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北淡震災記念公園

2008,,07
 5月7日、北淡震災記念公園。
 「野島断層」と呼ばれる、阪神淡路大震災の時の大地の亀裂を記念に残した施設なのだが、その長い断層のほぼ中央あたりに小さな社がある。亀裂に沿った細長~い屋根に覆われた記念館の窓から、社の後姿が見える形となる。
 大震災の時、地面の亀裂がこの社の場所だけは避けるように走ったというので、我々は胸をときめかせて、馳せ参じた。
               社
 上の写真が現在の社だが、元の位置はその10メートルくらい右側だったらしい。記念公園を造る都合で、少し移動したのだろうか。建物の木材はそのまま使ったものと思われる。外見は神社と言うより、納屋のような感じ。昔の田舎によくあるような、農家の私有地に祀られたものだったのだろう。

 車道に面しているので車は走り抜けていくが、地味なせいか人影は少なく閑散としている。我々のようにもの好きな観光客も珍しいのか、近所のおばさんが一人、話しかけてきた。(元の社の位置の話をしてくれたのも、このおばさんだ) なんでもえらく霊験あらたかな神様で、毎日お参りしているのだと言う。娘さんが東京に出て行ってしまって淋しい、などというあけすけな話をしたかと思うと、長く足止めしてしまうと申し訳ないとでもいった空気の読み方で、笑顔でさりげなく引いていく。このへん、淡路の人間に共通のセンスがあるような気がする。

               元地
 記念の碑らしきものも残されている。
神社の名も祭神もわからないが、左側の碑に、庚申だか荒神だか彫りこまれていたように記憶する。

 少し離れたところに平和記念のモニュメントがある。これはミニチュア版で……、
               ピラミッド1

 公園のほうに大きなピラミッドがあった。
               ピラミッド2

 しかし、なんでピラミッドなのか。しかも、なぜ四角錐ではなく三角錐なのか。よくわからないが、本家エジプトのピラミッドを意識して、オリオンの三つ星の位置関係になっているようだ。

 仏教詩人、坂村真民の言葉(正確には真民の母の言葉?)が刻まれた碑を発見。べつに淡路の出身ではなかったと思うけど、実はこの言葉、世界的に出回っていて、あちこちに掲げられているらしい。まあ、相田みつおのインフレよりはいいんじゃないかと思う。
               坂村真民:碑

               念ずれば花ひらく

               念ずれば
               花ひらく

              苦しいとき
              母がいつも口にしていた
              このことばを
              わたしもいつのころからか
              となえるようになった
              そうしてそのたび
              わたしの花がふしぎと
              ひとつひとつ
              ひらいていった

                      坂村真民



 この旅行から帰ってまもなく、茨城や仙台のあたりで大きな地震が頻発したので、ちょっとびっくりだった。


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メモリアルとしての伊勢久留麻神社(後編)

2008,,07
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△「神宮大麻」と呼ばれる、家庭や職場の神棚における「天照皇大神宮」の神札。
伊勢の神宮
家庭のおまつり 神宮大麻をご家庭に
お札・お守り 神宮大麻(じんぐうたいま) より転載。
☆ついでに、
麻声民語(1)神宮大麻ファシズム
のようなへそ曲りな御意見も参考に、バランスをとってください…。


 5月7日
 常隆寺のある伊勢の森の山から下りて、島の東側(大阪湾側)の28号線へ出ると、その国道沿いに伊勢久留麻神社はある。しかし、注意深く車を走らせていたにも係わらず、我々は一回で見つけることができなかった。こんな見晴らしのいい国道を走っているのに、わからないとはどういうわけか。どこか別の場所に遷宮してしまったのか、もしかして、もう廃社になってしまったのではないか、などと勝手な憶測を言いあった。それほど神社の気配というものを感じなかったからだ。
 横道に入って車を停め、あたりを見回し、「念のため、もう一回りしてみよう、あの方角に神社の森らしきものが見えるから」と妻を説得する。裏道から戻って、今来た国道に出て、もう一度ゆっくりと車を走らせる。と、決して小さくはない白い鳥居を発見。走行中の車の視界からは死角になりやすいとは言うものの、なぜ気がつかなかったのだろう。
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 その一の鳥居の横に案内板があり、例の昭和55年のNHK番組「知られざる古代」による、「西の伊勢」の仮説が紹介してある。境内の石碑にも同様の説明があった。

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 敷地はかなり広く、参道横に車が何台か駐車していたが、神社に用があって停めているのでもなさそうだ。基本的に無人の社らしく、神職の方が常駐する社務所も見当たらない。がらんとした風景で、なんだか神様もお留守のような気がした。(だから我々の神社センサーがはたらかなかったのだろう?!)

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 拝殿の中央が内側に凹んでいて、そこに入り込んで礼拝するようになっている。これは富士山北口本宮の浅間神社などと同じスタイル。

 瓦屋根と木造建築はそれなりに由緒が古そうだが、どことなく仏教寺院の建築様式の影響を感じさせる。四国と同様、お遍路さんが盛んな土地柄のせいだろうか。屋根の上に高々と千木が組み合わさるような、一目見て神社だとわかる建築様式が、どうも淡路島には少ない気がする。(伊勢久留麻神社のサイトを見ると、奥の本殿には千木があるが、正面からは見えない)

 祭神は大日孁貴尊。別名、来馬大明神。あるいは、伊勢明神。

⇒伊勢久留麻神社 (淡路市)
 大日孁貴(オオヒルメムチ)とは天照大神の別名だとか、いや卑弥呼のことだとか言われるが、天の「大神」と人間の「巫女」ではずいぶんと存在感が違う。どちらかにしてほしいものだが、私はやはり(太陽神そのものではなく)「日の巫女=卑弥呼」説を採りたい。この時代(弥生期)としては珍しい、シャーマンであると同時に政治的リーダーでもあった、女性カリスマ・リーダーを連合部族の象徴として迎え、その代々(複数)の女首長の霊団を、没後に擬似氏神のようにして祀ったメモリアルが、この伊勢久留麻神社なのだと思う。(後に伊勢神宮から勧請したとは言うものの、かつてのゆかりの地に記念碑的に建てた、というのが私の仮説。)
 そして、その拡大延長として、国家規模の連合体の象徴として祀り上げられたのが、後の伊勢の皇大神宮(内宮)だった。だから、皇大神宮の祭神(通説では天照大神)にとって、本当の経過地としての「元伊勢」ならぬ「元邪馬台国」は、南方渡来系の連合氏族が東遷してくる北九州~淡路あたりなのであり、これに対し、関西圏全般に放射状に点在する、いわゆる「元伊勢」と言い習わされる地は、現在まで続く皇大神宮(内宮)のスピリチュアル・ルーツなのではなく、皇大神宮以前からの「ネイティブ伊勢」なのである。

 NHK水谷説による「知られざる古代」「太陽の道」は、伊勢久留麻神社を持ち出しながら、なぜ北九州(福岡県)の久留米市を連想しなかったのだろう。「皇大神宮の祖神は弥生時代以降の渡来民族の神である」という「国家神道≒⇒神社庁神道」最大のタブーに抵触することを畏れ、寸止め理論にしておいたのだろうか。

 「米が来る」とも読み替えられる、この「久留米」が、アジア南方からの集団稲作農耕文化の本格的伝来と定着を暗示していて、即ちそれが卑弥呼+神武の東遷してきた「太陽へと向かう道=日向の道」だったのではないか。
「久留麻」の「麻」については、古代の列島にもあったらしいが、『魏志倭人伝』にも麻の記述が出てくるので、卑弥呼の邪馬台国が東遷してくる「日向の道」と共に、麻布の文化が伝播していったことも考えられる。(麻の原産が中東だという説もあるので、ユダヤとも関連するか?)

⇒麻 (繊維) - Wikipedia
⇒アサ - Wikipedia
 麻は皇室とも関係が深く、古くから麻の糸や布が献上されていたというし、家庭の神棚の中央に祀る「天照皇大神宮」のお札のことを「神宮大麻」と呼び、(神社庁の指導では)伊勢の皇祖神の依り代とされていることを知る人も多いだろう。(トップ画像参照)
 また「来馬大明神」は、「馬」の文化も「米」や「麻」とセットでやってきたことを暗示しているのかも知れず、これは騎馬民族系の血が濃い神武の系統が合流していたことの証かもしれない。
 さらに、北九州~淡路~伊勢と、常に海辺の地域を拠点としてきたところは、海洋系民族の文化も色濃くミックスされていたのではないか。

 現代日本人は、何かと言うと農耕単一民族にアイデンティティを求め、他の民族は自分らとは違うが故に「外来民族≒侵略者」と決めつけたがるが、これは平安京や江戸時代の閉鎖的文化で醸造された、排他的な同族幻想の「和」である。
 中央集権の頂点が同一氏族の家長であるかのような幻想で洗脳し、決して分権・自立のレジスタンスを芽生えさせないよう、どこまでも“お上”(為政者)にとって都合の良い「和」で懐柔する。名目上は農民が皇族や武士の次に偉いようにおだて上げ、実質的には農耕“奴隷”として集団の労役を搾取する。その偽りのマトリックス(絆)から目覚めていない、彷徨える日本人が、最後のあがきをしているのである。

 大和朝廷の原型ひとつとっても、すでに弥生期(いや縄文末期かな?)から、日本はファジーなミックスド文化なのだ。だからこそ、様々な異文化・異民族にも柔軟に対応して、動乱期を乗り越えてくることができたのではないか。日本人は混合多民族ルーツであることを、もっとおおらかに歌い上げてもいいのではないか。
 これからの怒涛の地球維新の時代、世界の機軸となる役回りとして、本当に必要とされる特質は、しなやかな大和民族の奥底に眠る、むしろ外部や異質なものとの「和」のDNAだろうから。


(つづく)

伊勢久留麻神社は元伊勢に非ず(前)

2008,,07
 (今回、長文のみで写真は次回まわしとなります)


 伊勢久留麻神社という名称には、ちょっとばかりそそられる響きがある。現在の皇大神宮がある伊勢の地以外にも、「伊勢」の名が秘された場所は各地にあり、それらには「元伊勢」と呼ばれる謎めいた古代の残り香が感じられることが多いからだ。
 もっとも、「元伊勢」の解釈も人によってずいぶんと違う。額面通り、※約60年の間に29ヶ所もの遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座するまでの、過去の経過地としての「遺跡」的な視点しか持たない人も多い。一般論や通説としては、こちらのほうが模範解答なんだけどね。
(※出典は同じ『倭姫命世紀』だが、86年間だとか、20ヶ所だとか26ヶ所だとか、引用者によって異説多々。どこを起点とするか、近い場所を別カウントするかしないか、などの相違からだろうか)
⇒丹後元伊勢伝説

 しかし、私のような者にとって、元伊勢は全く違った意味を持ってくる。「元伊勢」ネットワークは、現在の皇大神宮の「伊勢」とはまるで別派の聖地だったのであり、大和朝廷よりも邪馬台国よりもはるか以前からの、縄文以来のネイティブ日ノ本の神々の潜伏する霊場であり、しいて言うならば出雲やアラハバキや東北物部やアイヌなどに近い。つまり、「伊勢」と「元伊勢」は違う!のであり、異文化・異民族・異教のスピリチュアル・ルーツなのだ。
 関西圏の異文化重層構造の深遠を認めたがらない人には、これはいくら説明してもわからない。

 したがって、ある時代から(あくまでも、“ある”時代から)皇祖神とされてきた伊勢内宮のアマテラスが、女神であるか男神であるかなどといった近頃よくある詮索はどうでもいい話なのであり、どちらにせよそれが元伊勢の神=饒速日や瀬織津姫の本流でないことだけが、私の確信なのである。(国の権威が、隠しつつであれ、饒速日や瀬織津姫をちゃんと祀っていたのであれば、日本がこんなにも日和見で付和雷同なくせに幼稚なツッパリ民族になる必然はない。信仰や祭祀とは、単なる暗示効果としての気休めではない。森羅万象の内奥から民族性を規定してくるものなのだ)

 それでは、この淡路の伊勢久留麻神社はどちらだったのかと言うと、現地に立った私の印象としては、やはり「元伊勢」ではなく「(新)伊勢」の系統だったのではないか、というのが率直な感想である。
 小川・水谷説による「太陽の道」を、さらに西へと延長していくと北九州になる。
⇒複数の「太陽の道」 伊弉諾神宮(後)
 弥生時代、この北九州にあった卑弥呼の邪馬台国が、近親関係にある(が別派の)神武の勢力と提携して東征してくる途上、淡路島にも寄った。伊勢久留麻神社の創建は伊勢の皇大神宮よりも後だろうが、その過去の経過地の思い出として、記念碑的に後から建てたのではないだろうか。

