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恐怖の絶景! ~ 馬仙峡、男神岩頂上の断崖絶壁 ~

2009,,22
 御所野遺跡から北上すると、まもなく馬仙峡へと到着する。陰陽・男女の夫婦岩としては国内最大のものであると資料で見つけて、そそられていた。(男岩180m女岩160m)
⇒http://www.city.ninohe.iwate.jp/kanko/basenkyo/basenkyo.html 馬仙峡
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E4%BB%99%E5%B3%A1 馬仙峡 - Wikipedia
 「この地方にまつわる女神の悲恋の物語が伝わっており、これを題材に小説を書いた直木賞作家、渡辺喜恵子の歌碑が立つ」という説明をするサイトも多いが、いったいどういう悲恋物語だったのか、なかなか原典の民話を探り当てることができない。

 ↓これが対岸の国道から撮った、男神岩の雄姿。写真では雰囲気が伝わらないかもしれないが、樹木が禿げて細長い三角形に岩肌が露出しているところが男神岩。
          40237588_4041868373男神岩、遠景

 ↓ナビと案内標示に従って、男神岩の裏側の方向に巻くように、住宅街や農地の間道を登っていくと、この展望台に着く。
               40237588_27705984展望台

 ↓展望台の基底部。「岩手県立自然公園 男神岩女神岩」という横書きの木の看板がかかっているが、案内不足でどういう位置関係なのか、すぐにはわからない。この場所が男神岩のやや右上方(向かって左上方)にあたる展望ポイントだと気づくには、やや時間がかかってしまった。
               40237588_3860591960展望台、下部

 ↓これは展望台から眺めた男神岩の側面だね。
40237588_2636329288展望台から

 ↓下から展望台を見上げると、こういう光景になる。(ズーム使用)
          40237588_2844702411下から見上げる展望台

 ↓展望台の左横から、男神岩へと降りていく怪しげな小道がついているが、案内板もなく目立たぬため、ほとんどの旅行者は気がつかないだろう。
               40237588_1668452575男神岩頂上への道

 ↓その小道の入り口脇に、「男神岩」と刻まれた小さな石碑と祠がある。違和感を感じたのは、祠の向きだ。ふつうは社や祠を通して向こう側に御神体を拝むものだが、これだと御神体に背中を向けて、反対方向を拝むことになってしまう。何か理由があるのだろうか。
                    40237588_4188944814展望台下の祠

 ↓少し進むと、形ばかりの柵が設置してある。「危険!立入禁止」の意味にしては、簡単に脇を通り抜けられてしまう。
               40237588_1759146515柵

 ↓最後はほとんど獣道の雰囲気。何を「注意 caution」しろってんだ?!
                    40237588_777097026男神頂上の直前

 ↓男神岩の突端へ出る直前、松の枝の間から女神岩を見る。
40237588_4003590051男神岩から見る女神岩

 ↓女神岩突端のアップ写真。この感じだと、さすがに道はついてなさそうだね。
                    40237588_3775961274女神岩アップ
 
 ↓これが男神岩の頂上だ! アソコも縮みあがるような恐怖の絶景!
 男神と女神への奉納の意味か、二本の一升瓶が寄り添うようにお供えしてあった。
40237588_3976922163男神岩頂上の祠1

40237588_4053575973男神岩頂上の祠2

40237588_3987981252男神岩頂上3

 折りしも『クレヨンしんちゃん』作者の転落事故があった直後のこと、おおいに緊張した我々だった。

 我々は行かなかったが、この馬仙峡では女神岩のすぐ下の明神ヶ淵が美しいポイントとされていて、旅行ブログなどでも紹介されることが多いが、男神岩頂上からの展望写真を載せたものはまだ少ないと思う。
 ちょっと危険すぎるので、何年か後には本当に立入禁止になるかもしれない。アドベンチャーしてしまったね。

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御所野遺跡のユニークな縄文住居

2009,,22
 秋田の大湯環状列石で味をしめた我々は、岩手の一戸町にある御所野遺跡を目指してみた。近年、世界遺産暫定リストに登録されたことでも、注目を集め始めている。
⇒http://www.town.ichinohe.iwate.jp/goshono/World_Heritage/index.htm 世界遺産を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」

