は、わかっているところで那須地方の黒磯であり、さらにその以前は東北であるという(言い伝え程度の)話を聞いている。佐竹氏との繋がりも父に聞いた覚え(うろ覚え)があるので、この系統の戸村氏の末である可能性は高い。

 戸村城址は今もあるそうだけど、あんまり見に行く気がしない。
[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)
 神々のことは惹かれるけど、あんまり人間臭いカルマの世界って、どうもね。

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御岩山 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国② ~

2007,,18
 (前回からの続編)
 日帰りもできる距離ではあったが、一泊してもうちょっと探索してみよう、というのが今回の常陸国紀行であった。
 翌日に星信仰関係の他の神社を巡るつもりだったので、かなり南下してきて、その日は笠間の近く(桜川市)の※雨引観音に寄ってから宿に入った。(※坂東観音霊場第二十四番札所。この寺もなかなかいいところだったが、今回のテーマとずれるので紹介はパス!)
 当初の予定としては、やはり星神信仰を隠した修験の霊場とおぼしき加波山あたりをねらっていたのだが、神主に聞いた大甕神社の旧跡地(大甕山?)のことが気になってしょうがない。必死に地図をめくってみるが、さっぱりわからない。こんなことならもうちょっと詳しく聞いておけばよかった。資料を調べて探索するのはいいのだが、どうも現地でのインタビューが苦手である。話を聞きだすという心の準備ができていないのだ。霊場ルポ・ライターにはなれそうもない!?

 そんなこんなしているうちに、妻が図書館から借りてきた『茨城県の山』(山と渓谷社)というガイドブックに、気になるページを見つけた。2004年初刊だから、比較的最近のシリーズ本だろうが、他の一般向けガイドブックではまずお目にかかれないローカル情報満載だ。

静寂が包むひたち最古の霊山をひとめぐり
御岩山(オイワサン)492m
『常陸国風土記』に記載されている「賀毘礼(カビレ)の峰」が、この山だろうと推定されている。かって180を超える神々が祀られていたという山麓の御岩神社から登っていくと、苔むした岩山に奥ノ院があり、頂上近くは、ロック・クライミングの練習場にもなる奇岩怪石がそそり立っている。


 へえ~、こんなところがあったのか。地図で見ると大甕よりはだいぶ北に上って、常磐自動車道を内陸側にクロスする県道36号沿いにある。すぐ手前に神峰山(カミネヤマ)という、曰くありげな名の山もある。
 甕星と建葉槌が一戦を交えたという大甕山とは違うだろうが、さらにその奥の甕星族の本拠地だったのではないか、という期待値がむくむくと湧き起ってくる。まあ、実際のところは謎であり、わからないのだが、ともかくそそられる。
 ということで、翌日、御岩山を目指して、再び日立方面へ。
⇒Bookmark Hitachi 御岩神社 http://www.hitachijc.or.jp/bookmark/JC_menber/JC_otuka.htm

               駐車場、手前

                    1駐車場
 麓の御岩神社の緑豊かな駐車場に着けると、参道周辺を整備する工事職人が休憩をとっているところだった。これから整備されて、どんどん綺麗になっていくのかもしれない。初めての場所なのに、そんな期待が湧いてくる。忘れ去られていた霊場が復興していく兆しは、見ていても楽しい。

               一の鳥居
 白い鳥居は、このへんの特徴だろうか。太白、天白など、金星の中国名を象徴するものか?

          参道

 趣のある参道の並木を抜けたあたりに、県では有名な三本杉がある。

                 三本杉

                    石碑
 天狗が棲んでいて祟りを為すという伝説もあり、地元の人は触れようともしない、という話は後で知った。
⇒御岩山の三本杉 http://www.net1.jway.ne.jp/ja1vgv/sise-30.htm

                    本殿斜め

本殿正面
 やはり小ぶりだが重厚な本殿。(屋根の中央あたりに、うっすらと大きなオーブがかかっているように見える) 神仏習合の修験だった時代が長いので、立派な山門などもあり、建築様式も仏教色が濃いのだろう。

 神社伝来の由緒書きでは、創建時期が不明なくらいの古代神域だが、水戸藩初代が出羽の羽黒修験(湯殿修験という説もある)を勧請した時から神仏混交となった。明治の神仏分離で仏教色はかなり取り掃われたのだろうが、それでも独特の雰囲気は残っている。
 祭神は、「国常立尊、大山祗命、大己貴命、少彦名命、伊邪那岐命、伊邪那美命大国主神、ほか19柱」とあるから、国産み、国造りの神々のオールキャストといった感じ。「御岩山総祭神188柱」という触れ込みは、あたかも此処に一大神界があった趣で、本当だとすれば高千穂や出雲に匹敵する神々の郷だろう。

入四間不動明王1 入四間不動明王2
 表参道の登り口あたりに、竜神が刻まれた黒光りのする逆鉾が祀ってある。「八大龍王神」「入四間不動明王」と刻まれた碑を両脇に従え、社はないが立派な鳥居も立っている。これも始めて見るスタイルで、斬新だった。(入四間はここの地名らしいが、どうも将棋の四間飛車戦法を連想してしまう)