 邪馬台国は北九州か畿内大和かという論争があって久しいが、畿内説をとりたがる人達の中には、卑弥呼の王朝が列島に先住する統一王朝の原型であったとしたい願望が見え隠れする。(だから一地方である九州の北端ではなく、本州のほぼ中央であったとしたいのではないか) おそらく、そこには根強い女帝ロマン(裏返せば女帝コンプレックス)と、農耕定住の単一民族への執着がある。しかし、卑弥呼の邪馬台国はそれほど古い時代のものではないし、弥生時代以降の、言うなれば一新興勢力としての外来勢力にすぎない、というのが私の見方である。
 
 そもそも『魏志倭人伝』という名の書物はなく、正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の、(後の時代の)日本における通称である。つまり古代中国の歴史書にオマケ程度に書き添えられた、東夷(東の野蛮人?)についての伝え書きといった、中華思想まる出しの編集である。記した中国人も、どれだけ日本列島に滞在して正確な全体像を把握していたかは疑わしく、聞き伝えのような感じで、最初に上陸した土地の噂話を誇大妄想的にでっちあげてしまった可能性は否めない。
 それをありがたがって自国のアイデンティティにしようとしているのは、舶来ものに弱い戦後日本人のコンプレックスをくすぐられたからだろうか。
⇒魏志倭人伝 – Wikipedia
⇒魏志倭人伝(全文)
⇒魏志倭人伝

 そもそも卑弥呼の一族自体が大陸や半島を経て、列島に入ってきた経緯を持つからこそ、当時の中国(魏や晋)とも密な外交関係があったのであり、「倭人」も列島の定住民などという意味ではなく、当時の大陸東海岸や朝鮮半島や九州沿岸などを渡り歩き、海洋貿易や海賊をやっていた民族の、中国における呼称である。(その後の日本人の数あるルーツの中のひとつとなったことは否定しないが)

 但し、卑弥呼が「鬼道」と呼ばれる巫女の託宣や卜占を旨とする宗教を持っていたことから、そのルーツは大陸北方~高句麗経由のシャーマニズムであった可能性が強い。(この「鬼」のキーワードは、物部神道とも地下水脈で結ばれていて、後の修験道や陰陽道とも近親関係がうかがえる)
 一方、『魏志倭人伝』に色濃く見られる南方海洋系の習俗からすると、この北方系シャーマニズムが南下したものが、当地の海人族や稲作農耕民と交わり、時代を経て習合していったものと考えられる。
 その別派が、『記紀』によって初代天皇とされる神武の勢力である。神武系のほうが元の北方騎馬系の父系社会の風習が強かったが、大まかなルーツを同じくしていたので合流し、力を合わせて東征していった。これが後の大和朝廷の有力部族となる南方海人系の物部氏のルーツである。
 さらに言えば、はるか西方からのユダヤの一派も、これに合流していたかもしれない。ちなみに小川・水谷説の「太陽の道」北緯34度~35度付近を、世界地図に当てはめて中東へとたどっていくと、現在のイスラエルのすぐ北にあるレバノンあたりになる。

 これに対して北方直喩(あるいはムー大陸原産)の物部が、縄文期より、関西以東、関東以北に高度な文化を築いていたが、「東北の野蛮人=蝦夷(エミシ)」などと十把一からげに蔑称され、体制派の「正史」からは完全に抹消され、『記紀』史観には絶対に登場することがない。
 南方海人ミックスの物部⇒弥生以降の大和朝廷を築いた物部、つまり「内物部」だけが物部なのではない。物部の本流は、むしろ東北に先住していた「外物部」である。(ここで言う「内」「外」とは、弥生以降の大和朝廷に対する親和度の分類表現) 「外物部」こそが「元物部」なのであり、この先住系の物部ネットワークを統べていたのが、真の太陽王:饒速日(ニギハヤヒ)であり、真の古代女神:瀬織津姫である。そして、関西圏において、その痕跡を留めている聖地こそが「元伊勢」だったのだ。


 さて、2~3世紀以降に勢力を蓄えた卑弥呼・神武連合の南方経由の習合部族は、東の日が昇る方向へと向かっていったため、「日向(ひゅうが、ひむか)」族と総称されるようになる。日向族の原点は、それより以前の「天孫」瓊瓊杵(ニニギ)だが、それだけこの倭人⇒日向族⇒海人系物部氏の流れも一様ではなく、かなりの時代的振幅をもって、何派にも分かれて上陸⇒東征していったものと思われる。
 また、決して一箇所に定住したのでもなく、現地における勢力争いなどの都合上、九州内部でさえあちこちに遷都していたはずだ。だから、私の邪馬台国≒北九州説も、永続的に北九州に限定したものではなく、上陸後の初代卑弥呼(卑弥呼も個人名ではなく「日の巫女」の称号)の全盛期が北九州だったというだけの話で、その後、各地を移動しながら各派と合流しつつ、最終的には畿内大和へと「日向」したのである。
 
 しかし、その大和には、それ以前の縄文以来からの前大和・元大和の王朝があった。それこそが後に「元伊勢」と呼ばれるスピリチュアル文化圏なのだが、この歴史ロマンは体制側の「正史」からは完全に抹殺され、長い間顧みられることはなかった。

 そこで話は最初にもどるが、その「日向」の道の象徴が、淡路島にも足跡を残す小川・水谷説の「太陽の道」だったのではないか、というのが私の仮説である。
 
 しかし、この日向族の大和王朝も、7世紀の国際的動乱の煽りで完全に後退し、単なるシンボルとして祭祀の中で崇められるだけの、飾り物の神様となっていく。逆説的ではあるが、これが伊勢の皇大神宮が「皇祖」と制定され、いわば国教となっていく分岐点である
 したがって、その後の大和王朝の実権は、南方海人系の「日向」族ではない。どさくさにまぎれて権力を掠め取った、百済経由の藤原不比等による黒幕王朝である。看板だけ、日向系の万世一系であるとして、血統を偽造・粉飾したのである。(政略結婚によって天皇家に食い込んでもいるので、細々と血が繋がっている部分もあるのだが)

 なんとバチ当たりな仮説!と言うかもしれないが、過去、伊勢神宮に参拝した天皇は、近代の明治天皇以前には、7世紀に伊勢神宮崇拝の体制を血道をあげて築き上げた、持統天皇ただ一人という事実! これをどう説明するのだろうか? 本当に伊勢の神が皇祖(天皇家の先祖)であったなら、自分の祖霊・祖神に詣でない子孫のほうが、よほどバチ当たりな話ではないか。
 いや、実態は、祖霊・祖神などではなく、都合よくシンボルとして祀り上げてきただけだからこそ、祟りが怖ろしかったのだ。つまり、藤原黒幕王朝にとっては、皇大神宮もまた出雲大社と同様、祟り鎮め(御機嫌とり)の社だった。その祭祀は、政治的実権を持たないその神(氏族)の子孫の生き残りに間接的に託し、自分らは直接タッチしないのがオカルト保身術となっていく。文字通り、さわらぬ神に祟りなし!である。
 バチを怖れていたのは、藤原黒幕王朝のほうである。ましてや、「日向」族以前の縄文の神々のことなど、口の端にものぼらせたくなかっただろう。


(つづく)


伊勢の森の常隆寺

2008,,07
             天王の森

          八島陵

             崇道神社

 △左:淡路市仁井の「天王の森」(早良親王が当初、埋葬されたとされる場所) 
  淡路国の史跡より
  △中:奈良の崇道天皇八島陵(後に埋葬しなおされた御陵。こちらのほうが有名)
   奈良の陵墓:崇道天皇(早良親王)八嶋陵 その1「とんでもとらべる」より
   △右:京都の崇道神社(早良親王を祭神として祀る。いわゆる御霊神社のはしり)
    崇道神社より


 淡路三山のひとつ、伊勢の森の頂上として知られる常隆寺山(515m)へは、妻の提案で出向くこととなった。
 おおざっぱな方向感覚としては、北淡を東西に横切る「太陽の道」(前々回参照)の途上に、この伊勢の森も位置するとされている。播磨灘(瀬戸内)側から順に並べると、舟木石上、伊勢の森(常隆寺山)、そして大阪湾側の伊勢久留麻神社。……が、実際は北緯34度32分にあるのは舟木石上だけで、狭い島の中でこの三点を結ぶと、どう見ても直線にはならず三角形になってしまう。
 実は、妻も私も、この時点で「太陽の道」のことは全く意識しておらず、気の向くままの道程だった。踏破するつもりならもっと綿密に調べ、気合いをこめて行ったのだが、そこまでの執着はなかったので、ガイドブックまかせのハイキング気分だった。

 5月7日
 舟木石神へ行った翌日、東京へと帰る最後の日の午前中。
 妻が図書館から借りてきたガイドブックでは、この伊勢の森から妙見山へのハイキング・コースを紹介していて、何となく名前に惹かれて行くことにしていた。なだらかなアップダウンの尾根道を片道1時間半くらいとすると、たいしたこともなさそうに思えるが、淡路の直射日光は想像以上にきつい。場所によっては雑草がジャングルのように生い茂る道、もし全行程を踏破していたらバテバテだっただろう。山岳関係のガイドブックというのは、ここ数年の実地踏査をしていない人間が楽観的なことを書いていることも多いので、よほど注意しないといけない。

 常隆寺山へは、車で乗りつけることができる。標識を見落とさずにいけば、幹線道路から脇道へと分岐し、くねくねと曲芸のようなハンドル捌きで登っていくと、そのまま寺の境内へ侵入してしまう。常隆寺というお寺があるから、常隆寺山なのだ。
 登りの脇道に入った時に、コンドルのように大きな羽根を広げたカラスが現れ、我々を先導するように低空飛行したのには驚いた。帰りにも、同じ地点で同じようにカラスが低空飛行したので、ここは何かあるなという気になってくる。(単に近くにカラスの巣があっただけかもしれないが)

 駐車場が見当たらないので、境内で掃除をしていたお寺のお婆ちゃんに訪ねると、「ど~こでもいい、広いから」と淡路の人らしいおおらかさで応えてくれた。
 このお婆ちゃんの話し方が、他の淡路の人と違うことに気がついた。淡路も土佐も基本のイントネーションは関西弁っぽいのだが、この常隆寺のお婆ちゃんは、私の母の実家があった東京の調布あたりの古い言い回しを思い出させて、なんだか懐かしいのだ。つまり、私のお婆ちゃんとか、「猫のおばちゃん」と呼ばれていた伯母などの、自分自身にも語り聞かせるような独特のイントネーションに似ている。
 ちょっと文章では表現不能だが、東京(≒江戸、武蔵野、多摩)に方言がないという先入観は嘘っぱちで、ちょっとばかり“濃い”世界もあるのだ。録音しておかなかったのが残念な気もする。
 妻に気がついたか聞いてみたら、全くわからないとのこと。育ちの中でインプットされたものへの感度とは、それほど微妙なものなのだろうか。
 同じ淡路でも、特定の区域では何か異質の文化が入りこんでいることも考えられる。代々の島の人間なのか、お婆ちゃんに訪ねてみたい衝動にかられたが、耳が遠そうで、話がややこしくなると面倒なのでやめておいた。

(1)常隆寺

 なかなか由緒ある寺らしいが、人口も少なく、里人も足を運びにくそうな山の中、よくこれだけ維持しているものだと感心してしまう。神社などは無人で放置されているところも見受けたので、このへんでは寺のほうが伝統的に根づいているのだろうか。

          (2)御朱印集            
 淡路には何種類もの霊場巡りがあるようだが、その代表的なもの、淡路三十三観音霊場の御朱印集らしきものが、お堂の外壁の上のほうにかかっていた。(ちょっと数が合わないかな?)
⇒淡路三十三観音霊場

(3)常隆寺縁起
 寺の由緒書きを見ると、怨霊の祟り鎮めに半生を費やした桓武天皇の、京の都とのただならぬ因縁が浮かび上がってくる。
 皇位継承紛争にまつわる嫌疑で島流しにされる途上、抗議の絶食をして憤死した早良(さわら)親王の菩提を弔った寺が、どうやらこの常隆寺らしいのだ。その後、陰陽師によって早良親王の祟りを告げられた桓武天皇は、深く悔いて、淡路にある親王の墓に何度も勅使や僧侶を送りこみ、参拝・供養させ、「祟道(すどう)天皇」の尊号まで追贈している。と同時に、陰陽師集団を抱え込み、怨霊対策の平安遷都を開始する。
⇒早良親王の怨念と遷都

 平将門よりも菅原道真よりも以前、怨霊の先駆けとして猛威をふるった、その祟道天皇=早良親王の王墓が、この淡路の伊勢の森付近にあるということなのだ。(王墓は常隆寺とはまた別の場所だが、近くにあるらしい。その後、遺骸は掘り返されて奈良へ運ばれたともいう)
⇒早春の淡路島をゆく 常隆寺・早良親王墓
⇒奈良の陵墓:崇道天皇(早良親王)八嶋陵 その1「とんでもとらべる」