 ↓遺跡への入場口となっているドーム型通路。谷部の低地に架かる歩道橋を兼ねている。
40237588_953209168ドーム型通路、入り口

 ↓入り口脇に、暫定リスト登載決定の立て看板があり、中に入ったところにグッドデザイン賞のポスターが貼ってあった。 
40237588_2343151692文化遺産暫定リスト 40237588_1271724365グッドデザイン賞

 ↓内部の眺め。
 斬新でモダンな幾何学的センスと、ノスタルジックな木造のぬくもりとが混在して、不思議空間を醸し出している。レプリカかもしれないが、壁際に縄文土器が展示してある。
 もしも、自分の豪邸を造る財力があったなら、こんな回廊を設計したくなるかもしれない。
40237588_769391678ドーム通路内部

 ↓ドーム通路の終点で、沈黙の木人形が待っていてくれた。ここから左手に出ると博物館があり、通路の延長方向に広大な遺跡群の敷地が広がる。 
               40237588_1790482587通路終点

 ↓まず目をひくのが、縄文時代の住居を復元したもの。上が完成形で、下が建築中。
               40237588_563457757縄文住居、完成形

               40237588_3516959491建築中

 ↑丸木で柱や梁を組んだ後、樹皮で覆って壁を造り、その上に盛り土して、草(芝?)まで植えてしまうという念の入りよう。どういう考証からこういう構造が判明したのか知らないが、暑さ寒さを凌ぐには、確かに素朴にして優れた手法だろう。
 以前、長野県茅野市の尖石遺跡で、与助尾根と呼ばれる住居を見学したが、あちらはワラだかカヤだかで全体を覆っていた。茅葺屋根がテント型の壁全体を覆っている感じだ。
⇒http://www.nishida-s.com/main/categ4/togariishi/togariishi.htm 尖石遺跡
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E7%9F%B3%E3%83%BB%E4%B8%8E%E5%8A%A9%E5%B0%BE%E6%A0%B9%E9%81%BA%E8%B7%A1 尖石・与助尾根遺跡 - Wikipedia

 ↓住居内部の中心には、素朴な囲炉裏というか竈というか……。
 半地下になるように竪穴が掘ってあり、その穴の径よりやや外側に内壁が位地している。それがちょうど人が腰掛けられるくらいの段差を形作る。なるほど!と唸ってしまうほどうまくできていて、中に入ると子宮回帰したような安心感があるが、妻はお墓の中に入っていくようで嫌だと言っていた。
               40237588_3301471607内部、囲炉裏1 

                    40237588_3273911921内部、囲炉裏2

 ↓大型の住居の場合は、簡単な屋根裏のようなものもあり、昇降のためのハシゴも付いていた。
     40237588_1330560930内部から入り口を眺める

 ↓窓がなく暗いのが難だが、明り取りのためか、入り口正面上方に小窓のような穴がある。外側から見ると、円錐状の外壁の上部に乗った、小型の切り妻屋根のようにも見える。
     40237588_1600281743天井の明かり取り?

 ↓いくつかの住居を遠景から見る。尖石遺跡でもそうだったが、入り口の方向が微妙にばらばらなのが面白い。
 少し遠くからは、山そのもののように見える。もしかすると、古代日本の自然利用の半人工ピラミッドも、このようにして造られたのではないか? と言うより、ピラミッド山の小型模型として、この縄文住居は作られていた、とも考えられないだろうか。
40237588_2258789745縄文住居、遠景2

 ↓大型の場合は、入り口のひさしが前方に伸びているものもある。
     40237588_2386001551縄文住居、遠景1

 ↓少し離れた場所に、東屋型の建物と、立木と、環状列石がある。
40237588_1142430368列石と立木

 ↓東屋は集会などに利用したのだろうか? 立木はサークルではなく、直線状に並んでいた。
40237588_1092053926東屋型

 ↓列石と言うより散石といった感じの不規則な石の配列。でも、よく見ると渦巻きの形にも見えてくる。
 大湯環状列石などと比べると小型だが、宇宙の星雲の相似形のようで、手をかざすとジンジンくるほどのパワーを感じる、と妻は言っていた。
               40237588_1786597126列石 

 ↓これは食物などの倉庫だろうか。動物や虫や湿気にやられないためか、床がかなり高く持ち上げられている。
               40237588_163173931倉庫?