 492mという低山だが、竜神・剣神・巨石信仰などに共通する、独特の原初の威厳がたちこめている。加えて何やら不遇な神々の古代カルマのようなものを感じさせる。邪悪ではないのだが、まわり中の木立や空間に無数の目があって、こちらをじっと見ているような緊迫感があり、妻は「恐い、恐い」を連発していた。
 私はこちら側(「隠れ剣神」の側)の流れをひく人間なので、この種の恐さは快感なのだが、これを「鬼は外」して追い払い、封じこめた側の霊的子孫にとっては、キツくてなかなか近寄れない霊的スポットかもしれない。妻の場合は古代日本の過去世が少なそうで、どちらかと言うと日本のカルマの傍観者的なところがあり、恐いながらも惹かれるものはあるらしい。

賀毘礼神社1 賀毘礼神社2
 ピンと張りつめたほの暗い静寂の中をしばらく登って行くと、奥宮である賀毘礼神社が見えてきた。こちらはチョコレート色の鳥居。

 「賀毘礼の峰」というのは、この地方の神話からきている。『常陸国風土記』にしか登場しない天津神、立速日男命(別名・速経和気命)が、まず里の松の樹に降臨し、その後に引っ越して鎮まった場所が「賀毘礼の峰」であるという。
 「賀毘礼の峰」の所在地は、御岩山とは尾根続きで三角形に並ぶ神峯山や高鈴山のことだという説がネット上では目につくのだが、賀毘礼神社があるのはこの御岩山という不思議。

 また里宮として立速日男命が祀られる薩都神社は、この山並を南南西に下った県道349号沿いにある。
 地図で見ると、このあたりは瑞竜町だとか日月神社だとか、神話心をそそられるような名が並んでいる。しかし、薩都神社の薩都(サツ)にはとんでもない云われがあった。兎上命というこれまた聞きなれない名の神が、このあたりに土着していた土雲(土蜘蛛)族を大量虐殺して、「福(サチ)なるかも」と言ったため「佐都(サツ)」⇒「薩都」になったというのだ。(それじゃ、まるで「殺」だよね)
 なぜ薩摩の「薩」を当てたのか、もしかして血の気の多い薩摩人が入植していたのか。それにしても、その兎上命と立速日男命がいったい何の関係があったのか。単なる地名が神社名になっただけなのか。全く謎だらけだ。
⇒薩都神社 http://www.geocities.jp/kazpom100/1/D/2/J1O1D2.html
⇒薩都神社(常陸太田市) http://www.genbu.net/data/hitati/sato_title.htm

 そもそもヒタチを「常陸」と記すようになったのは、いつ頃からなのだろう。後に「日立」という現代の記述が現れたが、こちらのほうが「立速日男命」との語呂合わせも良く、本来の使い方ではなかったのかという気がしてしまう。東北の古代名である「日高見の国」との対照も、「日立」のほうがよろしい。
 また、「立速日」は、先着天孫である男性太陽神「饒速日」とも音が近く、十握の剣から生まれた甕速日、樋速日など「速日」で括られる剣神グループとの親近性も考えられる。「立速日」も剣神であると同時に、日が立つ=日の出を象徴する神名だったのではないか。出雲の日沈宮との対照で、常陸国は日昇宮だった、というレイ・ラインを補強する仮説はいかがかな。
 ここまでくると、立速日は饒速日の別名か、または世代の違う男性太陽神シャーマンだったのではないか、という空想も広がる。常陸国は太陽神と太陽大王の王国だったのだ。

               見晴らし

               頂上前、巨石
 賀毘礼神社からさらに登っていくと、見晴らしのいい地点を経て、頂上に近づくほど巨石地帯になっていく。
 そして藪の中の尾根道のようなところに、申し訳程度の山頂の目印があった。その先を行けば高鈴山になるが、我々はそこまでもの好きではないので引き返す。

                    天の岩戸1

天の岩戸2
 下りは一部ショートカットの急傾斜の険路を選んでしまった。なぜかと言うと、そこが「天の岩戸」と名付けられた巨岩のすぐ横を通過する道だったからだ。間近で観る巨岩の斜面は、迫力と言うか、快感と言うか、妻がまた「恐い」を連発する。

 険路が終わって、そこから先は行きとは別の裏参道で下ってみた。表参道よりも雰囲気は柔らかいが地味な印象。それとも迫力の巨岩に圧倒された後で、山全体の威圧感に慣れてしまったせいだろうか。

               手水の竜神
 帰る前に、手水の竜神さんにお疲れ様。ここの水がとても気持ちよかったので、空いたペットボトルに入れさせてもらった。

大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国① ~

2007,,17
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写真上:大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)の由緒書き。
写真下:国道を挟んで祖霊社がある。斎主の家系を祀るものか? 拝殿よりも大きい。