 ということは、このあたりには早良親王を慕う遺族や、祟りを鎮めるための桓武天皇の使いが移住してきて、代々、寺や王墓を守ってきた、ということにならないだろうか。その一族と私の母方の方言が似ているとしたら、突拍子のない話だが。まあ、アンチ天孫権力の「鬼の家系」ではあるので、通じる部分はあったのかもしれない。
 そう言えば、平将門シリーズをやった時、桓武平氏(桓武天皇の子孫の武家)に親近感を持ち始めたのも、このへんと絡んできそうだ。それは桓武天皇と言うよりも、弟の早良親王の遺志が引き寄せ、織り上げた歴史ストーリーなのかもしれない。

 これは正真正銘、ここで初めて知ったことだ。つまり、この日記を書くために調べものをしなければ、気がつかないまま通り過ぎてしまっただろう。
 今、熟読できなくとも後でチェックできるよう、関連サイトをメモしておく。
⇒京都まにあ/早良親王
⇒【よろパラ ~文学歴史の10~ 萬葉人物列伝『早良親王』】
⇒抹殺された早良親王の功績

(4)鳥居  (5)神変大菩薩像 
 本堂内部の左奥に、神変大菩薩(役行者)のえらく古そうな木造が祀ってあり、外からでも拝めるようになっている。(これは望遠で撮ったもの)               
 その本堂の外側、すぐ左奥に石の鳥居があり、曰くありげな上り階段が続いている。寺の境内の、しかもこういう位置に鳥居があるのは、とても珍しい。登ってみたが、奥の院というには少し淋しい、小さな石の祠があるだけだった。そこが伊勢の森の頂上と言うことらしい。
⇒常隆寺山
 それにしても、この一帯を「伊勢の森」と呼ぶようになったのはいつ頃からで、どういういわれなのだろう。そして、この地に早良親王の王墓が引き寄せられたのも、何かの因縁だろうか。

          (6)石碑
         
 境内に並んで立っていた石碑。「淡路巡遷弁財天奉○碑」「大峰山五十○記念碑」と読める。(○のところ、解読不能)
 真言宗の寺だが、弁天や大峰山が出てくるところを見ると、修験道とも縁が深そうだ。ということは、古神道とも地下水脈がつながっていることになり、どことなく反体制の香りがする。そちら側の力をも借りなくては鎮まらないくらい、強力な怨霊パワーを感じさせたのだろう。

(7)トリック・アート
↑これはちょっとばかりイタズラ心がおきて撮ったトリック・アート写真。六地蔵の上に、妖精のように小人化したMy奥さんが立っているように見えないかな? 遠近法のトリック。

 ここに車を停めて妙見山へ登りたいのだと、寺のお婆ちゃんに申し出たら、だったら車で入れるところまで入って、そこから歩いたほうがいいと薦められた。細い道だがすれ違う車などいないから大丈夫、と太鼓判を押す。半信半疑だったが、あまりにも自信たっぷりなので、教えられた道へと車を進めてみた。
 とてもハイキング・コースとは思えない薄暗い廃道のような裏道だったが、なるほどかなりのところまで車で行ける。ここをすべて歩くのは、ちょっと気が滅入るかもしれない。
 だんだん雑草のジャングルの中のような、むさ苦しい狭い道になってきて、大きな鉄塔のところまで来たら、さすがにそれ以上進むのをためらう光景になった。昨年の枯れ草がまだ萎れずに密生し、両側からその草薮が覆いかぶさる中、車の轍(わだち)だけは続いている。軽のSUVだったら行けるかもしれないが、2000CCのエクストレイルではこのへんでギヴアップだろう。
 車を停めて、先を偵察しに妻が歩いていく。臆病者の妻がめずらしく一人でずんずん行ってしまうので、私も後に続いた。ところが、カメラを車に置いてきたのと、キーをかけていなかったのを思い出して、急いで走って戻った。一声かけてから戻ればよかったのだが、いきなり私の姿が消えたのにビビッた妻も、驚くほど早く戻ってしまった。
 そこからまた再出発する気力も湧かず、その先の妙見山は断念。ワクワクするような予感も失せていたので、今来たもの寂しい道を引き返したのだった。
 我々の秘教探索旅行は、期せずしてこういう小アドベンチャーになってしまうことが多い。

 正規の車道に戻ると、やけに広々としてすっきりと感じる。あたりは民家も少なく、田園風景にしても独特の雰囲気が漂っていたが、後で考えてみると親王の王墓がどこかに見えていたような気もする。

 そして島の東へと横断。大阪湾側の伊勢久留麻神社へと向かう。

(つづく)

千光寺の狛猪/他 ~ 淡路島、番外ショット集② ~

2008,,07
☆淡路島シリーズの本編で載せきれなかったショットを、ここにアップしています。

 2008年5月7日
 淡路島中央部に、淡路三山のひとつとされる先山(448m)はある。その頂上にある千光寺で、珍しい狛猪(コマイノシシ)を見つけた。
狛猪1 狛猪2

 なぜイノシシなのかというと、この寺の縁起伝説がからんでいるらしい。
以下、⇒先山千光寺の縁起伝説より引用。

 淡路島からは播磨灘をへだてたところにある播州の深山で、猟師の忠太が大猪のイザサオウを射た。イザサオウは、矢を負ったまま海を渡って先山に逃げた。忠太が後を追って山に分け入ったところ、大杉の幹に洞穴があって、中に煌々と輝く千手観音があった。その胸には、忠太の射た矢が刺さっていた。
 忠太は深く反省して殺生を止め、名を寂忍と改めて、仏道に入った。この山に寺を建てて千手観音を祀った。


 珠算碑というのも珍しい。こちらは何のいわれなのか、わからなかった。
               珠算碑

 また、この寺は猫がたくさん居る。逃げもしないが、すぐに懐かないので、寺で飼っているのか、単に棲みついてしまったのか、よくわからない。表情はのどかだが、少し痩せていて、栄養状態はいまひとつという印象だった。
                    猫1

               猫2

               猫3

 さて、次の写真の中には、猫が何匹いるでしょう?
          IMG_1048.jpg

 正解は3匹。でも、ホントは4匹。
歌碑の裏側の日陰に、もう一匹、黒猫がいるのですが、透視しないと見えません!


舟木石上の巨石祭祀跡 ~ 国産みの島、淡路③ ~

2008,,06
              舟木石上

          △舟木石上の巨石群の配置図。石上神社の聖石 より転載。


 5月6日
 舟木石上の巨石祭祀遺跡はわかりずらい場所にあると、事前にネット情報で調べていたので、念のため宿のフロントで訊ねてみた。今はよほどのマニアでもなければ行くような場所ではないらしく、年配のフロント・マンは、パソコンの使い手である若い者を呼びつけて調べさせていた。二人とも島の人間なのだが全くわからない様子で、タクシー会社や町の観光課などにも電話をかけまくって、知りうる情報を集めてくれた。
 その行動が迅速なのには驚いてしまった。決して営業用のパターン化したリップ・サービスではなく、実に素朴でフレンドリィなのだが、熱心で的確で無駄がないのだ。若い方のフロント・マンは「時間があれば、自分もいっしょに行きたいところだけど」とまで言ってくれた。神話の島に生まれ育ちながら、まだ何も知らないことに、未知への期待を膨らませているように見えた。知らないことがコンプレックスにならず、プラス思考の好奇心になるところが、いい性格をしている。

 結局、私がネットで調べた番地をナビに入力して行けば、迷うことなく着ける場所だった。瀬戸内側(播磨灘側)の街道から、ちょっと内陸に入りこんで登っていく、こんもりと小高い丘陵地にある。
 舟木石上“神社”と表記するサイトも多いが、実際は社殿も社務所も何もない 、鬱蒼とした杜(もり)の中にある巨石祭祀の古代遺跡である。

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 遺跡のすぐ前は私道のような素朴な風景だが、道の反対側にはちゃんと駐車場らしきスペースがある。児の手柏(コノテガシワ)を尖がり頭にしたような針葉樹の列が、むこうの薄暗がりへと吸い込まれるように続いている。南国の強い日差しの中、揺らめく炎のような樹木の輪郭は、まるでゴッホの絵のようだし、その奥の暗がりのコントラストは、マグリットの絵のようでもある。
 遺跡の斜向いにはごく普通の民家があるし、隣接する土地の奥のほうにもペンションか別荘のようなウッディな建物があり、庭で談笑している人達が見えた。日常と非日常、現代と古代が交錯する、実に奇妙な景観だ。このへんの住民は、この遺跡をどう思い、どの程度の認識や愛着を持っているのだろうか。

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 遺跡の杜の入り口の鳥居と、説明板。
例のNHK「太陽の道」の番組のことに加えて、女人禁制の歴史的・宗教的根拠が説明してある。古来、朝日を迎える座では男性が祭事をつかさどってきたので女人禁制。当地では今なお里人の間で固く守られている、とある。
 これを受けて、ともかく女人禁制!と書いているサイトやブログが多く、私も妻を連れて入れる場所なのかどうか最後まで迷ってしまった。宿の人がタクシー会社に聞いてくれた情報では、誰も取り締まる人などいないし、特に迷信深い人でもないなら好きにすればいいんじゃないの?みたいな、ずっこけるような鷹揚な返答だった。
 現地まで来てみると、「(女人禁制が)今なを固く守られ」というのも実は本当なのかどうか疑わしくなるような、のどかでバリア・フリーな雰囲気に満ちている。

 夕日を送る座では女性が祭事をつかさどった、とも書いてあるので、「じゃあ、そこでは男子禁制だったの?」と妻が切り返す。ごもっとも様だが、そんな話は聞いたこともない。My奥さんはその種の因習とほとんど無縁に育ってきた人間なので、それ以上、話しても無駄。それでは女を捨てていただきましょう!と、かけ声一閃!小さな鳥居をくぐったのだった。
 (「日を迎える座=朝日」の祭祀が男性、「日を追う座=夕日」の祭祀が女性という説明は、一見もっともらしいが、古代における普遍的な慣習ではないだろう。私自身、初耳だし、陰陽配合の法則からいったら、むしろ逆のような気もする。陰と陽、陽と陰が結びつくのが王道であり、朝日と男、夕日と女では、陽+陽、陰+陰の同性愛になってしまいそうだ。
 女人禁制の山や島があるのは、山の神や海の神が女神である場合、女神の制御不能な嫉妬心によって、霊的に過敏体質の女性に危害が及ぶことを避けるため、という説明を読んだこともある。ローカルな自然霊は、決して聖者のように公明正大に悟りきった存在ではないのだな)

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 鬱蒼とした杜に一歩踏み入れてみると、そこはやはり異界。原初の森へタイムスリップしたかのような異様な空間だ。

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 いつ頃の時代から設置されたものだろう。正面にある小さな木造の祠。(最初からあったものではなかろう?)
 その前に立ったとき、妻はゾクッ!ときたという。私もこの祭祀場を守ってきた古代人の姿が、一瞬、脳裏をよぎった。洗練された縄文人というより、旧石器時代のナントカ原人ような、野趣あふれるビジョンだった。
 最初のその一瞬だけで、原始人オーラは霧散して消えたのだった。察するに、ここの原人さん達の霊魂はかなりナイーブでシャイである。がさつな現代人が入って来たので、むこうもさぞビックリして、ほとぼりがさめるまで身を隠したのだろう。
 脇の「稲荷社」の参道らしきものの横に座って休憩し、弁当まで食べさせていただいた頃には、すっかり気配も変わり、普通の気持ちよい木陰になっていた。

 巨石の配置はトップの図を参照して欲しい。
 ストーンサークルというには雑然とした配列だが、この小さな森の中にこれだけの巨石が密集しているのは、やはり人為的な祭祀の場であったことに違いはないだろう。
 しかし、これが「太陽信仰の祭祀場」とされたのはNHK水谷説以降のことであり、実はさしたる確証はない。地元の人々が「岩石に荒神(コージン様)を見出して祀っている」ということ以外に、祭祀対象の性格は分かっていなかったということだ。
(ここで詳しくは論及しないので、次のサイトを参照してほしい。⇒石上神社の聖石
 しかも水谷説では、ヤマト王権下の日置部(ひおきべ。日の神を奉ずる氏族)によってなされたものと説明していたらしいが、私の直感ではそんな“新しい”ものではない。そもそも卑弥呼の邪馬台国からヤマト王権に受け継がれた祭祀こそが日本最古の王朝ルーツ、という発想が、私の中にはさらさらない。“それ以前”にこそ、本当の古代ロマンが始まるのである。


 それでは、巨石群を左回りに巡って行った写真を並べてみよう。

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 正面の祠の真後ろの岩を、右側面から見たところ。意味ありげに囲まれた空間があるが、写真左側の二つの巨石の間に、さらに人間が入れるくらいの狭い隙間がある。不敬にも?妻は挟まって、私に記念写真を撮らせたのだった。(ここでは秘仏?として非公開とする)


 巨石とのコントラストのせいか、樹木がひょろひょろとして勢いがないかなあ。
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 80~90年代のブーム時はもっと訪れる人も多く、もうちょっと樹木の世話がされていたのだろうが、現在は放置され、やや荒れている感がある。