 ↓大湯の遺跡でもそうだったが、敷地の一画に栗林がある。縄文の古代から栗の実は食料だったのだろうか。
40237588_344677468栗林

 ↓自然と落ちた栗の実のイガが、そこらじゅうではじけていた。
               40237588_1191512852イガ栗

 広大な土地が入場無料の遺跡公園のようになっていて、犬の散歩にはいいだろうなあ……と、東京暮らしの者はつい思ってしまう。
 しかし、全般として、大湯環状列石のような、おおらかなパワースポットとしての土地エネルギーは感じられなかったのだった。 

大石神ピラミッドの怪・・・

2009,,22
 大石神ピラミッドは、キリストの墓とセットで語られることが多い。すぐ近くにあることや、日本のピラミッド・フィールドワーカーの草分け、酒井勝軍が、やはり『竹内文書』フリークであったこと、つまり竹内巨麿つながりで有名になったこと、などが理由だろう。
⇒http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sakai_k.html 酒井勝軍
 
 ↓キリストの里公園から十和田湖方向に少し車を走らせると、大石神へと分かれる脇道がある。車ではすれ違う場所がところどころにしかない林道に分け入っていく。とは言え、車でなければなかなか行き着けない距離だろう。
               39484146_1946284483大石神の山道ドライブ

 ↓しばらく行くと、道のカーブのところに赤い鳥居が見えてくる。数台、駐車できるスペースもある。
               39484146_4167971742赤鳥居

 ↓「探検ルート案内図」と「神秘の山 大石神ピラミッド」の説明版がある。説明はなかなか丁寧なものだが、地図のほうはいいかげんで、方向感覚がさっぱりつかめない。
          39484146_3860009706案内図

 39484146_3050483313説明版
 
 この場所が、酒井勝軍が「太陽石」「鏡石』「方位石」と定義した磐座が密集しているエリアである。
 ↓正面の赤鳥居の延長に見えてくるのが太陽石。
39484146_1294058138太陽石正面

 ↓右横から回り込むと、方位石が確かめられる。この割れ目が、正しく東西を示しているのだとか。 
 39484146_2814454013方位石 39484146_1212319734方位石、別角度

 ↓これは星座石。この壁面に主だった星座を刻んだらしいのだが、はっきり確認することはできなかった。
39484146_228175118星座石

 ↓鳥居から見て、左側面にある祠。
               39484146_686596710祠

 ↓さらに後ろに回りこむと、石舞台のような存在感のある巨石に圧倒される。
39484146_1431351516鏡石1

 ↓実はこれ、屏風のように立っていたものが、安政の大地震で倒れて平べったくなったらしい。底面になって隠れてしまったところに、文字が刻まれていたというのだが・・・。
39484146_3871231426鏡石、説明版

               39484146_1528915063鏡石2

 ところで、どうも釈然としないのは、どう見てもここはピラミッドの山頂ではない。車を走らせていても、坂がゆるやかすぎて山道を登ってきたという実感はなかった。なだらかに続く丘陵地帯の途中という感じで、いったいどこがピラミッドなんだ?と酒井勝軍をどつきたくなってくる。
 そう言えば、麓の国道からも、ピラミッド型の山容を確かめることはできなかった。(国道からの分岐の時点で、すでにある程度の高度があり、中腹という感じなのかもしれない)
 ピンと来ないものを感じつつも、案内標示も少ないので、大半の人がここで引き返してしまうのではないだろうか。
 ↓実は、頂上はさらに少し先の登り口から行くようになっている。後で他の人のブログを調べてみたら、「上大石神ピラミッド 階段を登って200mです。」という、わかりやすい表示板があるはずなのだが、我々の記憶にはない。
 駐車場はなくて、道幅が広がっているところに寄せさせてもらった。もしかすると、路駐されたくない工事関係の作業の人が、表示板を撤廃してしまったのではないだろうか?
               39484146_2879053257頂上への登り口2
 ↑↓いびつに踊る「ピラミッド」の文字が、「珍百景」的。
 ホントにこの道でいいのかな?と、ちょっと心もとなくなるような地味な山道。
39484146_84609380頂上への登り口 39484146_2264993994頂上へ上り坂