 神代のこと武甕槌命(鹿島明神)と経津主命(香取明神)が高天原から派遣されて葦原の中つ国(日本)の荒ぶるもの(先住民族)を平らげて諸国を巡った。塩釜の地(今の宮城県)から常陸の国に入ると、粟川(那珂川)と久慈川との間の豊かな地域を占める天津甕星と誇称する香香背男が、大甕の里の石那坂に堅固な砦を築いて頑強に抵抗し、二神の軍を退けた。勝ちに乗じた香香背男は高天原を逆襲しようと、たちまち大きな岩に姿を変え昼夜を問わずずんずん高くなり空を突き破らんばかりになった。高天原の驚きはひとかたならず、二神も手の下しようがなかった。
 倭文(シズ)の里で、里の女達に倭文織を教えていた建葉槌命は、オサを捨てて立ち上がり、甲冑に身をかためて石那坂に馳せ向かい、まさに高天原の雲を突き破ろうとする香香背男の岩を、金の沓(クツ)で蹴飛ばした。巨岩はたちまち四段に折れて飛び散り……(中略)
 術を破られた香香背男は血ヘドを吐いて死んだ。大甕の宿魂石というのがその岩の根っこだといい、那珂郡東海村石神外宿の石神社の御神体になっている巨岩がそれだという。

(榎本出雲/近江雅和共著『消された星信仰』彩流社P145~147より、茨城新聞社編『茨城の史跡と伝説』の引用から)

 ……『大甕倭文神宮縁起』には概ね次のように伝えられております。天祖天照大御神が天孫瓊瓊岐尊を豊 葦原中津国に降臨させるに当り、鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫、あるいは掃蕩する任を負わされておりました。武神として誉の高い二神は国津神等の国譲り、荒ぶる神々の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神がおり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神もこの勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時にこの武神である二神に代って甕星香々背男討伐の大任 を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。命は武神としてもさることながら、知恵の神としてことに優れており、(我国において織物を始めとする組織的な産業を最初に起された神であります)命の知恵を駆使した巧な戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢えない最後を遂げることとなり、その様は今に様々な伝説となり伝えられております。その一つに武葉槌命が大甕山にて甕星香々背男の変じたる巨石を蹴ったところ、その一つは海中に落ちて今に伝わるおんねさま、または神磯と呼ばれる磯になり、あとの石は、石神・石塚・石井に飛んだと伝えられております。また現在の大甕神社の神域を成しております宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられております。斯くて、甕星香々背男の勢力を掃蕩された武葉槌命は、此の大甕の地に留り命の優れた知恵の産物である製塩の術・織物の術をはじめ様々な生活の術を常陸地方は無論のこと、東日本の一帯に広められ人々の生活の向上に貫献されたのであります。今に、武葉槌命はおだて山、即ち美しい山と人々から敬愛の念を持って呼ばれる大甕山上に葬られていると伝えられております。

(右記ホームページより⇒大甕倭文神社 oomika http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm


 以上が天津甕星=香香背男に関する当地の伝説らしい。
かなり以前からひっかかっていたとはいうものの、この神話で有名な日立市の大甕神社まで行ってみようという気になったのは、つい最近のことだった。資料をあさってみて、物部系の剣神や竜蛇信仰や巨石信仰、そして古代の世界的スタンダードである太陽・月・星の三位一体信仰とも深い関わりがありそうだとわかってきたからだった。

(『日本書紀』の神話に関する私の考察は、前回参照
⇒星神「天津甕星」誅殺神話の深層)

 9月17日
 車のナビにセットして、一路、日立市の大甕神社へ。いつも長距離の旅行が多いので、これくらいの距離なら時間を気にせずにピクニック気分で行ける。
 ナビに従って神社に接近すると、国道6号より一本海側の閑静な裏道に入った。駅も高速のインチェも近いというのに、東京の郊外あたりと較べてみても信じられないくらいのどかな空気が流れている。そこが神社本殿の正面にあたるのだが、下から見上げる斜面の樹木に隠れて、位置関係がよくわからない。
通り過ぎて国道と再び合流する地点から振り返ると、白い大きな鳥居が現れた。その向こうに社務所と様々な催し物のできる会館とを兼ねたような大きな建物がそびえていて、こちらのほうが遠目にも目立っている。その前庭をつたって歩いていくと、こじんまりとした社殿の側面が見えてきた。

側面大鳥居
 この側面の鳥居は、近年建てたものだろうか。正面の鳥居よりもはるかに大きく、ひょっとすると社殿よりも存在感がある。

 とは言え、瓦屋根の社殿は、大神神社や三島大社を想起させる重厚な雰囲気がある。
拝殿正面

 その屋根に三つ巴の紋を発見したが、これは出雲系の神紋という説もある。(二つ巴は三輪系とか)
               三つ巴紋

 本殿(拝殿?)の横奥あたりに、「宿魂石」と刻んだ石があったが、これはあまりにもこざっぱりと新しいので、太古の伝説にある巨岩のかけらであるわけはない。参拝客にわかりやすいように設置した案内板代わりのオブジェだろう。
宿魂石

 その横の小さな社が、天津ミカボシ=カカセオのものだろうか。
               宿魂石、横の社
  
 その背後全体が小高い岩場になっていて、てっぺんに奥宮がある。この岩場全体がおそらくは宿根石ということなのだろう。それを鎮め、封じるように、正面の本殿と頂上の奥宮が挟み込んでいる。こちらは天津甕星を撃破した建葉槌命を祭神としている。
                    奥宮