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 木造祠から見て、左側面やや奥にある横並びの「列石」から、その向こうの女陰形の石組みを眺める。ここが祭壇だったのではないかと、重要視するむきもあるようだ。
⇒全国の磐座(いわくら) 巨石 淡路島 舟木石神座
 どこが正面であったかなど、後世の解釈で変わってしまうだろうが、「女陰」という解釈も、私にはファジーにすぎる。二つの立石が倒れて寄りかかればこれくらいの造形にはなるだろうし、多産豊饒の信仰というなら、もっとハッキリとした男石と女石の祭祀跡がありそうなものだ。
 結局、後世のインテリゲンチャがああでもないこうでもないと、屁理屈をつけて楽しんでいるだけのような気がする。というのも、私にはここが、他の磐座遺跡に時として感じるような、天地宇宙にも通ずる古代信仰の祭祀場だったインスピレーションがないのだ。根源の大神にコンタクトするための磐座祭祀と言うより、この世の人間の生活臭が強く、しいて言うなら古墳や陵墓のような印象を受ける。

 しかしながら古代の生命感では、死と生は連続している。死出の旅路としてのあの世への出口は、同時にこの世へ出生してくるための入り口であった可能性もある。舟木の「舟」もそこに関連していて、あの世とこの世の霊魂の渡し舟を象徴していたような気がしてならない。だが、それはあの世とこの世のミディアム地帯の、ある種、人間臭い祭祀場なのであり、“超えて”しまった神々への祈りの場ではないのだ。……たぶん。
 
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 ぐるっとひと回りして、また祠の前を通過し、やや遠ざかったところ。


 水谷説ではこの舟木石上遺跡が「太陽の道」の西端となるが、同じく「太陽の道」の線上にあるとされる、伊勢の森や伊勢久留麻神社へもアクセスしてみた。

(次回につづく)

リストラされた神?大和大国魂大神 ~ 大和大国魂神社(下) ~

2008,,06
「大和大国魂神社」(上)(中)(下)のうちの(下)

 大和大国魂神社は淡路島の七つあるI.C.のうちの西から三つ目、西淡三原I.C.から東へ3Kmほどの小高い丘の上にある。
 高速道路と同じくらいの高台なのだが、下を交差しながらくぐる一般道からはちょうど死角となり、周辺の閑静な住宅地をぐるぐる回りながらも、なかなか見つけることができなかった。
            
 ようやく大鳥居の前の空き地に車を着けると、強烈な花の香りが漂ってきた。私には何の種類だかわからないが、細い枝に白い花弁が密集して咲く、女性的な可愛らしい樹だ。その姿とは裏腹に、南国特有の熟れた色香のような、あるいは貴婦人の夜の香水のようでもあり、悪い臭いではないのだが頭がくらくらしてくるほどだった。その蜜を求めて、蜂がさかんに群がっていた。

               花

 白くて新しい鳥居は平成10年に再建されたもので、400年前に建立された旧鳥居は平成7年の阪神淡路大震災で復旧困難となり、氏子が団結して新しく建立した旨が記念の石碑に刻まれている。

大鳥居1

                    大鳥居2

          石碑
                    
 向かって右の柱に「鼻子山大和社」とある「鼻子山」とは、このへんの古い地名なのだろう。素盞嗚尊が配祀されているだけあって「鼻」なのだろうか。(スサノオはイザナギの禊の時に鼻から生まれたとされる。左目がアマテラス、右目がツクヨミ) そう言えば、大宮の武蔵氷川神社も高鼻町というところにあった。

 参道と境内を兼ねたような地肌丸出しの乾いた地面が拝殿まで続き、その両脇を鬱蒼と茂った樹木が囲んでいる。樹木の根元は土塁のように高く盛り上がって外界から遮断され、なにか秘密の基地か要塞のような趣が漂っている。
参道

 考えてみれば、私が子供の頃の地域の神社は、こんな感じの素朴で野性的な造りが多かった気もする。参道に踏み石が敷き詰められ、すっきりと区画整理された神社など、昔は神宮や大社クラスの格式ある社だけだったのかもしれない。

拝殿
 拝殿は素朴な切り妻造りだが、やはり壁のない開放系で、奈良の大和神社や樫原神宮と共通する。

               熊蜂
 拝殿向かって左に、大輪のさつきが花を開いていて、大きな熊蜂がいつまでも蜜をあさっていた。

          樹
 拝殿向かって右には、神道と言うより仏教の天上界の風景が似合いそうな、異国情緒たっぷりのひょろ長い樹がある。迦陵頻迦(かりょうびんが)の舞い飛ぶ極楽浄土を連想させる。(オーブらしきものが写ってしまったが、逆光でよく写る現象なので、本物かどうかはわからない)

               石の円盤
 拝殿正面の左右の地面に、ドーナツ状の石の円盤のようなものがいくつも埋め込んである。祭りの時などに、のぼりの旗を差し込む台かもしれない。

由緒書き石碑
 大きな石碑の由緒書きを見ると、「土御門天皇元久二年庁宣ニヨリ祭料ヲ下サレ其神ヲ祭リ」とあるから、配祀にある土御祖神とはこの土御門天皇のことだろうか。
 「土民群集桜花ヲ賞ス世ニ二ノ宮ノ桜祭ト称シ世人ノ知ル所ナリ」ともあるので、桜の祭りでも有名だったらしい。「花」の女性的なイメージと、「鼻」の象徴する闘神:素戔嗚のイメージと、なんだか拮抗する危ういバランスを感じさせる神社だ。

 出雲も初期の開拓期には、素戔嗚を軍事の守護神としていたかもしれず、後の神武(ジンム)や倭健(ヤマトタケル)もそれは同じことで、後の研究者の論法では、この祀るほう(出雲や神武や倭健)と祀られるほう(スサノオ)がしばしば混同され、同一視される傾向がある。
 さらに後の天武天皇や織田信長も、決戦の前には素戔嗚(≒牛頭天王)に詣でたのは同じで、つまりここ一番の大勝負の時には、派閥を超えて闘神の総帥として信仰されていたのが素戔嗚大神だった。したがって、この神社に素戔嗚が配祀されているからといって、素戔嗚の直系の神社とは言えない。ただ、軍事に携わることが多かった氏族の神社、という暗示だけが残る。
 
 碑文の最後のほうでは、「当社ハ大国主神即チ大己貴神ナリ」とある。「其故ハ大黒ノ神影ヲ摺テ世ニ弘メ配ル古板アリテ今猶珍伝シ」ということだから、大黒様の御姿を摺る版画の原版があったことが根拠らしい。
 しかし、出雲の「大国主」が七福神の「大黒」の読み替えで習合するのは、早くとも室町時代以降のことであるから、これは裏の“祭神隠し”のカムフラージュに思えてしまう。神武よりも出雲系のほうが、ポピュラーで無難だった時代があるのだ。歴史の逆説と混線である。

 神社のサイトの中には
「古代の社殿は、西向きで瀬戸内海に向っていたが、海上を通る船人が礼拝をせず。祟りをなしたので、南向きに変更されたという。現在は南南西向き」と記すものがある。
⇒大和大国魂神社 大和大圀魂神社 大和大國魂神社 (淡路島)
 なぜまた、船人はこの社を礼拝しなかったのだろう。それはこの周辺の古くからの海の民が祀っていた神ではなく、朝廷からこの地に左遷された神であり、押し付けられた神社だったからではないだろうか。
 なぜまた、この神社の神は、遠く瀬戸内海を通る船人の礼拝まで強いるほどプライドが高く、祟りをなすほど偏屈だったのだろう。それはかつてはこの神が、中央である朝廷の政権をも支配した皇族の神であり、後の政争からリストラされ、祟り封じとして島に流された神だったからではないだろうか。
 横っちょを向かせればいいという発想も、いかにも姑息だが、その程度のことで祟り除けになったとすれば、この神がこの地の民に直接の怨みはなかったからだろう。
 権力闘争の末、中央から弾かれた“祟り神”であり、都から最も近所の“島流し”“神流し”の地が、この淡路島でもあったのだ。

 そもそも西向き(日没の方向)の社殿が珍しく、これ自体が祟り鎮めの社であった可能性を臭わせている。もうひとつは、この神(氏族)のルーツが西からやってきた「日向族」の一派であり、その後も同族の子孫達が援軍として西から入ってくることを期待して、いつでも迎え入れられるよう西を向いていたのではないか。そんな幻想をも抱かせる。(詳しくは、前回、前々回を参照)

 伊勢久留麻神社はほとんど神様不在の遺跡だったが、この大和大国魂神社はかろうじてホットラインで結ばれていて、何かの時に蘇りそうなやばい雰囲気はある。小一時間もこの場にたたずんでいたが、社務所の人間も居なければ参拝者も人っ子一人訪れることのない、実に不可思議な異空間だった。


「大和大国魂神社」編を終了。
「国産みの島、淡路」シリーズはつづく。


大和大国魂神社と建国の謎

2008,,06
 前回、奈良の大和神社、および淡路の大和大国魂神社の祭神は、神武天皇やその一族の祖霊ではないか、という仮説を展開した。が、これはもちろん祭祀の歴史が秘匿されてきたことを前提とする「隠れ祭神探し」の論法である。表向きの社伝や延喜式の神名帳に、そんなことが書いてあるわけがない。そういう表向きの記録は、神道の歴史の氷山の一角にすぎない、ということを肝に銘じておいてほしい。神道の歴史とは、改竄と隠蔽と秘匿の歴史なのだ。

 念のため、ここで大和神社と大和大国魂神社の、記録の上での祭神を整理しておく。

▽大和神社(所在地:奈良県天理市新泉町306)
中央:日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ) 別名:大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)
 向右:八千戈大神(やちほこのおおかみ)
 向左:御年大神(みとしのおおかみ)
▽大和大国魂神社(所在地:兵庫県南あわじ市榎列上幡多857)
 祭神:大和大圀魂命
配祀:八千戈命、御年命
素盞嗚尊、大己貴命、土御祖神

 大和神社を勧請したものが大和大国魂神社なのだから、祭神が共通するのは当然だが、日本大国魂大神(大和大圀魂命)、八千戈大神(八千戈命)、御年大神(御年命)の三神が共通している。
 淡路の大和大国魂神社のほうは、これに素盞嗚尊、大己貴命、土御祖神の三神が加わる。大己貴命は出雲神だし、土御祖神は聞きなれない神名だが、豊受大神宮(伊勢の外宮)の別宮として知られている。(土宮の祭神:大土乃御祖神)
 朝廷側の神道からするとトラブル・メーカーのイメージがなくもない素盞嗚尊や、先住系の出雲神が、臆面もなく配祀されているところが面白い。淡路島の分社のほうが大和の本社よりも、コスモポリタンだったのだろうか。 こちらのほうが、藤原不比等+持統王朝に摩り替わる以前の、初期大和王朝の原型をとどめている、とは考えられないだろうか。地方の分社だからこそ、中央から細部までの干渉をまぬがれた。故に“消された”神名が少ないのである。

 「八千戈神」については、『古事記』によると出雲の大国主の数ある別名のひとつとして知られるが、各地にある「八剣神社」の祭神が素戔嗚尊であることが多いことなどから、八千戈神=八剣神=素戔嗚尊であると解釈するむきもある。が、そうすると淡路の大和大国魂神社では、八千戈神も素戔嗚尊も両方とも祀られているので、祭神が異名同神として重複してしまうことになる。
 一方、通説に従えば「大己貴神」も「八千戈神」と同じく大国主の別名であるから、この種の神名の重複や混線は、神社神道では日常茶飯事の不条理ではある。幾多の部族の信仰が、重層的に絡み合い、政治的な駆け引きから隠されたり、すり替えられたり、こじつけられたりしてきた歴史の闇なのだ。

 神道は一見シンプルだが、少し突っ込んでみると複雑怪奇でわかりづらいと言う人も多い。当たり前の話である。隠蔽王朝の残滓である神社庁の説明に、教科書のように明快な公式などないと思ってもらわなくては困る。
 神道とは、おおいなる謎かけなのである。現行の権威や通説のキレイゴトの中に真実などない。仮面をひっぺがした逆説の彼方に、真の姿があるのである。

 「御年神」は大年神の子で、スサノオの孫ということになっている。その大年神(大歳神)は、近年の研究者によって、先着の天孫降臨である“元”大和の大王:饒速日(ニギハヤヒ)のことだというのが、なかば定説化している。
 したがって、大和神社の配祀は、素戔嗚、饒速日、大国主などの先住系の神々でガッチリと固められていることになる。後の持統・藤原朝による伊勢神宮の権威付けに較べれば、ネイティブ系の神々に想像以上の敬意を表した祭祀形態と言わざるをえない。いくら軍事的・政治的に支配しても、当初はそうしなければ国が治まらいほど、出雲と元大和(饒速日)の神威は広大に浸透していたのだろう。