 ↓頂上が近づくと、巨石が逆行を浴びて迫ってくる。
               39484146_2911082261頂上付近の巨石

 ↓頂上の見晴らしは、すこぶる良い。
               39484146_1030820181頂上からの眺め2

39484146_3271364060頂上からの眺め3

 ↓頂上の岩の凹みに、皆が奉納したお賽銭が貯まっている。ここで我々は、聖餅(せいへい)ならぬ煎餅(せんべい)を食べる儀式を執り行った。文句あっか!? アーメン。
               39484146_737293566頂上の巨石の上で

 ちなみに、帰り道はもと来た道を戻るべし。
 と言うのも、ナビの地図を見る限り、そのまま通り抜ければ、まもなくぐるっと回って戻る道につながっていたので、狭い道幅で切り返すよりも得策かと、我々は車を進めてしまったのだ。これが大間違いで、狭く寂しい荒れた林道を延々と走らされるはめとなった。人っ子一人、車っ子一台、出会わないのに、道だけはどこまでも続いているのが不思議だった。引き返す決断をして、往復でかれこれ小一時間はロスしてしまっただろうか。 
 それもこれも、山容の全体像がつかめず、藪が茂って、位置が把握しづらい地形だからだろう。このあたり一帯は方位磁石やカーナビが狂うという伝説もあるが、我々の場合は、ナビの地図ソフトがおかしかっただけ。(ナビが強いのは幹線道路だけだ。山道や地方の路地などでは、ナビを信用するほうがバカなのだ)

 全般の感想としては、迷路に放り込まれたような惑わされる感覚はあっても、聖地の強いエネルギーを体感することはなかった。昔よりもパワースポットとしての土地エネルギーが落ちているのかもしれないが、ここをピラミッドと断じた酒井勝軍らのイマジネーションに、疑心暗鬼になりつつも、まずは敬服しておこう。

 

キリストの墓 in 青森

2009,,22
 キリストの墓が日本の青森県にある、という話は以前から知っていたが、いかにも「ルパン三世」的ジョークな存在感で、5年くらい前に十和田湖に旅行した時も、標示の看板を見ながら無視して帰ってしまった。
 ところが、いつ頃からだろうか、東北の磐座に引き合わせたのがきっかけで、妻が不思議巡礼に目覚めてしまって、資料をあさりながら次々と候補地を挙げてくるようになった。そして、この度、B級スポットではあるが、ついに三戸郡新郷村の「キリストの墓」に墓参り(?)することと相成った。

 キリストの里公園(「キリストの墓」がある公園)は十和田湖の東20キロ程の、国道454号線沿いにある。
(↓入り口の案内地図)
39484146_3218774759地図版

 新郷村のあたりは古くは「戸来(へらい)村」といった。発音が「ヘブライ」に似ていることもあり、いかにもな印象を与えてくれる。
 一戸、三戸、八戸・・・などの地名は、今もよく聞く地名だが、その昔は一戸から十戸まで揃っていて、この十の部落がユダヤ(イスラエル)の失われた十支族に対応していた、それらを総称しての「戸来村」だったのではないか、などという説を読んだ記憶もある。
 また、「戸来」を「とらい」と読むと、「渡来」にも通じそうだ。遠くから渡って来たことの象徴だろうか。

 この種の「日ユ同祖論」というと、好きもの歴史愛好家の間ではかなり以前から流布されていて、歴代の出版物や関連サイトを調べてみても、軽く100は越えるのではないだろうか。テレビの特番などでもことあるごとに紹介されていて、民間レベルでなら今やポピュラーと言ってもいいくらいのネタのはずだが、未だに強いアレルギー反応を示す人、ある種の執着とも言えるようなロマンにふける人、全く無関心な人、およそこの三つの極端に分化する傾向がある。
 私自身の考えもいずれ整理しておかなくてはならないが、最近は客観的な中庸路線のサイトも登場してきたので、とりあえず自分とさほど遠くない意見を下記に紹介しておく。↓
⇒http://www.geocities.jp/cavazion/es230.html 日ユ同祖論自体は否定しつつ、日ユ同祖論への反論に反論する:キーワードは「全部と一部」―――そして今明かされる裏シオニズムの謎―――
⇒http://blogclub.livedoor.biz/archives/50219369.html 日ユ同祖論2ダ・ヴィンチ・コードの解説!
 ↓総合的に整理された情報量ではこちら。
⇒http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/_floorA3F_hb.html 「日ユ同祖論」の謎 (「ヘブライ人渡来説」の研究)