 神社名の「大甕(オオミカ)」というのはこのあたりの旧い地名らしいのだが、それにしても退治された側の「天津甕星」の“甕”とダブるのはどういうわけだろう。たとえばスサノオを祀る神社で、ヤマタノ神社とかオロチ神社とか名付けることはないだろう。
 へそ曲がりな見方かもしれないが、実際、この大甕神社に甕星=香香背男が祀られていると、勘違いしている神話ファンはいると思う。

 もうひとつの疑問。鹿島(武甕槌)香取(経津主)の大明神として知られ、武芸神としては並び称される者もないほどの二神ですら、討ち取れなかった甕星=香香背男を、手玉に取るように掃蕩した建葉槌(武葉槌)とは、いったいどういう神様だったのだろうか。
 『日本書紀』による系図書きでは、天の岩屋戸開きで有名な手力雄(タチカラオ)の子が、大鷲神社の天日鷲、その子が静神社の建葉槌ということになっており、氏族的には忌部氏の祖となる。ふだんは製塩や織物の術に秀でる産業神・職工神であったということで、文武両道ならぬ職武両道のクールさが心にくい。

 武甕槌と経津主は武芸者ではあったが、軍略・兵法家ではなかったのだろうか。激しい反体制的な歴史観を持つ者は、武力ではかなわぬと見た建葉槌が謀略・陰謀によって甕星を陥れたのだ、とするむきもある。
 が、私の考えは違う。高天原側とされる武甕槌・経津主・建葉槌も、それに反逆する甕星も、実は皆同じ物部系の同族神なのである。前者のグループは、とりあえず形の上では高天原に象徴される大和朝廷の勢力に付いた側で、これを内物部と言う。後者は朝廷の正当支配権を認めない陣営で、これを外物部という。
 朝廷を裏で操るどす黒い陰謀家が、難敵の物部を弱体化させるために、氏族を分裂させ、同士討ちにさせたのだ、という見方もできる。が、反面、物部と言う部族の生きようが、決して一所に執着せず、分散して移動しながらネットワークを形成し、時には敵・味方に分かれてでも密に連携しあって、どんな乱世にあっても決定的な全滅を避けるというサバイバル戦略をとるのである。これは日本の古代におけるひとつの雛形であり、今の時代でも世界的レベルで、神の権威の顔をした黒い陰謀と、さらにその返し技を温存する隠れた真神の仕組みが、逆転につぐ逆転の熾烈な死闘を繰り広げているのだ。
 つまり、武甕槌・経津主の二神と建葉槌の間では、(偽装敵対関係の)同族会議の方針が一致せず、交渉(密談)決裂したのだろう。かと言って、同族で死闘を繰りひろげるには忍びなく、二神は「敵が強すぎて為す術がない」というパフォーマンスをとり身を引いた。代打として、説得術と裏工作にかけては一枚上の建葉槌にバトンタッチ。「時代の趨勢から見て、ここは敗れたふりをして身を隠してくれ。実質的な支配権は温存させるから、二人羽織の政治体制でいこう」と建葉槌に頼みこみ、派手に玉砕してもらう芝居をうってもらった。
 が、性格的に器用でなさそうな甕星に、無念の思いは残ったことだろう。そこで祟り封じや祟り鎮めの「宿魂石」の伝説も残った。
 以上が私の解釈。

 社殿の横っちょのほうに御神籤(オミクジ)の自動販売機があったので、100円を入れてみたが、古びていて手入れも良くないのか、うんともすんとも反応しない。こういうのも形を変えた神のメッセージと思っているので、あせりはしなかったが、一瞬「ダッセ~な!」と思ってしまった。
 ところが、先ほど通過した時には人の気配もなかった社務所の前まで来ると、タイミング良く窓のカーテンを開ける動きがあった。妻が会館のエントランスのほうに回ると、自動ドアが開き、そこからも社務所の窓口とやりとりできるようになっている。
 御神籤のことがなければ、わざわざ押しかけたかどうかわからないが、妻がここぞとばかりに事情を説明すると、白装束の神官が中から御神籤の木箱を持ち出して引かせてくれた。悪びれる様子もなく妙ににこやかなところが、このへんの人の気質かもしれない。

 こちらから何も尋ねてないのに、その日焼けした恰幅のいい神官は一人で語りだした。甕星の神話に感じた遠方の人がよく訪ねて来てくれること。そして、妙に自信たっぷりと「(甕星は)悪神ではないですね」と断じてくれた。
また、神社(宿魂石も?)があったもともとの場所はここではなく、もうちょっと内陸の工場用地に買収された山の上で、今でも跡地の碑(説明版?)が立っていると説明してくれた。詳しく調べてきたわけではないので、これは初耳であり、よくぞ聞かせてくれたという感じ。この話を聞かせるために、自動販売機では御神籤を出さないよう、神様が仕組んだのだろうか。
(ところが、この山=大甕山?というのがどこになるのか、地図で見てもさっぱり見当がつかない。この続編は次回で)

