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豊川稲荷ギャラリー ~ 大本殿から霊孤塚へ ~

2009,,31
 前回(⇒謎の超人:寒巖禅師と、謎の女神:豊川ダキニ真天、……と私)の続編として、今回は写真解説主体です。

 豊川稲荷の境内は、どう見てもシンメトリーを無視した不思議な配置をしている。一番大きな本殿が向かって左側の参道奥に構えているが、あとはかなり不規則だ。
annaizu001a.jpg
↑豊川稲荷公式ホームページ/各種御案内 http://toyokawainari.jp/inariframe3.html より転載。

 本殿に向かう参道の、最初の鳥居。(一の鳥居?)
大鳥居

 その両脇の、最初の狛犬ならぬ狛狐。
狛狐:左 狛狐:右

 本殿すぐ前の狛狐を、本殿側から写してみた。インドにおいてはダキニの眷属は狐でなくジャッカルだったというが、なんとなく面影があるような……。
               狛狐:本殿側から左
               狛狐:本殿側から右

 大本殿の説明版。「伏見宮家」の名が見える。伏見稲荷とも交流があったのだろうか。「豊川閣」と呼ばれるのは有栖宮家から下賜された大額に由来するらしい。
大本殿:説明

 参道左横に面して、「寺宝館」という、仏教美術を収めた立派なミュージアムがある。その入り口に控える赤土色の狛狐。なんとなくエジプト的な雰囲気がしないでもない。(どうしても狐には見えないけれど)
美術館の狛狐:左 美術館の狛狐:右

 寺宝館の中にあった、現代画家が描いた不動尊。(胸が光ってるのはフラッシュの反射)
          不動尊
          不動尊:説明

 これは珍しい、准提観音の像。「諸仏の母」と言われる密教の仏。龍王をしたがえ、剣を持っているところは、秘仏としての日本の弁天や瀬織津姫との習合を思わせる。
          准提観音
          準低観音:説明

 これも独特の構造。各建造物を橋渡しするような形で、地上高の高い回廊が巡らされている。そのむこうに千本幟が見える。
               回廊の下から

 千本幟は信者や参拝者が一本二千円で奉納するらしい。
               千本

 少し行くと、「霊狐塚」の案内の石碑に出会う。これを見た時、この先でたくさんのお狐さんに会えるという予感がして、なぜだか切なく、ときめくような、はやるような気持ちになった。むこうの気持ちがこちらに伝染していたぶんもあるだろうか。
               霊狐塚:石碑

 奥へと誘うように、霊狐塚の参道が続く。鳥居は石の地肌のままに白っぽい。幟(のぼり)も白が基調で文字が赤。並木のような千本幟の列が、一種の結界を感じさせる。伏見系の妖しげな赤い鳥居のトンネルよりも、私はこちらのほうが清楚な印象を受ける。
霊狐塚:鳥居

 参道の途中に、ところどころ守衛のように左右一対の狐が配置されている。でも、これは狐というより、犬だねえ。狛犬の犬というより、本当にそこらへんにいそうな飼い犬を漫画チックにした感じ。
霊狐塚:狛狐1左 霊狐塚:狛狐1右

 こちらは大胆なデフォルメ。耳がなければアヒルかワニか……。
霊狐塚:狛狐2左 霊狐塚:狛狐2右

 参道がそのまま林の中の霊狐塚へと導く。さながら、この寺の奥の院の様相。
霊狐塚:参道

 石垣のすぐ外側に居た母子狐。かなり漫画チック。
               母子狐

 護衛隊のような、岩場の狐。ここの狐だけが、あきらかに雄とわかる凛々しい姿をしていた。
 岩狐

 将軍狐?の雄姿。
               岩狐:近影

 反対側の小さめの岩の上に、雌の見返り狐がいた。
                    見返り狐

 場に溶け込む私……。白髪染めが半端なせいか、はたまた光線の具合か、髪の色が狐のよう。(ちなみに同じ日の他の写真では、ここまで不思議な髪の色に写ってはいない)
                    遠近ショット