 それはそれで良いとして・・・・・・。
 十字架上で死んだはずのキリストが、ひそかに日本に渡来し、長寿を全うした後、日本で死んでいて、そのお墓まである、・・・となると、いかがわしさのボルテージは別次元である。
 この「都市伝説」ならぬトンデモ「田舎伝説」を流布した張本人は、世紀の奇書『竹内文書』を世に出したことでも有名な、竹内巨麿(たけのうちきよまろ・おおまろ1875? ~ 1965年)なる怪人である。
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%96%87%E6%9B%B8 竹内文書 – Wikipedia
                         156946竹内巨麿2
            写真↑http://ascension.mikosi.com/ 心&身魂のアセンション より

 しかし、戸来村の「キリストの墓」を一躍有名にしたのは、巨麿の説の信奉者となった山根キク女史の働きも大きかった。
                       kik3山根キク1
            写真↑http://web.sugiyama-u.ac.jp/~yamane/orenti/kik/kik.html 山根キクの紹介 より
キリストは日本で死んでいる (たまの新書)キリストは日本で死んでいる (たまの新書)
(1994/06)
山根 キク

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 竹内巨麿伝の『竹内文書』によると、モーゼも釈迦もキリストも神農も老子も孔子もマホメッドも、みぃ~んな日本に表敬訪問して神宮に参拝し、教えを受けているという。但し、ここで言う「神宮」は伊勢のことではなく、巨麿の奉ずる天津教の「皇祖皇大神宮」のことであり、もとは富山県にあり、巨麿の代に茨城に遷された。
⇒http://kotora888.fc2web.com/kouso.html 皇祖皇太神宮
⇒http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ibaraki/kitaibaragishi/kouso/kouso.html 皇祖皇太神宮
 キリストなどは若年時代に日本で修行してから、彼の地へ布教に向かったとされている。その後、十字架にかかって死んだのは弟のイスキリで、キリストはシベリアを横断し、アラスカから船に乗って青森県八戸に上陸した。名前を「十来太郎大天空」と改め、ミユ子という女性と結婚して三人の女子を授かり、106歳の天寿を全うし、この地に没したとさ。

 ↓公園内の説明版から。「一書によると・・・」の類ではなく、臆面もない表現に常識も麻痺する。
               39484146_4238443470説明版1
                39484146_2752203013説明版2

 荒唐無稽と言ってしまえばそれまでだが、(象徴的にであれ)イエスに双子の兄弟がいたとする説は、『新約』の外典(正典としての四つの福音書に組み込まれなかった、それ以外の福音書史料)にもあったはずで、一笑には付せない“何か”がある。
⇒http://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20090910/1252590253 トマス福音書を読む - Cosmopolitan’s Diary
⇒http://www.gameou.com/~rendaico/religion_christ_tomasufukuinsyoco.htm その他福音書各書考(トマス福音書、死海文書、ユダ福音書他)
⇒http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/Jesus.html イエスのミステリー
 また、イエスは二人居たという説は、近代神秘思想の巨星ルドルフ・シュタイナーも唱えていたし、イエスが日本でも布教していたというのは、あの眠れる預言者エドガー・ケイシーもリーディングしていたとか。
⇒http://www.akina.ne.jp/~t.hara/iesu.htm イエスは二人いた
⇒http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1507734 青森県・戸来の「キリストの墓」と「ダビデの紋章」(神話・宗教・民俗学) - ヒロさん日記

 とは言え、「イスキリ」という名はいかにもガキの言葉遊びじみていて安っぽい。そもそも「キリスト」自体が「救世主」という意味であり、個人名ではないのだし。
 また、キリストが存命中に日本に来ていたとすれば、日本は縄文末期~弥生初期だろう。その時代に「ミユ子」という近現代的な名前があるのもおかしい。武将と密教僧侶を合体させたような「十来太郎大天空」しかり。