 御神籤の内容は次の通り。

運勢/末吉

はなされし かごの小鳥のとりどりに たのしみおおき春ののべかな

籠の中にいた小鳥がとび歩く様に苦しみを逃れて楽しみ多い身となる運です 世の為め人の為めに尽しなさい 幸福まして名も上がります


 古代史探訪としてその地を訪れ、その神社でひいた御神籤の場合は、私個人のことではなく、その神の勢力に関する栄枯盛衰が告げられていると、私は決めこんでいる。
 これは今まで身を隠していた甕星=香香背男の“今”を暗示しているように思えてならなかった。(ついでにちょっとばかり、私にも幸運のお裾分けをしていただければありがたいのだけども)

 
 残っていた写真を載せてしまいます。

 なぜか、摂社?に天満神社。菅原道真の遠祖も出雲系という説あり。
               天満神社

 国道を隔てて反対側にある祖霊殿の参道入り口。本殿(拝殿)参道と対称形に、大通りから斜めに入っていく感じが面白い。
               祖霊殿参道

 国道側の参道入り口にたたずむ道祖神。
          道祖神

星神「天津甕星」誅殺神話の深層

2007,,17
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わりとこじんまりとした、大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)の社殿。

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退治された“悪神”天津甕星の魂が封じられているとされる宿魂石。

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小高い岩場の上に祀られる奥宮。祭神は退治した側の建葉槌命。

**************************************************************************
 そこで二神は、もろもろの従わない神たちを誅せられ、――あるいは言う。二神は邪神や草木・石に至るまで皆平らげられた。従わないのは、星の神の香香背男(カカセオ)だけとなった。そこで建葉槌命(タケハツチノミコト)を遣わして服させた。そこで二神は天に上られたという。――そして復命された。

 一書(第二)にいう。天神(アマツカミ)が経津主神(フツヌシ)・武甕槌神(タケミカツチ)を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神が言われるのに、「天に悪い神がいます。名を天津甕星(アマツミカホシ)といいます。またの名は天香香背男(アマノカカセオ)です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。このとき甕星を征する斎主(イワイ)をする主を斎(イワイ)の主(ウシ)といった。この神はいま東国の香取の地においでになる。
 (~中略~)
 だから経津主神は、岐神(フナトノカミ)を先導役として、方々をめぐり歩き平定した。従わないものは斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。

 (以上、『全現代語訳 日本書紀 上(神代下)』 宇治谷孟 講談社学術文庫P58、P64)


 天津神が出雲系の国津神を攻略するにあたって、それとはまた別系の悪神を誅する神話が、謎めくほどにそっけない記述で残されている。この物語は『古事記』にはなく、『日本書紀』の本文(上記引用文の前段)では、出雲や各地のまつろわぬ(従わない)神々を粛清した後の総仕上げとして登場する。また、「一書にいう」の別伝形式(上記引用文の後段)としては、出雲攻略の前段階として、戦略の拠点作りとも読める物語展開となっている。  
 地元の資料としては、『常陸国風土記』にもなく、※『新編常陸国誌』の時代になってやっと登場するものらしい。(※徳川光圀が家臣小宅生順に命じて編さんさせた『古今類聚常陸国誌』を補なう形で編集した常陸国の総合史誌) おそらく口伝の民間伝承としては、めんめんと(細々と?)伝えられてきたはずだから、『書記』側の記録には何らかの不満を抱いていたのかもしれない。
 それにしても「従わないものは斬り殺した」「草木・石に至るまで皆平らげられた」という徹底したジュノサイト(大虐殺)ぶりは、温厚柔和とされる国譲り神話の、日本人一般のセルフ・イメージとはあまりにもほど遠いものだ。
 そこで最後までレジスタンスを貫き通した星神、天津甕星=天香香背男は、なんと誇り高き丈夫であろうか、……と考える私のような日本人は、あまり居ないのだろう。

 ところで、この星神誅殺神話には、謎深まるいくつかのポイントがある。

1.『記紀』に言う「まつろわぬ神」とは、ふつうは天神に従わない国津神のことを指す言葉だが、この天津甕星=天香香背男は文字通り「天」の神である。と言うことは、高天原の天津神とは別系の天津神が居たことになる。
別系の天津神という意味では、先着の天孫である饒速日尊=邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)との関連も考慮してみたいところだ。

2.日本には星神神話というものがほとんどない。よく親近性が指摘されるギリシア神話などと比べても、この点ではあまりにも異質である。世界的に見ても、日・月・星(金星)の三位一体が古代信仰のスタンダードだったらしく、その後、様々な変遷を経るも、日本ほど星信仰が抹消されている国も珍しいだろう。
 多湿な気候風土のため星が観察しづらかったとか、農耕定住民のため移動のための方位方角の目印となる天体にあまり意識がむかなかったとか、学者さん方のもっともらしい理屈付けはあるが、本当にそれだけだろうか。建国神話のナショナリズムとは関係のない、庶民の童話・民話などでは、案外ありそうな気もするし(たとえば輸入ものではあるが、七夕の織り姫と彦星の物語などはポピュラーなものとして定着している)、神社庁で格付けされるようなメジャーな神社ではないにしろ、星宮神社、星神社、妙見社などに代表される星信仰関連の神社が、列島各地に点在していることもなによりの物証だろう。
 ひょっとすると、有史以後の日本の神様界を政治支配する勢力は、外宇宙に対してえらく閉鎖的な、地球鎖国政策の、「閉鎖系の和」の神界だったのではないか。わずかに『書記』に1~2箇所だけ見られる、このミカボシ誅殺の神話が、出雲や東北の蝦夷(エミシ)以上に隠蔽されてきた古代信仰の前史を暗示してはいないだろうか。