 では、なぜ、いっそ出雲・元大和連合の神社とせずに、神武天皇が“隠れ”祭神であると推定するのか。それは淡路の大和大国魂神社のほうの数少ない祭礼の筆頭にあがっている、2月11日「建国祭」が雄弁に物語っている。
⇒大和大国魂神社 大和大圀魂神社 大和大國魂神社 (淡路島)
⇒建国記念の日 - Wikipedia
 「建国祭」とは、かつて明治期から戦前までは「紀元節」と称された国民の祝日で、神武天皇が即位したとされる日に由来している。
 本社の大和神社のほうは祭りが多すぎてぼやけてしまうが、地方の分社のほうが古代の名残りを素朴にとどめていることもある。もし出雲・元大和系の神社だったなら、自分らを侵略し征服した神武王朝の建国を祝う祭りを、末代まで伝えるものだろうか。
 神武王朝は国を治めるための折衷案として、先住系の神々を配祀したのである。それは男系天皇としながらも、当初は出雲系から皇后を迎えていたという、政略的な婚姻形態からも窺い知ることができよう。

 伊勢神宮が権威付けされる以前では、むしろこの大和神社と大神神社、そして石神神宮の三社が、初期大和朝廷の祭祀の最重要拠点であったとする説も散見する。
 そして、この三社はすべて、物部氏の息のかかった神社なのである。大神神社は自然霊としての土地の守護神を祭る総本社であり、石神神宮は軍事と霊的な秘術を伝えるイニシエーションの奥宮であり、大和神社は神前において具体的な政治指針を談合したり卜占したりする神前議事堂だったのではないか、というのが私のインスピレーションである。
 前回のトップ写真の解説で、大和神社と(神武天皇を祀る)樫原神宮が「開放系の拝殿と、中庭のような空間を隔てて、奥に本殿がある構造が、似てないだろうか?」と書いたが、この構造がまさに、本殿に招魂した守護神や祖霊の御前で、閣僚達が政治的な相談をしたり、社交的なイベントを催す場だったと想像できるのだ。

大和神社2 △大和神社 - Wikipediaより 

 だが、物部氏の凋落とともにこの物部系三社の権勢も退き、伊勢神宮へと最高権威が移行していく。特に政治的会堂であった大和神社の衰退が最も顕著だったのだろう。その裏には、手のこんだ政治的クーデターが潜んでいる。
 この物部氏は(前回に説明したように)神武系の物部氏であるから、神武の名は祭神から消された。代わりに日本大国魂大神という抽象的な神名が残されたのである。

 「大国魂」と聞くと出雲の「大国主」を連想しがちだが、もとの意味は似たようなもので、その連合共和国の大統領とか総理大臣ということであり、固有の神名ではない。しいて使い分けるなら、生前は(○代目の)「大国主」であり、死後は代々の国王の霊魂を総称して(霊団としての)「大国魂」としたのだろう。
 新しく即位した天皇は、この「天皇霊=大国魂」の霊団を守護霊として我が身に結びつけるイニシエーションが義務づけられていた。それが真床追衾(まどこおうふすま)である。

▽以下『天皇はやはり神だった』より引用

◎「新しい神」となる儀式
 正殿にあがった新天皇は、奥の部屋に入って外部を一切排除した「おこもり」の時間を持たれる。そこでは「八重畳」という特別あつらえの分厚く重ねられた敷物の寝床が、降臨する神の「寝座」として設けられ、その上には聖なる夜具が置かれている。また、「寝座」の四周には「沓」「扇」「櫛」が配置されているという。
 その聖なる夜具こそ「真床追衾」と呼ばれるものである。真床追衾という言葉自体は、もともと御神体や御霊代など、聖物・神体にかける絹製の衾(布製の上掛夜具)をいう。つまり、神霊の降臨される依代にかける神聖な寝具・掛け物である。
 実際には、その寝座に関して、新天皇がどのような行をされるのか、何も伝わってはいない。しかし、日本全国の神社の中に、各神社での新嘗祭(大祭)のとき、神主がそっくり同じような「いみごもり」の儀式をする例があることから、ある程度の推測はできる。
 新嘗祭をする神社では、やはり奥殿の神座に潔斎した布団とかけものを用意し、正装した宮司が、外部を一切遮断して、布団の上にかけものをかぶって一定時間横になる。この聖なる寝具にくるまった「おこもり」には、横になっている間に、神の力を受けて生命力を更新するという意味がある。
 同様のことが、「大嘗祭」正殿でもおこなわれていると見てもおかしくないだろう。
 新天皇は、神の降臨する「寝座」に横たわり、「真床追衾」をひきかぶり、一定時間横たわる。このとき、真床追衾は、新天皇を生み出す「天皇霊の受信装置・依代」となり、新天皇に「御稜威」が宿る瞬間を迎えると考えられる。
 いいかえれば、真床追衾は、純粋無垢な赤子と同じほど精進潔斎された新天皇を、外界から完全に隔離するバリアとなり、皇位継承者のみにかかる「天皇霊」を受け取り合体させる霊妙な器官となるのである。
 ご神体にかける真床追衾を、みずからかぶられるということは、新天皇そのものがご神体=神になることを意味するのはいうまでもない。ここから、皇位継承者は、決定的に「新天皇」となられるのである。
 また、この「おこもり」の儀式にあたり、特殊な祝詞や祭文などをとなえたり、あるいは横になっている間に、神霊よりくだされる夢を見て、半覚醒状態で「天皇霊」の降臨を受けるということも想像できる。「沓」「櫛」「扇」などの小道具も、新天皇だけの秘儀の行法のために用いられているのかもしれないが、それらについては全くの謎である。
 こうして「天皇霊」を受けて「御稜威」を発揮する「新天皇=新しい邇邇藝命」が誕生する。
 これらの儀式が、単なる形式ではないことを、今上天皇の大嘗祭に参加し、今上陛下の変化をまのあたりにしたある神職が証言している。その神職は、今上天皇のお顔が、正殿での「おこもり」の儀式に入られる前と後では、まるで違っていたという。儀式を終えた新天皇の姿には、それまでになかった、みちがえるような「威厳と力強さ」が備わり、畏怖を感じたというのである。
 たった一晩で、皇位継承者を、威厳にあふれた「天皇」にしてしまう働き・・・それこそが、万世一系の歴代天皇が受け継ぎ、手渡してきた「天皇霊の御稜威」の何よりの証拠といえないだろうか。 (了)
  

 この皇位継承としての真床追衾の秘儀を施す場は、物部王朝時代は石神神宮であり、ふだんの政治的な託宣を伺う里宮が大和神社であり、戦などの重大事に、もっと本格的に誓願を立てるのが三輪山の奥宮だった、というのが、現時点での私の解釈である。
 
 但し、基本的に、これらは神武系の物部氏の築いた祭祀の体制である。何度も言うように、神武系の物部氏が物部の全てなのではない。それは物部の氷山の一角にすぎない。 それよりも以前から先住していた(が、その後の記録からは完全に抹殺された)物部もいる。
 あるいは出雲系もいる。スサノオ系もいる。東北の蝦夷もいる。渡来系の新興王朝が現世の民を洗脳しても、霊界の古参の神々を支配することはできない。強力なネイティブ系神霊の結界基盤を無視して、国を治めることはできなかったのである。だから、大和神社ではそれら先住系の神々にも敬意を表して、ゲストの祭神として丁重に迎え入れなければならなかった。
 これは前回に紹介した大物主の祟り話とも符合する。
⇒謎深まる大和大国魂神社(上) ~国産みの島、淡路⑦ ~
 まず大元の親神を祀ってから、現世人間界に近い支流の子神を祀らなければ、世は腐敗し混乱する。天地宇宙の法則が逆流し、停滞し、腐敗することを、「祟り」という言葉で顕したのだ。
  
 この神々の重層構造は伊勢神宮の起源においても同様である。なぜ約六十年の歳月を要して二十五回もの遷宮を繰り返さねばならなかったのか。それは新しく列島に参入した神が、古くからの土地神を無視して国を治めることができなかったからだ。
 神武系物部氏の場合は、自らの祭祀の場に古参の神々を迎え入れて御機嫌をとったわけだが、伊勢内宮のアマテラス(私の説では卑弥呼系の末裔)の場合、実は当時の勢力としては弱小だったので、謙虚に自分から近隣諸国の霊場に出向いて挨拶回りしたのである。その真摯さに感じ入った古参の神々(元伊勢の神々)が、時代の趨勢を読みつつ、一時、この国の霊的な政権(神権)を移譲した。
 これが私の説く、長年の遷宮の後の伊勢神宮創建の秘密である。
 
 一方、その「一時」を横取りして利用し、この世の支配体制を長らく牛耳ったのが、新参アマテラス(卑弥呼系)とは何の血脈も霊脈もない、藤原不比等の操った持統王朝の体制である。伊勢内宮のアマテラスは謙虚だったが、それを利用して担ぎ上げ、その後の神道界をまるごと隠蔽・偽造し、すり替え、乗っ取った藤原不比等プロジェクトは、狡猾と欺瞞の極みだった。
 日本の政治体制には、その情けないDNAも受け継がれていることを忘れてはならない。

 “その”体制が現在まで尾をひいているわけだが、そろそろ次の時代展開に移る頃だろう。


(つづく)

謎深まる大和大国魂神社

2008,,06
     樫原神宮

       大和神社

               △上:樫原神宮の内拝殿樫原神宮より
               △下:大和神社の拝殿大和神社 - Wikipediaより
開放系の拝殿と、中庭のような空間を隔てて、奥に本殿がある構造が、似てないだろうか? その心は、本文参照。


 伊勢久留麻神社と対応するように、淡路にはもうひとつ、朝廷がらみの古社がある。淡路二ノ宮となっている大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)がそれ。
⇒大和大国魂神社 大和大圀魂神社 大和大國魂神社 (淡路島)
 奈良県天理市の「山辺の道」近くにある大和神社(おおやまとじんじゃ/延喜式神名帳の正式名は「大和坐大国魂神社」)を勧請した社とされている。
⇒大和神社 Ooyamato Shrine
⇒大和神社 - Wikipedia
⇒大和神社

 この天理市の大和神社と、伊勢の皇大神宮、そしてもうひとつ奈良県桜井市三輪の大神神社、これは朝廷由来の最古の三社と言ってもよいのだが、この三社は歴史ミステリーの謎めいた一本の糸で繋がっている。
 謎の天皇である崇神天皇の代というから、年代は特定しづらいのだが……。

▽以下、倭大国魂神 – Wikipediaより引用。

 倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、日本神話に登場する神である。日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神である。
 『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。同年8月7日、臣下の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。


▽以下、丹後元伊勢伝説より引用。

 時は崇神天皇の御代、日本国中に疫病が大流行し、国民の半数が死亡するほどの猛威を振るいました。事態を憂いだ天皇は、朝夕に天神地祇に祈りを捧げ られにもかかわらず、その勢いは一向に止まりませんでした。

 この国難を、宮中で祭祀している天照大神(アマテラスオゝミカミ)と倭大國魂神(ヤマトオゝクニタマノカミ)の不仲によるものと思慮された天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託して祀らせ、倭大國魂神を市磯長尾市宿禰(イチシノナガオチノスクネ)に託して祀らせ、占いの結果祟りをなしている事が判明した大物主神(オゝモノヌシノカミ)を太田田根子命(オゝタタネコノミコト)に託して祀らせたところ、ようやく疫病は収まりました。

 この一件以来、倭大國魂神は倭国(ヤマトノクニ)の大和(オゝヤマト)神社に、大物主神は倭国の大神(オゝミワ)神社にて祭祀されることになるのですが、倭国の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀られた天照大神は、それ以後約六十年の歳月を要して二十五回も遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになります。
 天照大神が神宮(伊勢神宮を正しく呼称する場合、「伊勢」は付けない)の内宮に鎮座する以前に立ち寄った先を、元伊勢と呼びます。


 
 少し長くなるが、この件に関する『古事記』と『日本書紀』(略して『記紀』)の原文と現代語訳を見比べてみよう。(参考のため原文を添付するが、ひとまず現代語訳だけ流してくださればよろしい。私としては、いずれ詳しく突っ込んでみたかったテーマなので)
以下元伊勢物語より
⇒現代語訳〔古事記・日本書紀〕

『古事記』より

此天皇之御世、役病多起、人民死為尽。爾天皇愁嘆而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰、是者我之御心。故,以意富多多泥古而、令祭我御前者、神気不起、国安平。是以驛使班于四方、求謂以意富多多泥古人之時、於河内之美努村、見得其人貢進。爾天皇問賜之汝者誰子也、答曰、僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣生子、名櫛御方命之子、
飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古曰、 於是天皇歓以詔之、天下平、人民栄。即以意富多多泥古、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前、又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶 (此三字以音也) 定奉天神地祇之社、又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭墨色楯矛、坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而役気悉
息、国家安平也。