 しかし、また、富山県出身(?)で京都の鞍馬で修行を積み、茨城で立教した竹内巨麿は、東北に関してはホームグラウンドではなかったはずなのに、全くの無名だった片田舎の塚をまっしぐらに探し当てたかと思うと、その地にはユダヤの風習が色濃く残っていた、・・・・・・となると、やはり何らかの霊感が働く異能者だったんだろうなと思わざるをえない。
 ホントかウソかの二元論ではなく、虚実ないまぜのプロレス的パフォーマンスに、竹内巨麿や『竹内文書』の魅力があるとしてもいいだろう。

 ↓通りを隔てた第二駐車場に立てかけられた看板。
 この地に伝わる盆踊り歌の文句「ナニヤドヤラ、ナニヤドヤラ、ナニヤドナサレノ、ナニヤドラ」は、ヘブライ語で「おまえの聖名を賞め讃えん。毛人を掃蕩して、おまえの聖名を賞め讃えん」の意味であると言う。
               39484146_2350934422看板
 ↑伝承館でこの踊りのビデオも見たが、日本のふつうの盆踊りにしては弾むようにリズミカルで、かつダイナミックな旋回運動が入っていて、(連続旋回ではないものの)どこかイスラムのスーフィ・ダンスやアジアの遊牧民族の影響なども連想させるものがある。

 ↓向いの第二駐車場から、キリストの丘公園の入り口を眺める。鬱蒼とした深い緑に囲まれているのは、「砂漠の宗教」の救世主とミスマッチとするべきや否や。
39484146_4223415774駐車場から遠景

 ↓通りに沿って斜めに石畳の道(参道?)を登っていき、途中で折り返す。
               39484146_3827942233参道?s

               39484146_3042230835参道折り返し

 ↓まもなく左手に沢口家の墓地が現れ、遠景に伝承館がのぞく。沢口家は代々この地の住人だったらしい。と言うことは、キリストの子孫?
               39484146_1024007044伝承館遠景と沢口家墓
 (↓伝承館にある沢口家の説明)
          39484146_541024944沢口三次郎

 ↓墓は丘の最上部にあり、これが正面階段となる。
               39484146_3157923729墓地へ正面階段

 ↓十来塚と呼ばれる「キリストの墓」が、向かって右に。
39484146_3469909665十来塚

                    39484146_1693863408十来塚、立木

 ↓十代塚とされる弟「イスキリの墓」が、向かって左に。
39484146_1929864075十代塚

                    39484146_654038644十代塚、立木

 ↓二基の十字架の墓を、「イスキリの墓」の方向から写す。
 竹内巨麿の一行がこの墓を発見した当時は、もちろん十字架は無く、こんもりと盛り上がった二つの盛り土だけだったという。
39484146_2622502930十字架二基、遠景

 まばらに訪れる観光客が物珍しげに眺めていくが、さすがに拝んでいく人はいない。我々も信仰の対象として手を合わせる気にはなれなかった。しっとりと心落ち着く場所ではあるが、いくらスピリチュアル系オタクであっても、ここを聖地とかパワースポットとか言う人はめったにいないだろう。

 ↓二基の墓の中央に、このような記念の石版が埋めてある。
               39484146_3122915280友好の石版、全景

 ↓何だろうと読んでみると、とんでもないことが書かれていた。
 「この石はイスラエル国、エルサレム市と新郷の友好の証として、エルサレム市より寄贈されたものである。」 平成16年6月6日とあるから、わりと新しい。(6が三つ重なるのも生々しくて、オカルト・ファンに火を付けそうだ)
39484146_3146510225友好の石版 39484146_1296081242友好の石版(続)

 ↓これは上記の言葉の原語(ヘブライ語)だろうか? 石版の中央に刻んである。 
               39484146_3411139131石版ヘブライ語?