3.榎本出雲/近江雅和共著『消された星信仰』(彩流社)によると、このミカボシ信仰は夜空の星一般ではなく、金星を特定するものだったらしい。
 仏教との習合後、この金星信仰は虚空蔵菩薩に置き換えられた。(密教の行法である虚空蔵菩薩求聞持聡明法が金星と関連づけられているからだろうか)
 もう一方では、大陸の天帝の思想である北極星信仰とも交わり、これは仏教の垂迹説で妙見菩薩へと転じる。
⇒☆星辰信仰とは?☆ http://www.geocities.jp/benedict_abb/intro.html

 天の中心という壮大な発想は、(おそらくは明治の神仏分離以後?)『古事記』の初発神、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)にこじつけられ、ここで神道回帰を果たすこととなる。
 しかし、地方のひなびた寺社にひっそりと祀られる虚空蔵菩薩や妙見菩薩や天之御中主が、はたして額面どおりの神仏への信仰であったのか、はなはだ疑問ではある。おそらくは忘れ去られた天津甕星の残影を、どこかで引きずっていたのではないだろうか。

4.金星を悪神と断じる発想は、魔王ルシファーを明けの明星(金星)になぞらえた聖書⇒西洋神秘思想の伝説を想起させるものがある。
⇒ルシファー http://www.angel-sphere.com/fallenAngels/list/Lucifer.htm
 ただ、霊学的・霊感的に言って、ミカボシがルシファーの同類であったとするのは飛躍のしすぎの気がして、私は賛同しかねる。
 しかし、金星オーラの霊性文化という大きな括りで見るならば、何らかの雑居的なシンクロニシティはあるのかもしれない。この括りにはギリシア神話のアフロディテ(ヴィーナス)や、そのルーツであるメソポタミアの女神イシュタルのような、美と性愛と戦闘の女神も含まれるだろうし、釈迦や弘法大師が悟ったときの聖なる光のファクターとも通じそうだ。
⇒明けの明星 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E3%81%91%E3%81%AE%E6%98%8E%E6%98%9F

5.中国系の陰陽道や占星術では金星を「太白星」と呼び、方位の吉凶を司る「大将軍神」とも呼ばれていた。特に戦勝祈願のための素戔嗚(スサノオ)信仰と習合して、日本の武家や権力者にも珍重されていた時期がある。
⇒スサノヲとニギハヤヒの日本学(日本文化考)妙見と虚空蔵、北辰と明星、破軍星と太白星 - livedoor Blog(ブログ) http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045218.html
⇒王城鎮護・大将軍神社 http://www.genbu.net/zatu/zatu001.htm
 古代スタンダードである日・月・星の三位一体を記紀神話の三貴子に照らし合わせて、日:天照、月:月読(月夜見)とするなら、もしかして星(金星):素戔嗚という見方もできるのかもしれない。

 一方、この太白星は徹底的な殺伐や腐敗をもたらす祟り神として恐れられてきたふしもあり、これはどこか日本の方位占いで言う鬼門(艮=東北)を想起させる。出口ナオ&王仁三郎の大本に言う「艮(ウシトラ)の金神(コンジン)=国常立尊」も、このラインのきわめつけだが、しかし、その本性は破壊のための破壊ではなく、生命の創造と再生(建て直し)がためであり、裏を返せば「悪や偽善の滅び」と「起死回生の逆転再生」の両義性を持つ最終審判的な隠れ神である。

 また、菊池展明著『エミシの国の女神』(風琳堂)では、伊勢の地を追われた禊と水流の古代神、瀬織津姫(セオリツヒメ)も、この中国系ネーミングの「太白」に近い語感の「天白神」として、東国~東北各地に信仰の命脈を保ってきた形跡があるとしている。そして、この瀬織津姫は、一般に知られている伊勢内宮の女神アマテラスよりも以前の、先住大和の女性最高神の本流であり、同様に先住大和の男性最高神であった(男性アマテラスである)天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)と陰陽一対の神でもあった。
 
 国津神の帝王である国常立尊(艮の金神)、闘神の総帥である素戔嗚尊、陰陽一対の最高神であるアマテル神と瀬織津姫、どうやらこのラインは、心優しき祟り神として裏でがっちりスクラムが組まれていたようだ。
 が、それが天津甕星の金星信仰と、どの程度の繋がりがあったのかは、いまひとつ不明瞭である。(上記のビッグネームの中で最も消されてきた名前は瀬織津姫だろうが、それでも天津甕星よりはポピュラーである。ここに何がしかの歴史的必然があるのだろうか)