古事記は、岩波文庫 620 古事記 倉野憲司校注 より


▽以下、読み下し文。

この天皇の御世(ミヨ)に、役病多(エヤミサハ)に起こりて、人民(タミ)死にて尽(ツ)きむとしき。
ここに天皇愁(ウレ)ひ歎(ナゲ)きたまひて神牀(カムトコ)に坐(マ)しし夜、大物主大神(オオモノヌシ)、御夢(ミイメ)に顕(アラ)はれて曰(ノ)りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(オホタタネコ)をもちて、我が御前(ミマヘ)を祭つらしめたまはば、神の気(ケ)起こらず、国安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。ここをもちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方(ヨモ)に班(アカチ)、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得(ミエ)て貢進(タテマツ)りき。ここに天皇、「汝(ナ)は誰(タ)が子ぞ。」と問ひたまへば、答へて曰(マヲ)ししく、「僕(ア)は大物主大神、陶津耳命(スエツミミノミコト)の女、活玉依毘賣(イクタマヨリビメ)を娶して生める子、名は櫛御方命(クシカタノミコト)の子、飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子、建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子、僕意富多多泥古ぞ。」と曰しき。ここに天皇大(イタ)く歓びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古命もちて神主(カムヌシ)として、御諸山(ミモロヤマ)に意富美和(オホミワ)の大神の前を拝(イツ)き祭りたまひき。また伊迦賀色許男命に仰せて、天(アメ)の八十平瓮(ヤソビラカ)を作り、天神地祇(アマツカミクニツカミ)の社(ヤシロ)を定め奉(マツ)りたまひき。また宇陀(ウダ)の墨坂神(スミサカノカミ)に赤色の楯矛(タテホコ)を祭り、また大坂神に墨色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉に遺し忘ねねこと無く幣帛(ミテグラ)を奉りたまひき。これによりて役(エヤミ)の気悉に息(ヤ)みて、国家(アメノシタ)安らかに平らぎき。


『日本書紀』より

五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以、晨興夕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。(神籬、此云比莽呂岐) 亦以日本大国魂神、託渟名城入姫命、令祭。然渟名城入姫命,髪落體痩而不能祭。

七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰、昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意、今當朕世、数有災害。恐朝無善政、取咎於神祇耶。盍命神亀、以極致災之所由也。於是、天皇之幸于神浅茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姫命曰、天皇、何憂国之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。天皇問曰、教如此者誰神也。答曰、我是倭国域内所居神、名為大物主神、時得神語、髄教祭祀。然猶於事無験。天皇乃沐浴斎戒、浄潔浄殿内、而新之曰、朕禮神尚未尽耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。是夜夢、有一貴人。対立殿戸、自称大物主神曰、天皇、勿復為愁。国之不治、是吾意也。于若以吾見大田々根子、令祭吾者、即立平矣。亦有海外之国、自當帰伏。○秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、大田々根子、為祭大物主大神、亦以市磯長尾市、為祭倭大国魂神主、必天下太平矣。天皇得夢辞、益歓於心。布告天下、求大田々根子、即於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、即親臨于神浅茅原、会諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。対曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方武茅渟祇之女也。天皇曰、朕當栄栄。乃卜使物部連祖伊香色雄、為神班物者、吉之。便祭他神、不吉。○十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄、而以物部八十平瓮、作祭神之物。即以大田々根子、為祭大物主大神之主。又以長尾市、為祭倭大国魂之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・国社、及神地・神戸。於是、疫病始息、国内漸謐。五穀既成、百姓饒之。

日本書紀は、講談社学術文庫 833  日本書紀(上) 全現代語訳  宇治谷 孟 より
巻第五 祟神天皇
 

▽以下、現代語訳。

五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。
 六年、百姓の流離(リュウリ)するもの、或いは反逆するものもあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。これより先、天照大神(アマテラスオオカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(トヨスキイリビヒメ)に託し、大和の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った。よって堅固な石の神籬(ヒモロギ・神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。
七年春二月二十五日、詔して「昔。わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いもかけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政なく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占いによって災いの起こるわけを究めよう」といわれた。天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万の神々をお招きして占いをされた。このときに神明は倭迹迹日百甕姫命に神懸りしていわれるのに、「天皇はどうして国の治まらないこと憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう。」と。
天皇は問うて「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」と。答えていわれる。「我は倭国の域の内にいる神で、名は大物主神という」と。この神のお告げを得て、教えのままにお祀りしたけれどもなお験がなかった。天皇はそこで斎戒沐浴して、殿内を浄めてお祈りしていわれるのに、「私の神を敬うことがまだ不十分なのでしょうか、どうしてそんなに受け入れて預けないのでしょうか。どうかまた夢の中で教えて、神恩をお垂れ下さい」と。この夜の夢に一人の貴人が現われ殿舎に向かって自ら大物主と名乗って「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意によるものだ。もしわが子大田々根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」とつげた。
八月七日、倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の先祖大水口宿禰・伊勢麻績君の三人が、共に同じ夢をみて申し上げていわれるのに、「昨夜夢をみましたが、一人の貴人があって、教えていわれるのに、『大田田根子命を、大物主神を祀る祭主とし、また市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は平らぐだろう』といわれました」という。天皇は夢の言葉を得て、ますます心に歓ばれた。あまねく天下に告げて大田田根子を求められた。茅渟縣の陶邑に、大田田根子が見つかりおつれした。天皇は自ら神浅茅原におでましになり、大田田根子に尋ねていわれるのに、「お前は一体誰の子か」と。答えて「父を大物主大神、母活玉依姫といいます。陶津耳の娘です」と。----また別に「奇日方武茅渟祇の女」ともいわれている。天皇は「ああ、私はきっと栄えるだろう」といわれた。そこで物部連の先祖の伊香色雄を、神班物者(神に捧げるものを分つ人)としようと占うと吉と出て、またついでに他神を祭ろうと占うと吉からずと出た。
十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を神祭の供物とさせた。大田々根子を、大物主大神を祀る祭主とした。また長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸(神社の用に充てられた民戸)をきめた。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。


 
 要するに神の祟りがあって疫病や天災地変や反乱があったが、紆余曲折ありつつも、それぞれの神をそれなりの斎主に祀りなおさせたら鎮まった、というお話。これは『記紀』における祟り神の原型としてあまりにも有名な話なので、初心者の皆さんは覚えておいて欲しい。神道とは、為政者の精神衛生に都合がいいだけのキレイゴトの世界ではなく、不条理な“祟り”に満ちた、秘匿されたミステリー&リベンジ・ワールドでもあったのだ。

 さて、一見して気づくのは、『古事記』では大物主神の独壇場となっているのに対し、『日本書紀』ではその前フリとして、天照大神と倭大国魂神の二神の確執の物語があること。
 『書紀』によると、天照大神と倭大国魂神の二神を宮中で祀っていた時代があった。(なぜ……?)
 ところが、「その神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった」 ので、宮の外で祀らせることになる。(なぜ……?)
 「共に住むには不安があった」のは、その二神が共に住むことに不安があったのか、それとも天皇や皇族がその二神と共に住むことに不安があったのか、その両方なのか。(それにしても、なぜ……??)
 一般的な解釈では、これを二神の不仲によるものと説明するむきが多い。(なぜ……?)
 そして、二神を宮の外で(別々に)祀らせる段になっても、まだ災いが治まらないので、「八十万の神々をお招きして」託宣を求めると、そこで登場するのが、なぜか天照大神でもなく倭大国魂神でもなく大物主神。(なぜ……?)
 その大物主神のお告げに従い、物部連に神祭の供物を捧げさせ、大物主神の子孫の大田田根子を祭主として祀らせたら、ここではじめて国は治まった。(なぜ……?)
 このように大物主神を正式に祀る以前には、「ついでに他神を祭ろうと占うと」不吉と出たのに、大物主神を祀った後に、倭大国魂神を祀り、「それから他神を祀ろうと占うと吉と出た」ので、ようやく八十万の群神を祀った。(なぜ……?)
 この『書紀』の祟り話の件で、途中でフェイドアウトしてしまうように出てこないのが、意外にも(後に)皇祖神とされる天照大神なのだが、こちらは『倭姫命世紀』によると、倭国の笠縫邑に祀られた後、約六十年の歳月を要して二十五回もの遷宮を繰り返し、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになる。これが現在に至る伊勢の内宮=皇大神宮の発祥である。(なぜ……?)

 この物語の中で、あたかも一神教のゴッドの如く絶大なる神威を発揮しているのは大物主神なのに、一般には征服され服従した国津神のように言われている。(なぜ……?)
 一方、『書紀』のこの記述の時点では、最も存在感の乏しい(女神とも男神とも明記されていない)天照大神が、まるで身寄りのない流浪の遷宮の後、広大な敷地を有する神宮に祀り上げられ、やがて国家の最高神として崇め奉られるようになる。(なぜ……?)
 少なくとも崇神の代の宮中祭祀においては、天照大神と同格だったはずの倭大国魂神は、後の時代においては最も存在感が希薄で、祀っている大和神社も(他の二社と較べれば)閑散として過去の遺跡的なたたずまいである。また、倭大国魂神という神名も超マイナーであり、素性さえも謎めいていて諸説紛々である。(なぜ……?)

 このように神社庁神道と天皇家の祭祀において、最も“なぜなぜ” だらけのミステリー・ゾーンが、この祟り話にまつわる、三つの古社の由来・由緒の部分だったのである。実はそこに、当時の各部族・各派閥の権謀術数や栄枯盛衰の物語が隠されているはずだ。
 これを刑事コロンボの如く、ぶしつけにしつこく詮索していくところに、古代史&神道ミステリーの至上の喜びと幸せがあるのであ~る。なぜならば、そこに「八百万の神々」ならぬ「嘘八百の神道」の通説・常識を覆す、本物の隠された岩屋戸開きがあるかもしれないからだ。

 念のため、現在の神社と祭神の関係を整理すると、次のようになる。
大物主神:大神神社(奈良県桜井市三輪)
天照大神:皇大神宮(伊勢)
倭大国魂神:大和神社(奈良県天理市)

 このうち、皇大神宮由来の伊勢久留麻神社と、大和神社由来の大和大国魂神社が、一見場違いとも見える淡路島にあった。 
 大和大国魂神社の祭神:大和大圀魂命も、伊勢久留麻神社の祭神:大日孁貴尊と同じく、北九州から淡路島を経て畿内大和に入った氏族の祖霊・祖神を祀ったものではないだろうか。
 つまり、神武の勢力である。神武系は、実は南方海人系経由の物部氏(の傍流)だったから、先住系物部の祖神である大物主神とは遠い縁戚関係にある。したがって、まず親神の大物主を祀ってから、傍流の子孫神:倭大国魂神を祀るのがスジだったのである。

 しかし、後に神武系の物部は勢力争いに破れ退いていく。「万世一系」として初代天皇の名目だけ利用され、物部氏であった素性も秘されてしまった。(初代天皇の氏族が歴史上の敗残者である物部とするは、つじつまが合わず、いかにも都合が悪いから) だから、大和神社は、かつては栄えた歴史上の敗者の遺跡としてのオーラを残している。そして、ごく近年(明治23年創建の樫原神宮)に至るまで、神武天皇を祀る国家規模の大きな社は無かったのである!