 呆けたような表情の子狐。全体に伏見系の狐よりひょうきんで、のどかな印象を受ける。 
               にやけ狐

 コーラスグループのように整列する狐たち。
整列

 おびただしい数の群狐。とても全景を一枚に収めることはできない。
群狐1
 
 だいたい同じ方向を向いている。各部署にリーダー格の狐が居て、統率しているような印象。
群狐2
 
 これだけ居ると壮観
群狐3

 この霊狐塚は「もとは納めの狐像を祀る場所でしたが、現在では御信者の献納された像が安置されています」とホームページにある。ひらたく言うなら、御用が済んだ像をお返しする場所だったものが、現役の神聖な霊場に昇格してしまったということだろうか。狐の造形や表情が様々で個性豊かなのも、個人が造って奉納したものなので、画一的な規格がないからかもしれない。

 ここにしばらく居ると、脳髄が軽くジ~ンとしびれるような感覚に見舞われる。かなり濃厚なスポットなのだろう。直通の高次元というのではないが、霊的次元と物質的次元を結びつける接着剤のような役目を、このお狐さんたちは担っている気がする。
 なぜ「狐」なんだという疑問は誰しも抱いたことがあるだろうが、私はこの霊狐が必ずしも動物霊だとは思っていない。自然霊の能動的な形態の一種なのだ。この世の哺乳類の狐の死後霊魂なのではなく、物質界が出現する以前からの、原初の地球霊の分け御魂として分かれ分かれた末の、ひとつの表現形態なのだ。つまり、もともと霊体なのであり、この世の動物に転生して生を持ったことがあるかどうかは別問題だ。(この意味では龍神も蛇神も天狗も同じ。だから爬虫類の死後霊魂などはるかに超越した知的霊体であり、「神」なのであり、その大元締めは地球の「創造主」でさえあるのだ)

 しかし、人類が自然破壊を繰り返すことによって、彼らは多大なる犠牲と拷問的な苦痛を強いられることになる。そこで耐えきれず、人間界への復讐のため怨霊化・邪神化するケースも多々ある。とは言え、もとのお役目は地球道場の世話係として人間界をサポートすることでもあったので、心の基本姿勢が正しい人には力を貸す健気な霊狐もたくさんいるのだ。
 この怨霊組の邪狐と、守護霊組の神狐の勢力とは、これまでの段階でおそらく半々くらいだったろう。その大元締めが、伝説にある金毛九尾の邪狐と、白狐九尾の神狐である。頭でっかちの人には、この区別がなかなかつかない。知能犯の邪狐は、巧みな偽装工作を張り巡らしてくるからだ。
 豊川稲荷の狐が人喰い悪鬼の使いだと、一部で吹聴されてきたのも、その偽装工作のひとつだったと私は見ている。地球神である国常立尊(クニトコタチノミコト)=ウシトラの金神が、つい最近まで邪神とされ封印されてきたのと同じ流れである。私は伏見系よりもこちらのほうが、さらに本源の神狐に近いと思っている。

 邪神にそそのかされ真の地球神・自然神を封印してきた、日和見で軟弱なくせに自信過剰な、偽りの人間神の時代が、今、終焉を迎えようとしている。
 ただ、こういうことは、誰か偉そうな人がそう言ったから教条的に信じ込むという姿勢は、同じ過ちの繰り返しなのだ。“正”とか“邪”とか、固定した実体があるわけではない。
 世は無常だが、移ろう自然は美しい。苦難を乗り越えた人生こそ美しい。怠らず、正しい夢を描いていきましょう。


(豊川稲荷編、次回、もう一回あります)

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謎の超人:寒巖禅師と、謎の女神:豊川ダキニ真天、……と私

2009,,21
 3月19~20日の一泊で、三河地方の低山を二つほど登ってきた。例によって、磐座(いわくら)祭祀跡の探訪が目当ての旅だったが、現地に行ってから何気なくお参りした寺社に、思わぬ感銘を受けてしまった。

 ひとつめは豊川稲荷(豐川閣妙嚴寺)。
 日本三大稲荷のひとつとしても知られる、かなりポピュラーなお稲荷さんだが、私は今回が初めて。もっとも、伏見稲荷も笠間稲荷も祐徳稲荷も行ったことがないので、大きなお稲荷さんとしてはこれが初体験となる。
 稲荷の総本社とされる伏見以外で、残りの三大稲荷がどこになるのかは諸説あり、まだまだスケールの大きな稲荷社が各地にあるらしい。
⇒荼枳尼天 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E 
⇒Sight-seeing Japan 三大稲荷 http://www.sight-seeing-japan.com/genr/gin3.html