6.この甕星の古代史ロマンは、一部の神話マニアには根強い人気を誇っていて、天津甕星が祀られている茨城県日立市の大甕倭文神社(実際の祭神は天津甕星を服従させた敵方の建葉槌命)を訪ねて、その紀行文を載せている個人ブログも多く見かける。
 そこで皆、異口同音に述べる感想は、古代の神々(部族?)の闘争の遺恨というものが感じられないというのだ。天津甕星のことも、建葉槌命のことも、ことさら悪く言う神官がいない。穏やかな口調で「悪神などではありません」と言う。実は私も、先日、大甕神社を訪ねたのだが、これと同様の体験をした。
⇒「大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国① ~」 http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-54.html

 前出『消された星信仰』によると、遠祖を同じくする物部系の部族のはち合わせであったため、徹底的な殺戮は行われなかった。戦ったふりをして、折衷したり、棲み分けたりしたという説になる。

 まだ近畿地方に大和政権が成立しない弥生時代に、大陸から船でやってきた人々は、産業人集団・物作りの職人集団・戦いを主としない集団であった。この集団を「物の部」と呼びたい。それに対して「物部氏」とは、300年後半頃に百済から渡来してきた、応神・仁徳朝の有力戦闘集団と考えるのである。この軍事集団の物部氏が各地に進出して、先住の物部の上に乗っている。先に渡来してきている物部も、後から乗った物部氏も、元を尋ねればいずれも大陸の満州・蒙古地方にいた人々で、風俗習慣が似ていることから、あまり摩擦もなく融合したのではないかと想像される。
(『消された星信仰』P90)
 カカセオを祭神とする星の宮が茨城県に多いということは、要するに、藤原氏の常陸制圧戦で一応勝ったことになっているが、実際は妥協したということを物語っているのである。というのは、この戦争で東国の物部は潰されずに残っているからである。
(同P92)


 私の直感では、穏やかな国譲りとされる出雲のほうが、実はよほど陰惨な殺戮劇が繰り広げられたのだ。30年くらい前に神在月の出雲に一人旅した時には、胃が縮むような陰鬱な波動を感じた。10月=神在月というのは、実は出雲の敗戦記念日ではなかったのかと空想した思い出がある。(現在では、その波動はだいぶ和らいでいるはず)

7.やや本題とは外れるが、ミカボシ=カカセオと同様、出雲において天孫族に最後まで反抗した神としては、諏訪大明神である健御名方神(タケミナカタノカミ)も有名である。が、これは出雲の直系ではないという説がある。
 吉田大洋『謎の出雲帝国』(徳間書房)による富家(出雲王族の子孫)の伝承では、健御名方の戦闘的性格は出雲神族のものではなく、傍流であるとしていた。

 「だが」と、富氏は言う・
「出雲神族の血脈は、戦いには向いていない。われわれの祖先は、武力ではなく高い文明で諸国を支配したのだ。武士化した諏訪氏が没落したのは、当然なのだ」
(『謎の出雲帝国』P113)


 また、出雲の豪勇タケミナカタと天孫の刺客タケミカヅチの、神族の命運を賭けた決闘は、後世のフィクションであり、タケミカヅチ(鹿島大明神:建御雷=武甕槌)の存在自体が藤原氏のでっち上げであるとする説も近年有力になっている。

 「藤原氏は帰化人だ、とわが家の伝承にある。彼らは氏素性を高めるために、どうしても天つ神の系譜が欲しかったのだろう。そこで、最初は天コヤネノ命を祖神だとし、次にタケミカヅチをかつぎ出したのだ」と、富氏は言う。
一般に中臣氏(藤原氏)の祖神は天コヤネとされる。ところが不思議なことに、奈良の春日大社では、第一殿にミカヅチ、第二殿にフツヌシ、第三殿にコヤネ、第四殿にヒメ神を祀っている。コヤネのランクはくっと落ちるのだ。(中略)社家では祖神のコヤネを藤原氏に奪われたが、その権力に抗することができず、黙殺したのかもしれない。一方、藤原氏はコヤネを祖神としたものの、さして重要な役割を演じた神ではなかったため不安を感じ、さらにミカヅチに手を伸ばしたのだ。
鹿島神宮の宮司・東実氏はこう書いている。
「いつの頃か東国へやってきた中臣氏が、鹿島神の神系と婚姻関係を結び、やがて鹿島神宮の宮司となり、この神を崇めるようになったのだろう」
鹿島神と藤原氏は本来、関係なかったし、ミカヅチは作り出された神であった。記紀に載せられたことにより、鹿島神宮も後世タケミカヅチを祭神としたに過ぎない。
(『謎の出雲帝国』P101~102)

 はじめ中臣は物部の下に付いていたのだから、春日大社は香取系であり物部系である。大和の春日神社はもともとワニ系の中の、春日氏系海人族の神社だった。さらに前は春日氏の榎本の神だったが、それを金で買ったのが藤原の春日神社である。春日神社は春日氏から譲ってもらったという記録もあり、そのとき榎本の神は春日山から隣に移ったが、また帰りたくなったのでので返してくれといって、戻ってきたといういきさつがある。今でも春日神宮には榎本神社があるのは。このような経緯があったからである。
(『消された星信仰』P174)