 たとえばカトリックであれプロテスタントであれ、キリスト教国の都市が、このような珍説を堂々と掲げる異国の田舎町と友好都市になるなど、絶対にありえない話だ。小説『ダヴィンチ・コード』が世界的ベストセラーになる御時世だから、いちいち「異端」に目くじらを立ててもいられないが、ひと昔前だったら宗教裁判にもなりかねない、噴飯ものの冒涜だろう。
 もっとも、我が国でも、皇室への不敬ということで、竹内巨麿は投獄されたんだけどね。しかしながら、また、巨麿の天津教は、内容的には有史以降の天皇制をはるかに凌駕するウルトラ皇国史観でもあるのだ。
⇒http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-8.htm 古史古伝の世界(中)
⇒http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/jyokodaico/takeuthibunkenco/takeuthibunkenco.htm 天津教古文書「竹内文書(竹内文献)」考

 一方、古典的なユダヤ教においては、イエスは唯一絶対の救世主ではなく、数多の預言者の中の一人であり、ちょっとばかり新興宗派のラビ(聖職者)という位置付けにすぎない。同じ一神教とは言え、このへんの宗教観の差は大きそうだ。
 また、キリスト教徒が歴史的に喧伝してきたほどには、後のユダヤ教徒に「キリストを十字架に屠った民族」としてのアイデンティティはない。むしろ、「キリストを迫害した民族」というレッテル付けのため、ユダヤ民族を白眼視してきたのは、キリスト教徒の側の歴史的汚点だろう。
 要するに、この件「イエス=絶対の救世主」に関して、たいしてこだわりも関心もないところは、日本人とユダヤ人は似ているのかもしれない。

 ↓教会か児童館のような建物だが、資料展示をしている伝承館という施設。
39484146_1585070190伝承館
⇒http://www.marumarushingo.com/densyoukan.htm キリストの里伝承館

 ↓正面、上方の壁に掲げてあるのは、沢口家の家紋。
                    39484146_1806398189s伝承館の家紋

 ↓似たような紋はいくらでもあるので、ダビデの星と重ね合わせるのは、少々こじつけっぽい気もしないではない。
          39484146_3401753803沢口家紋章


 そろそろ私の結論(仮説)をまとめておこう。 
 いつ頃の時代かはわからないが、ユダヤ・イスラエル民族の風習を携えた何者かが、はるばる渡来して、この地で静かに生を終えた。おそらく、それは確かなのだろう。
 その人物は丘の上に特別な墓地を造ってもらえるほど、風格と教養を具えた友愛精神の持ち主だったのだろうが、特に布教活動をしたわけでもなく、霊的には普通の人間であり、歴史に名を残すほどの人生でもなかった。
 おそらくイエス・キリストよりはだいぶ下った時代、ローマ・カトリック以降のキリスト教には封印されてしまった原始キリスト教の秘史を、家伝として伝承してきた人物だったのかもしれない。もしかすると、イエスとマグダラのマリアとの間に生まれた子供の、何代か後の子孫だったのではないか、・・・・・・そう考えれば、このファンタジーにも、多少の信憑性が出てくるのではなかろうか。


 ↓伝承館の手前横から、下方に降りる階段があり、麓の低地がちょっとした自然公園になっている。時間がないので、途中まで降りて、眺めてから引き返した。
               39484146_1731108304庭園へ下りる階段

  

唐松神社 ~ 東北物部氏の隠れメッカ? ~

2009,,03
 9月3日。
 2009年9月、東北紀行の三日目は、男鹿半島から少し南下して、秋田自動車道、協和町ICからすぐの唐松神社へ。今回の私の巡礼としてはここがメインイベントであり、ここだけでゆっくり過ごしたい気持ちもあったのだが、目的地に関しては欲張りの妻にあちこち引っ振り回された感じだ。まあ、毎度のことながら、それはそれで妻を通しての(当地の神様の)お役目リクエストかもしれないのでしょうがない。

 なぜ唐松神社にそれほど惹かれたかと言うと、自分でもよくわからない。東北の物部氏の拠点であったらしいというだけで充分にロマンなのだが、ではどれだけ調べたかと言うと、ほとんど調べていない。惹かれるものほど、事前に詳しく調べないという性癖があるようだ。(これから調べつつ、書くことになる)

 『物部秘史』(いわゆる『秋田物部文書』)という古文書(古史古伝)が伝わっていることで、近年、我々のようなマニアに注目され出した神社なのだが、「偽史」とされる他の古史古伝と比べてみても、未だにその内容のほとんどが公開されていないという点で、非常に謎めいている。

秋田「物部文書」伝承 (1984年)秋田「物部文書」伝承 (1984年)
(1984/01)
進藤 孝一

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⇒http://www.genbu.net/data/dewa/karamatu_title.htm 唐松神社
⇒http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ao1krmt.htm 唐松神社、韓服宮、天日宮
⇒http://kamnavi.jp/mn/higasi/karamatu.htm 唐松神社、唐松山天日宮karamatu