 それらの中でも豊川稲荷が特殊なのは、仏教の寺院(曹洞宗)であり、インドのダキニ(荼吉尼、荼枳尼、咤枳尼)天神を稲荷として祀っていることだろう。(神道の神社では食物神・穀物神のウカノミタマを稲荷大神としている)
⇒稲荷信仰 http://www.geocities.jp/johannes_schiffberg/Inari.html
⇒ダキニ(黒魔術の系譜) http://chaichai.campur.com/indozatugaku/dakini001.html
⇒ウカノミタマ - Wikipedi http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%9E
そのため伏見系の稲荷は日本の正神だが、豊川稲荷は人喰いの恐ろしい悪鬼だという霊能者もいる。

 そうでなくとも、稲荷というと「狐=人を化かす」というイメージが強く、地方の小さな社や祠などではどんよりとこもった暗い雰囲気を感じさせるものも多い。スピリチュアル系の人でも(だからこそ?)敬遠するむきがあるは、このためだろう。
 おそらくはローカルな自治体の範囲内での「怨霊」的な存在を、(人霊・動物霊・自然霊を「問わず)すべて「稲荷」の名の下に祀ってしまった慣習があるので、妖しいパワーを持つ場が多いのだろう、というのが私の推測だ。それらすべてが元の稲荷大神のせいではないし、眷属のお狐さんのせいでもないのだが。

 話の順序が錯綜するが、霊的な縁としての私と豊川稲荷とのコンタクトは、実を言うと30年以上も前にさかのぼる。
 ある日、寝床の中のアルファ波状態の母の瞼の裏に、白狐の霊姿がくっきりと現れた。当時の私は、魔霊・邪神の類とさんざん交戦していた魔神バスターだったので、霊戦の戦友状態だった母も警戒心もりもりで、反射的に魔除けの真言を唱えていた。ところが、その不動尊の真言のリズムに乗って、狐さんはますます元気になって跳ね回ったあげく、母の顔のまん前、数センチの距離まで迫り、ニコニコ顔でにらめっこしたという。次の瞬間、「トヨカワイナリ」という発音が、母の口をついて出た。
 当時の私は(おそらく母も)どこかで名前を聞いたことがあるなという程度で、豊川稲荷がどこかも知らず、地図で調べて赤坂に東京別院があることを知り、二人で挨拶&お礼参りに出向いた。何のお礼かというと、ちょうどその頃、私は指圧の免許を取りたてで、手探り状態のまま自宅で細々と開業する運びとなり、その商売繁盛の守護を、ありがたくもあちら様から申し出てくださったような気がしたからだった。稲荷というと商売繁盛のイメージがあったのだ。

 ややこじんまりとした東京別院に着くと、参拝者を堂内まで招き入れてくれて、勤行(祈祷?)をしているところだった。我々も床の上に座り、若い僧侶達の読経や真言を聞き入った思い出がある。
 面白かったのは、ここの寺の読経のリズムが、ぴょんぴょこぴょんぴょこと動物が喜んで跳ね回ってるような躍動感を感じさせることだった。偶然かどうか、不動尊の真言も繰り返し唱えていたので、てっきり不動明王が本尊の真言宗の寺だと思い込み、大きな本院が愛知県のほうにあることも、長いこと知らないでいた。(そもそも赤坂の豊川稲荷が別院だということも、はっきりした認識はなかった)

 実際には曹洞宗の寺なのだが、オカルティックなものには我関せずのはずの禅宗が、こうした天神の加護を仰ぐというのはかなり異例な気がする。この違和感は私だけのものではないはずで、次のブログが代弁してくれている。
⇒稲荷信仰 http://www.geocities.jp/johannes_schiffberg/Inari.html より

 そもそも曹洞宗という、高潔を持って知られる道元禅師を開祖とし、只管打坐という極めてストイックで厳しい修行で知られる宗派が、ダキニ天のような密教の中でも相当妖しげなものを看板に掲げていること自体が驚きなのだが。