 大物主に関しては、この時代の南方渡来系ではないので、淡路にも北九州にも痕跡はない。弥生期の南方海人系の神ではなく、それ以前から坐したネイティブの地主神、つまり、元伊勢の系列の神だったからである。

 次回、淡路の大和大国魂神社を写真入りで紹介する。

(つづく)

母神まどろむ、霧の諭鶴羽山 

2008,,05
 5月5日
 夜通し車を走らせて淡路島へと渡った初日。おのころ島神社へお参りしたその足で、一泊目の宿へと向かった。
 標高608mとは言え、淡路の最高峰である諭鶴羽山(ゆずるはさん)。その麓に南あわじ市 サイクリングターミナル ゆずるは荘は位置している。この諭鶴羽山に登ることが、その日のメインイベントだった。
 午前の時間帯だったが早めのチェックインだけ済ませ、ついでに諭鶴羽山の登り口を尋ねる。小雨が降りだしていたが、この程度なら大丈夫だろうと外に出ると、宿の人が追ってきて山道の地図を渡してくれた。駐車場で雨用のジャケットに身を固めていると、今度はフロントから携帯に電話がかかってきて、もし雨で道が悪くなり下りが困難なようなら電話をくれれば、車道で八合目くらいまで入れるルートがあるので迎えに行く、とまで言ってくれた。
 そんなに危ない道なんだろうか、それとも我々がそんなに頼りなく見えたのか、などといぶかったが、驚くほど気さくな親切さにも心を打たれた。(この心配りをしてくれたのは年配の男女の従業員だったが、舟木石上の巨石祭祀の場所をパソコンと電話でてきぱきと調査してくれたのも、ここの若い男性だった)

 諭鶴羽ダムの堤防の上の橋を渡ってから、車道を少し登っていくと、道の脇に登山道の入り口がある。かつては熊野系修験で栄えた地ということで、「諭鶴羽古道」という名が付けられている。
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 適度に緑が生い茂る山道に分け入ると、季節も良かったのだろう、可憐な山桜や生き生きとした大輪のつつじ(さつき?)が迎えてくれる。人に見られようと見られまいと、誇らしく咲き続ける花たちの姿に、この山の生命力を感じる。
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 中腹にある神倉神社の小屋の前に、「諭鶴羽」(ゆずるは、ゆずりは)の名の由来が説明してあった。イザナギ、イザナミの夫婦二神が鶴に乗ってここに降臨し、一時、羽根を休めた伝説からだという。
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 この夫婦二神のことを「諭鶴羽神」とも言う。鶴の背に乗って降臨したのか、それともイザナギ、イザナミ自身が鶴の姿に変身して舞い降りたのか、よくわからないが、社伝によると第九代開化天皇の御代というから、太古の創世神話時代の降臨とは違う。いずれにせよ『記紀』による全国版の官製神話にはない、この地方の伝説なのだろう。(「元熊野」という呼称もあるらしいので、大和朝廷以前からの先住民ネットワークの伝説を母体としているのかもしれない)
⇒諭鶴羽神社 兵庫県南あわじ市南淡町
 しかしビジュアルで空想してみたまえ。この鶴のイリュージョンは、なかなかに優美で捨てがたいものがある。

 時折、展望が開けるが、全体に緑で鬱蒼とした山道。
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 高度はないが、なだらかに続く尾根道の距離はけっこうある。2~3千メートル級の山は、中腹まで車やケーブルで入れるところが多く、歩行距離にすると案外、大差なかったりする。空気の薄いことさえ気をつければ、カラッとして気持ちがいいものだ。ところが春~夏の低山は、暑さと湿気で体力を消耗させられる。

 小雨が止むと煙るような霧がたちこめてきた。
 道端にある地蔵尊の石像を霧が包む。
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 山頂に着く頃には、一面の霧に覆われていた。
 小型の墓石のような、ペアの石塔。何なのかはよくわからない。夫婦ニ神の象徴だろうか。
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 頂上を越えて少し下ると、椿の垣根のような光景に出会う。
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 あたりは霧に包まれて幻想的な風景。
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 T字の分岐に当たる頃には、一寸先も見えないほどの、この日、最高密度の濃霧に覆われていた。地図に見る現在地点がどこなのかよくわからず、「奥の院 篠山神社」という碑が立っている方へ何度か行きかけたが、そこには小さな祠のような社があるだけで、目当ての諭鶴羽神社は見当たらない。
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 とうとうあきらめて山頂までもどった。というのも、妙に疲労が蓄積していて、気分的にもめげていたからだ。長距離夜行ドライブのせいと言うよりも、ポケットを膨らます財布とウエスト・ポーチが脚の動きをじゃまして窮屈になり、おまけにジーンズが湿度と汗を吸って重たくなり、股関節周辺のスジが痛くなっていた。若い頃は体力で押し通してしまえることも、年齢と共に微妙なところにシワ寄せがくる。
(この時の教訓で、熱い季節にジーンズで山登りするべきではないし、股関節の周囲を身軽にしておくべきだと悟った。ウエストはある程度絞めてもいいのだが、腰まわりにゆとりや伸縮を持たせたもののほうが、長時間の歩行にはよい。ニッカボッカーの乗馬ズボンとか日本神話の古代もんぺスタイルなどは、ファッション的にセクシーではないかもしれないが、実に機能的にできているわけだ)

 ひと息入れているうちに思いついて、持ってきた祝詞集を取り出し、霧の流れる下界を眺めながら『大祓詞』(おおはらいのことば)を奏上した。
 「天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて……」の言霊どおり、霧がだんだんと別れて吹き払われいくように見える。
 まだ何となくもの足りなかったので、後から『ひふみ祝詞』を挙げた。
 「天つ祝詞の太祝詞事を宣れ(あまつのりとのふとのりとごとをのれ)」の後に「ひふみ」を挿入するという、古代物部オリジナルの存在を、いずみる。(旧あるく。)さんの日記で知ったのはその後のことだった。(中臣神道以降の秘伝では、「トホカミエミタメ」の『三種の祓い』が挿入されるのがスタンダードである)

 霧が晴れてきた山頂の見晴らし台。
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 そうこうしているうちに気力・体力がもどってきたので、もう一度、諭鶴羽神社を探しに山頂の向こう側へと下った。
 霧もだいぶ晴れてきて、先程とは別の光景のように見える。
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 なんのことはない、T字の分岐を反対方向(右)へ行けば、まもなく諭鶴羽神社の境内が見えてきた。さほど方向感覚の良くない妻が、この時は最初からこっちだと言っていたのに、地図上の現在地点を見間違えていた私は、どうしてもそちらの方向と思えなかったのだ。惑わされる時の感覚というのは、こういうものだ。

 分岐点からさほど離れた地点ではないのに、諭鶴羽神社のあたりはまだ濃霧に包まれていた。まるでここが霧の発生地点であったかのように、神秘的な結界に入りこんだ気分になってくる。

 この霊場紀行シリーズを始めて以来、やたらと山で濃霧に遭遇するが、これは土地神や古代霊の何らかのリアクションではないのかと思えてきた。神武天皇が東征の折、熊野の山中で霧に遭ったのは土地神の妨害であり、不吉なことのように『記紀』神話には記してあるが、私の場合どうしてもそうは思えない。晴れやかな歓迎一色ではないにせよ、敵対・妨害の波動とも違う。
 しいて言うならば、まどろみを破られた古代霊のトラウマの放出のようなもの。癒しを求めつつも、心を開ききれず拒絶するような。ぶつけどころのない悲しみや怒り、やるせなさ、あきらめと葛藤、そうした封印されてきた混沌とした心情が、水の氣を媒体としてじわじわと滲み出してくる。そもそも「水」は霊の依り代となりやすいものだ。霊界と現界を橋渡しする、メッセンジャーなのである。

 頂上からの下りだと神社の横っちょから入る形となり、鬱蒼とした木立の奥に籠れるようにたたずむ社と遭遇する。
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 後で知ったことだが、こちらは摂社の十二所神社。祭神はよくわからないが、朱ではなく赤く塗った小型の社がひっそりと、しかしあたりの空間を制するようにたたずんでいる。
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 一間社流れ造りで朱塗りというと弁天を想起するが、これは弁天ではないと直感した。ただ、とてもとても古い時代の女神のような気がした。
 摂社というからには主祭神ではないし、「十二所」神社と言うからには縁故ある土地神の全員集合として、複数の客人神(まろうどがみ)を祀ったものと理解するべきだが、私にはなぜか、どうしてもこちらが主祭神を鎮める奥宮としか思えなかった。だから、二人ともこれでお参り完了と早合点し、帰りかけたくらいだった。

 霧に包まれる幻想的な境内の木立ちを横に抜けると、
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 「樫の社」と石碑の和歌に詠まれた、小さな白木の社がある。これも祭神不明。
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 となりに「ゆずりは木」と立て看板に記された植樹がある。ゆずりは→ゆずるは→諭鶴羽の命名も、この樹からの掛け言葉や語呂合わせという側面があったのだろうか。
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 新葉が旧葉に交代していく姿が「譲り葉」なのだと紹介しているサイトもある。
⇒諭鶴羽神社 兵庫県南あわじ市南淡町
 新陳代謝は生命力の象徴であり、大きなサイクルで見れば死と生の循環交替劇である。これに関連して、イエス・キリストが実を結ばないイチジクの樹に言霊をかけて枯らした説話を思い出す。新陳代謝を拒否する単なる不老長寿は、生命の摂理ではない。「不死」は決して真理ではない。「生」に命の場を譲り、「死」を受け入れることによって、本当の再生があるのだ。次の世代に命の場を譲ろうとしない“狂い生き”のイチジクを枯らすことで、イエスはイチジクの根源の生命を救った。
 そう考えると、この「譲り葉」には深い意味が込められている気がしてくる。(「永遠の生命」ばっかり追い求めるキリスト教徒は、こういう「死」の解釈はしないようだけどね。「死」を忌み嫌う表の神道も、似たようなもんだね)

 一粒の麦、もし死なずば……。イエス自身もまた十字架にかかり「死」を通過することによって、一粒万倍の糧を後世につないだ。私に言わせれば、母神:伊弉冉(イザナミ)も同様、「死」の国(黄泉の国)の穢れを我が身に引き受けることによって、世界の「生」を禊(みそぎ=浄化)させたのだ。違うのは、イザナミには天上の神々による復活が約束されてはいなかった。天の計画ではなく自分の意思で苦界に沈み、“時の”天上界の大多数派に見捨てられたのである。
 そこから先が聖人君子(聖神?君子)ではなく、えらく人間臭いところだが、※夫神イザナギの統轄する“その”天界を呪うようになる。世界中を股にかけて猛り狂う悪龍ヤマタノオロチの現身(うつしみ)を操り、地上世界への八つ当たりリベンジをも企てていく。素戔嗚(スサノオ)に退治されることにより暴走に終止符を打ち、高天原プロジェクトによる強制浄化のため隔離されるも、癒されないイザナミの心はその後も長く尾をひいたはずである。(※このへんは出口王仁三郎『霊界物語』や各種『神示』や浜本末蔵の説などに基ずく、私独自の解釈。普及版『記紀』神話のスタンダードではない)
 ギリシア神話で、英雄ヘラクレスに救い出されるまで終りのない拷問苦に繋がれるしかなかった、巨人プロメテウスの無抵抗などに比べると、さすが腐っても「中興の創造主」の片割れ、凄まじい反逆の怨霊神パワーである。超威力ではあるが人間臭い。しかし、根本の動機付けが、ギリシア神話によくあるような「神々のエゴ」からくる支配欲や嫉妬心ではない、崇高な救済の動機から裏返った怨念である。それ故、世界から敬遠され、忘れられた、居場所のない聖なる怨霊母神の懊悩である。
 
 そのイザナミが諭鶴羽神社の主祭神と知ったのは、後になってからのことだった。下山して宿にもどった時、この諭鶴羽山は女神イザナミを祀るもので、どちらかと言うと、おのころ島神社が男神イザナギなのだと聞かされた。当初、私はどちらも、(形式上ではあるにせよ)夫婦神をペアで祀っているものと思っていたのだ。

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 こちらが諭鶴羽神社(諭鶴羽大権現)の本殿とされるほう。海側からの登山道で登ってくると、自然とこちらの正面へ導かれることになる。
 隣の森の中に隠れた十二所神社よりは、よほど開けてさっぱりしているが、やはり境内には苔むして曲がりくねった雰囲気のある樹木が多い。
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 我々が宿に帰ってロビーで一息入れていると、山歩きの格好をした若いカップルがチェックインしたところで、これから諭鶴羽山に登ろうかという相談をしていた。すでに午後2時は回っていたが、午前中の雨は嘘のように上がっている。そのせいかフロントの人達はあっさりしたもので、我々の時のような親身な心配をほとんどしていないように見える。「あの方達が今、下山したところですよ」と、こっちに相談をふってくる始末。
 登山前の我々に対する、あの身内を気遣うような細やかな眼差しは、いったいなんだったのだろう。ここの女神の意思の、何らかの投影だったのだろうか。

国産みのサンクチュアリ(聖跡)、おのころ島神社

2008,,05
                俯瞰

          鶺鴒

     △上:おのころ島神社、上空からの俯瞰。おのころ島神社 より転載。
     △下:神話で夫婦神に交合を教えたという鶺鴒(セキレイ)。ハクセキレイ より転載。



 5月5日のおのころ島神社。(本当は「自凝島神社」と漢字で書くのが正式らしい)

 これが、かつて三大鳥居のひとつと言われた大鳥居。駐車場で会った地元のおじさんは、日本一だと自慢していた。
 柱の麓のMy奥さんと比較すると、やはりでかい!
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 それにしても、赤いのはなぜ? 赤い鳥居は、稲荷・弁天の他には、宗像・住吉などの南方海人系(社殿が朱塗り)、あるいは伏見稲荷・祇園八坂(牛頭天王信仰)・松尾大社などの裏に見え隠れする、秦氏など渡来部族系の神社と言う説もある。では、日本発祥の原点とされる国産みの神社が赤いのはなぜだろう。
 いつの頃からか、夫婦神イザナギとイザナミを紅白で表すという慣習もあったらしい。父神イザナギの幽宮である伊弉諾神宮が白い鳥居とすると、夫婦神のかつての新居とされるおのころ神社が赤なのは、新婚時代は女性上位だったということだろうか。
⇒日本書紀 巻第一 国生み