 このような説はひそひそ話として語られるマイナーなものかと思っていたら、かなり以前から堂々と述べられていたらしく、講談社の新書版の『古事記』(1977)にも、健御名方と建御雷の力比べは無かったとする解説が添えられている。もともと諏訪地方にあった伝承からのパクリで、中央の権威づけのための演出だというのだ。
  
 しかしタケミナカタノ神の物語は、『日本書紀』には記されていないし、『古事記』の大国主神の系譜にもタケミナカタノ神の名は見えていない。これによっても、タケミナカタの物語は、後に加えられたものであろうと思われる。
 二神の力競べの物語の原型について、松前健博士は、諏訪大社に伝えられた神事相撲(農作を予祝し、または占うための神事儀礼)が母胎となっているのであろう、といわれた。この神事相撲の縁起として語られた諏訪の伝承が、中央の神話に採り上げられるとき、タケミナカタは劣敗者とされ、中臣氏の氏神であるタケミカヅチが勝利者とされたのであろう、と推定されている。
(次田真幸『古事記 上 全訳注』講談社学術文庫 P165)


 なかなか説得力ある説だが、但し、鹿島神宮の神威・霊威自体が空疎なのではなく、中臣・藤原の祖神としてでっちあげられたタケミカヅチがフィクションだというお話である。
 私の母方の先祖が諏訪大社の大祝をしていたことは以前にも述べたが、初めて鹿島神宮にお参りしたときも、祖神の仇敵の神とはどうしても思えない、魂の底からの懐かしさと畏敬の念が沸き起こってきた。それは諏訪大社の上社本宮で感じる波動と、非常に近いものでもあった。(最近は森林の樹勢が衰えてきているらしく、以前ほどのマイナスイオンは感じられないが)

「鹿島神宮の社殿内陣の構造(神座の位置など)は、出雲大社とそっくりなのである」「となりの香取神宮(フツヌシが祭神)では、出雲の“亀甲”を神紋としている」「『宮下文書』ではミナカタをミカヅチとフツヌシの兄とさえしている」(『謎の出雲帝国』P100)
との指摘もあるし、
「フツヌシ(経津主命)という神は、『出雲国風土記』にも伝承のある神で、その神が出雲の神として東国に赴いたと考えられるのです。また、「ヌシ」とは、出雲系の神につけられる尊称で、この語は「竜」・「蛇」を意味する語、したがって水神であり出雲の水神信仰と関係のある尊号である」
とする水野祐氏の大胆な論考もある。

 五世紀頃の話として
「この香取神としての経津主命(フツヌシ)の物語は、大和国家の東国平定に、出雲系の勢力が、大和国家の遠征軍の先鋒となって活躍したという事実を反映しているものと解される」
という、出雲の東征加担(敗走ではなく?)という逆説史観にはいささか首肯しかねるが、
⇒古代出雲『いくつもの出雲』の謎(その2「東国」) - いずものこころ - Yahoo!ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/38950769.html
大和朝廷側:天孫族の刺客とされていたミカヅチとフツヌシの両神が、実は出雲系の国津神や、ミカボシのような別系天神の出自ではなかったかという傍証としては、おおいに歓迎したいところだろう。

8.私が気になるのは、天津甕星の“甕”の文字が、征服者側とされる武甕槌の「甕」(『古事記』では建御雷)とダブっていることである。詩で言えば韻をふんでいるということであり、この意味では、敵対者のはずの諏訪神:健御名方と鹿島神:建御雷も、“建御”で見事に韻をふんでいる。ここに“隠れ”レジスタンスの編集職人の、隠された意図がなかったかと勘ぐってしまう。実は同族だ、という暗示をこめたかったのではないか。
 『記紀』で「甕」の字を探ると、伊弉諾=伊邪那岐(イザナギ)が火神:迦具土=軻遇突智(カグツチ)を斬り殺した時に生じた神として、甕速日(ミカハヤヒ)が挙げられる。
⇒古事記研究所第二分室(火の神「迦具土」) http://www.geocities.jp/tomasanjp/kojiki2.html
 この時に剣の鍔からしたたる血から生まれた神の順が、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)⇒熯速日神=樋速日神(ヒハヤヒノカミ)⇒武甕槌神=建御雷之男神となっていて、故に「甕速日神は武甕槌神の先祖である」と、『書記』はごていねいにも但し書きしている。
 また、剣の先からしたたる血が岩に付いて生まれた神が、磐裂神(イワサクノカミ)、根裂神(ネサクノカミ)、磐筒男神(イワツツオノカミ)などの石神であり、こちらは経津主の先祖神であると念を押している。ところが、この磐裂・根裂などの神名もやはり、甕星=香香背男の隠し名として、東国各地の神社に祀られている形跡があるのである。
 剣から生まれた一連の武神の系譜に、ミカボシもいたのではないか。
もうひとつは、甕速日神や樋速日神の“速日”が、饒速日の“速日”と韻をふんでいることも見逃せない。『記紀』の神々の系図としてはかなり世代が離れているが、この記紀神話以前の男性太陽神である饒速日も、この一連の剣神・武神としてのつながりで、甕星=香香背男とは縁戚関係にあったのではないか、などと空想は広がっていく。

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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五右衛紋☆Rhapsody

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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◆Date:2007年09月
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