 本院のダキニ天信仰の縁起を知ると、この驚きはますます増幅し、奇跡との遭遇のような畏敬の念にさえ打たれる。少し長くなるが、公式ホームページから引用しよう。
⇒豊川稲荷公式ホームページ/豊川稲荷略縁起 http://toyokawainari.jp/inariframe1.html より

               img_zenji-a01.gif

 豐川閣妙嚴寺の歴史は寒巖義尹(かんがんぎいん)禅師を抜きにして語ることは出来ません。
 寒巖禅師は第八十四代順徳天皇の第三皇子として京都の北山にお生まれになりました。
 出家得度当時は天台の教学を学ばれておりましたが、後に越前の日本達磨宗にて禅に参じ、さらに文暦元年(西暦1234)の頃、宗風一世を風靡していた日本曹洞宗祖道元禅師を宇治の興聖寺に尋ね、親しく膝元に参ずることおよそ十年、御年二十六歳の時道元禅師の法をお嗣ぎになりました。

 寛元元年(1243)「時世を救う」の大願心を発して当時宋代の中国へ渡り諸山の名刹を行脚、諸名徳に歴参して仏法の深義を究められました。建長六年(1254)に帰国された折りには師道元禅師はすでになく、永平寺は二世・孤雲懐弉禅師の代になって居りました。その後寒巖禅師は宇治・興聖寺にて道元禅師の語録を編纂集成されました。 弘長三年(1263)語録を携えて再び入宋、諸山を尋ね道元禅師語録の跋文を受けられ、文永四年(1267)に帰国、筑前博多の聖福寺に身を寄せられました。

 その後は宇土郷に三日山如来寺を創建、つづいて飯聚寺を開いて大悲像を安置、建治二年には熊本は釈迦堂村に青堤山極楽寺を開き、同年五月、自ら筆をとって幹縁文を草し、四方に勧進して浄財をつのり、白河・川の難所に大渡橋を約一年半を費やして架設、弘安六年その大渡橋畔に大梁山大慈寺を創建、また弘安七年には飽託郡の海辺に約200ヘクタールもの農地を干拓、開墾される等、「時世を救う」の大願は一つずつ成就し、その数重なる衆生済度の実績は九州一円は言うに及ばず、遠く鎌倉の将軍の元へ、また天皇の在す京都にも伝わるものでした。

 永仁七年(1299)八十三歳にして大慈寺をお弟子に譲り、正安二年(1300)八月二十一日、八十四歳の天寿を全うして御入滅せられました。寒巖禅師のお墓は大慈寺、如来寺及び浜松普済寺にあります。

 寒巖禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。

               img-daki001c.jpg

 見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。
 「オン シラバッタ ニリウン ソワカ」
 「われはこれ咤枳尼真天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」
 この出来事に深く感激された寒巖禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。

 豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巖禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巖禅師御自作の 像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元年(1441)旧暦十一月二十二日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。

 時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は當山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巖禅師の勝躅を護持し、豊川咤枳尼真天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。
 以後、豊川咤枳尼真天 は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。


 皇室の出でありながら仏門に帰依し、道元禅師の直弟子となり、二度も宋代の中国に渡り、帰国してからは師の道元とは対照的に、人里離れて静かに座禅生活を送るのではなく、衆生に分け入って、橋を渡し、農地を干拓、開墾し、寺院を建立し、一方では師の道元禅師の語録を編纂集成するという学僧ぶりも発揮し、のみならず自ら神仏の像を彫刻するというアーティストでもあった。
 な、な、なんなんだ!このスーパーマンぶりは 弘法大使級の超人ではないかっ なんでこんな偉い人を、今まで知らなかったんだ。なんでもっと知名度があがらないんだ
 そして、その寒巖禅師を守護していたのが、後に豊川に祀られたダキニ真天だというのだ なんだかブルッと震えがきたぞ。


(参拝した日の写真入り紀行日記は、また次回へと続く・・・)

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

五右衛紋☆Rhapsody

Author:五右衛紋☆Rhapsody
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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◆Date:2009年03月
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