 『記紀』神話では女(イザナミ)が先に声をあげたのを不吉・不祥として、国産みをやり直させているが、これは大陸系の封建道徳(夫唱婦随・男尊女卑)の列島侵入による、文化の書き替えを暗示してはいまいか、と常々疑っていた。だいたい、先にリードしてエスコートするのが男の場合が多いのはよいとして、いざいたすその時に、先に声をあげるのは女というのが定番だろう。男が勝手に先走りして声を張り上げたら、気持ち悪くはないか? (なんのこっちゃ?!)
 いや、そういう話ではなくて、深遠なる陰陽の摂理としてなのだろうが、正直、どうでもいい話だ。そういう上っ面の形式的なところに、陰陽の妙はないんだよね。
 民族の侵略があると、たいがい男は殺され、女は妾として戦利品にされる。ところが年月が経つうちに女は妾腹で子を産み増やし、先住系の信仰や文化を子孫に伝えていこうとする。ここに「表:征服民族」の父系社会と「裏:先住民族」の母系社会との軋轢・葛藤が生じ、征服者の父系文化は、これを官製の「正史」や「伝統」によって抑え込むことに躍起となる。その象徴的表現が、国産みのやり直し神話だったのではないか。

 まあ、これは私説なので、ひとつの異説・仮説として読者の胸にしまっておいて欲しい。ちなみに私の敬愛する出口王仁三郎も、この神話については、やはり旧来の「夫唱婦随」の教訓として解釈していたようだ。
⇒男女の道(昭和七年十二月・玉鏡)
 但し、このお方はいろんなところでいろんなことを言っているので、必ずしも首尾一貫しない発言も多い。(神託としてではなく、肉体身の個人の考えとして書いた随筆などは、どうしても時代の制約を受けている気もする) 一方では、天則違反の結果、不具の子として生まれた蛭子(ヒルコ)が、実は救世神=素戔嗚の前身であったような暗示もしていたと記憶する。
 また、続・大本とも言うべき『ひふみ神示・日月神示』では、蛭子・淡島の二神を(『記紀』の記述にあるように)「葦舟に乗せて流し棄てた」とか「御子の数には入れなかった」とはしていない。単に「この御子、国のうちにかくれ給いければ」と表現しているだけだ。
⇒ひふみ神示,日月神示

 さらに謎を深めるのは、『日本書紀』の「一書」にチョイ役としてしか登場しない謎の女神=菊理媛命が、この神社に配祀されていることである。
⇒菊理媛神 - Wikipedia
⇒菊理媛
 いわゆる泉津平坂・黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)での夫婦神の決裂場面において、父神イザナギに耳打ち助言した女神とされているが、仲を調停し、場を収めた女神と賞賛されつつ、結果、二神は決裂しているのである。ここらへんにこの女神のパラドックスがある。
⇒禊祓
 この女神について謎解きし始めると、またまたやっかいなことになるので別の機会に譲ろう。
 ただ、推測しうるのは、過去の決裂の場に立ち会ったということは、未来の復縁の場にも立ち会う可能性がある。そういう予言的役割を担った、極めて重要なポジションの女神ではないか、ということである。


 伊勢と同じ神明造りだが、わりとコンパクトな本殿。
 手前の「百度石」が妙に存在感がある。ここを起点に本殿前を往復して、お百度を踏むためのものだろう。それだけ熱心な参拝者が多かったということだろうか。
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 あちこちに和歌や言霊が刻み込まれた石碑がある。
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 本殿横にあった「御神木」の社。中には古びた木の切り株がある。由来は不明だとか??
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 左奥に「八百萬神社」という、※全国でもここだけであろう境内摂社がある。(※ここだけではないそうです。モリ@久留麻さんのコメント参照)本殿のほとんど後ろに隠れる形だが、けっこう強いパワーを感じさせるスポットだった。
 こちらは真っ白な鳥居で、横に願かけの絵馬が溢れるように掛かっている。
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 本殿の斜め手前あたりにある鶺鴒石。
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 説明版もあったのだが、写真を撮りそびれた。と言うのも、ちょっと下世話な連想をさせて、格調高い(?)我がブログに載せるには気がひけたからだ。
 
 『日本書紀』の「一書」によると、夫婦二神が天にまで届く柱の周りを回るというオカルト的な儀式の後、今度はえらく人間的で具体的な男女交合に到るのだが、いざその時になって初体験の二神にはやり方がわからない。そこに鶺鴒(セキレイ)が飛んできて、動きのデモンストレーションをして教えてくれたというのだ。
⇒イザナギとイザナミが生んだ神々
 学者先生などはこれを体位のことかと解釈して、「古代日本の体位は背向位が主だったのではないか」などと大真面目に論じているが、おい!そりゃあ違うだろ?
 「そのとき鶺鴒が、飛んできて頭と尻尾を動かした。二柱の神は、その様子を見習われて、交わりかたを知った」と、ちゃんと“動き”のこととして書いてあるのに、何で体位の話にしちゃうんだってば!
 鶺鴒のつがいが、そこで雌雄交合の実演をして見せたわけではないのだ。おそらく、(実際の生物の交合とは何の関係もない)鶺鴒が尻尾をリズミカルに上下に振るしぐさを、人間の性行為の動作と重ね合わせた擬人的なイメージだろう。もちろん、そんなことが神話時代にあったわけはなく、後世の人の遊び心からくる、挿入された寓話にすぎない。

 その昔、ラジオの深夜放送の投稿体験談コーナーで、「ぴょんぴょんゲーム」などという隠喩的表現が流行ったことがあったが、うぶな中学生だった私には、なにが「ぴょんぴょん」なんだかさっぱり見当がつかなかった。書物で詰め込んだ知識で頭がいっぱいの学者先生も、その頃の私と五十歩百歩であり、鶺鴒の尻尾に「ぴょんぴょん」のコツを教えてもらう必用がありそうだ。(YouTubeに鶺鴒の動画でもあれば貼り付けたいところなのだが、すぐに見つからなかったので残念!)

 ここまで書いといて、私も「下世話な連想で気がひける」もないもんだね。こんなことなら、ちゃんと説明版の証拠写真も撮っておくべきだった。

 なお、このての日本神話の下ネタ話は、江戸時代の川柳などでよくからかわれている。
⇒『ネットワーク テーブル』第86号
 だからと言って、いちいちむきになって反駁しないのも、日本神話のおおらかさかもしれない。

 この神社の境内自体が、古墳のようにポッコリと盛り上がった地形になっているのだが、その周囲は城の石垣のようにも見えてくる。
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 その城壁の側面の麓あたりに、安産の「御砂所」がある。昭和生まれの私には用法不明。御守り袋に聖地の砂を入れて、腹帯にでも巻いたのだろうか。
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 水を張ってないお堀のような「五十鈴川」は、さらに城のイメージを強める。
 朱塗りの東屋のような建物が何なのかは、よくわからなかった。出入り口の鉄柵に鍵がかかっていて、中央に井戸のような四角い枠があり、蓋がしてある。当初はここに水道でも引いてあって、ここから水を流す予定だったのかもしれない。
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 水無し五十鈴川のほとりにたたずむ分社。「葦原国分社」と「天の浮橋分社」があるらしいが、写真はどちらだったかわからない。
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 そもそも神話に言う「おのころ島」とは、夫婦二神が天上から天之瓊矛(アメノヌボコ)で泥海を掻き回し、その先からしたたらせた塩水が凝り固まってできた島のことである。この地球上に初めて固成した島に、夫婦二神が天上から降臨し、そこでいよいよ地上の国生み・神生みが始まるのである。
 よく『聖書』志向の強い人は、イザナギ・イザナミの夫婦神をアダムとイブになぞらえようとするが、決定的に違うのは、アダムとイブはあくまでも、全能なる絶対神に罪の赦しを請うことによってのみ存在しえる「被造物」にすぎない。イザナギ・イザナミの場合は、彼ら自身が、その後の全国土、全生命を生み成した中興の創造主なのである。

 さて、その「おのころ島」だが、この神社のある小高く盛り上がった丘がそれなのだという。古代ではここも海岸線の入り組む入り江であったが故、本当に離れ小島だったというのが、「おのころ島神社=おのころ島」説の言い分だ。
 しかし、おのころ島の位置については、他にいくつもの異説がある。
⇒淡路島の地域資産
⇒伊邪那岐(伊弉諾)と伊邪那美(伊弉冊)の国生み(島生み)|聖地 日本の神社|「月の光」
 私はこの中で、「沼島」説に妙に惹かれている。
⇒沼島神社紀行 onokoro
 沼島には観光客も渡れるらしいので、次回、淡路に行くことがあったなら行ってみたい場所だ。

 このシリーズで探ったとおり、北淡は有史以降の大和朝廷のカルマと連動した史跡が多い。しかし、神話時代の太古のサンクチュアリ(聖跡)を探るならば、南淡路のほうに濃密なものを感じる。今回の紀行で、それがおぼろげながらわかってきた。

(つづく)

北斗七星の先は・・・? ~ 将門巡礼☆番外編2 ~

2008,,05
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↑No.067 安倍清明の隠された過去 http://fleshwords.at.infoseek.co.jp/dt/dt067.htmより転載。

 シリーズ初回の「将門巡礼 ~ アセンション序章 ~」で、
>都区内の将門ゆかりの神社・霊場は、将門が信仰した北斗七星の配列になっている。
という話をしましたが、 では、
>江戸の北斗七星の先、北極星に当たる部分には何があるのか、気になりました。
という質問を受けました。
 私自身、気になっていたのですが、今日、やっと大きく広げられる地図を買ってきて確かめてみました。

 兜神社と鳥越神社を結んだ線を5倍に延長していくと……、
そこは足立区の青井とか一ツ家とかいうあたり。
 西新井薬師のちょっと東、綾瀬のちょっと西ですが、たぶん都区内としてはローカル地帯でしょう。 この付近で神社らしきものは、青井公園のすぐそばの愛宕神社だけ。ホームページもないくらいだから、小さな無人の神社かな。……と思って検索しまくったら、ひとつだけ、ちょっと詳しい情報をゲットしました。

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⇒足立歴史散歩、綾瀬村・・Ⅱ http://www.adachi.ne.jp/users/a.trm/ayasemura2.htm
(以下、上記HPより引用)
 平田家の屋敷神であったものが地区の神社になった。足立区では唯一である愛宕神社は、武家の崇敬が篤い勝軍地蔵が祀られている。創め、平田家の東に鎮座していたが、熱心に信仰する人が増え、参拝し易いようにと屋敷の表へ移し、明治の初めに下妻道に面した場所に移し(若菜家の敷地)村持ちになり、再度、現在地を求め、新地番制に伴い、青井5町会の区域を氏子に加えた。

 愛宕神社というからには、祭神は迦具土(カグツチ)かと思ったら、

ほむすびのみこと(防火)
みづはめのみこと(水神・安産)
やまとたけるのみこと(武・戦の神)
三柱の神様を祀る。


とあります。

 火神と水神をセットで祀るところは、イザナギに斬殺されたカグツチというよりも、饒速日&瀬織津姫の元伊勢の古代神祭祀を感じさせます。
 また、御神体には「勝軍地蔵尊像」を安置、ともあるので、武の神、勝負の神を祀るところは、将門祭祀と共通するものもあるかもしれません。

 さらに気になるのは、「平田家の屋敷神であった」というけれど、もしかしてこの平田は、国学者、平田篤胤と関係するのでしょうか。
 維新倒幕の思想的原動力となった平田国学だけれど、意外にもこの平田篤胤が“逆賊”将門をあつく崇敬していたという話があります。姓に「平」の字が入っているのも、篤胤が平将門の末裔であったからだと。

⇒展示の裏話紹介(「明治維新と平田国学」展 第2回 篤胤の将門信仰) http://www.rekihaku.ac.jp/relieved/l0005.html
(以下、上記HPより引用)
 平田篤胤ほど固定イメージをいだかれている人物も少ないのではないか?平田国学の話をすると、ほとんどの場合、廃仏毀釈の張本人ではないか、とか、戦前諸宗教の上に君臨した国家神道の創唱者ではないのか、といった意見や批判が出てくる。
 また性格的にも偏狭で、国粋主義的な国学者の立場から、僧侶や儒者にガミガミ攻撃的な非難をあびせた、といったイメージをもたれているらしい。しかし、今回の展示品の中に、篤胤が大事にしていた新井白石肖像画があるように、学者としてすぐれ、実証的に論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだき、自己をその域に達しようと日夜努力したのである。
 また国家神道の親玉といったイメージをもっている人々には、展示されている平将門神像をみて、びっくりするにちがいない。この平将門像は、1825年、常陸国から江戸の篤胤宅に持ってこられたものであり、篤胤の信仰あつく、平田家に今日迄伝えられてきたものである。
 国家神道の立場からすれば、将門は天皇への反逆者以外のなにものでもないのに、なぜ篤胤がこれほど深く信仰したのか、このあたりの謎解きから、平田国学や篤胤の説いた復古神道への理解が始るのだろう。



…………う~~~ん



 とりあえずこれでアンテナを切り替えて、この深夜から淡路島へと旅立ちます。[m:119][m:66]

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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

五右衛紋☆Rhapsody

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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