 同じ物部系の古史古伝である『先代旧事本紀』によると、男性太陽神ニギハヤヒは、『記紀』の天孫ニニギよりも以前、河内国の哮峰に天降った初発の「天孫降臨」であり、さらには初代天皇の神武よりも以前に大和を平定していた大王とされる。(「正史」とされる『記紀』でも、それはオマケの申し訳程度に記されているが・・・)
 『物部文書』でも後半の大筋は同じなのだろうが、ニギハヤヒが初降臨した地は畿内ではなく、出羽国の鳥海山であり、その後に大和に移動し活躍したとされる。東北派の私としては、ただそれだけで心惹かれるものがある。
⇒http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text6.htm 「物部文献」が語るニギハヤヒの東北降臨
⇒http://www2t.biglobe.ne.jp/~cherimo/history/ootoshi/nigihayahi=amaterasu.html 饒速日尊は 皇祖天照御魂大神だった

 では、この『物部文書』を伝えてきたのが、古来から東北の地に根ざした物部一族だったのか、というと、どうもそうではないらしいところが説得力に欠ける。
 とは言え、「聖徳太子+蘇我氏(崇仏派)VS物部氏(廃仏派)」の日本の古代宗教戦争で破れた物部守屋の子孫が、東北に落ち延び、この文書を伝えたとする唐松神社の伝承も、「秘史」としてのロマンは充分にある。
(この「蘇我VS物部」は、本当に宗教対立だったのか。蘇我と物部は、部族として本当にそれほどの敵対関係にあったのか。案外、近しい関係だったのではないか。という部分で、以前から疑問を感じてはいるのだが、これもまだ研究不足なので保留とする)

                    参道並木②38419248_825452860

 ↑参道の並木。
 ↓舗装された道が並木の外側に平行している。
 
               参道並木①38419248_825452860

 ↓立派な並木だが、道幅が狭いところが、奥の細道へと導かれるような、胎内回帰感覚をねらっているのだろうか。
          参道並木③38419248_825452860

 ↓丸石で組んだような独特のデザインの手水舎。後ろに歌碑らしきものがある。
               手水38419248_1923683092

 ↓さっそうとお参りに馳せ参じる、ラルフのみこと。このへんから気持ちのいい風が吹き始めていた。
          本殿側から参道を眺める①38419248_1069185788

 ↓これが本殿。見たこともないような、斬新で大胆な屋根のフォルム。
本殿38419248_2552321829

 ↓出雲系のような、太めの注連縄。
               本殿の注連縄38419248_3144552230

 ↓これも初めて見た、鈴だらけのガラガラ。「鈴生り」という言葉はあるが、「千生り瓢箪(せんなりびょうたん)」ならぬ、さながら「千生り鈴」。
                    鈴38419248_3441198099

 本殿前でお参りすると、しっとりとした風がひときわ優しく舞い乱れた。不思議なのは、風というと普通は一方方向へと吹き抜けていきそうなものだが、いろんな方向から、柔らかく流線型にかき混ぜられ、揺られているような気がしたことだ。
 そこで私も太極拳の雲手の動作の応用で、あたりの風とシンクロしながら、空気をかき混ぜてみた。何という気持ちよさ! 神様の洗濯機の中で、精妙な濯ぎをしている、癒しの風のように感じた。
 心地よさを分かち合いたくて、以前から唐松神社の話題で盛り上がっていた「いずみる。」さん(旧HN「あるく。」)に、この気と風を霊空間で想念転送してみた。
 
 ↓本殿の側から参道を振り返ると、実はこうなっている。普通は高所の拝殿に向かって昇っていき、お参りするところが多いわけだが、ここでは低地へと下りてくるアプローチになる。これが不思議と安らぎがあるんだな。
本殿から眺める①38419248_2892652383

 ↓天日宮という別宮があるのだが、その鳥居。ところが、鳥居の正面が塞がっていて、天日宮に通じていないという、なんとまた不思議な配置。目の前の遥拝所、みたいなカラクリ的レイアウトかな。
(以前、古峰ヶ原の古峰神社で似た感覚を覚えたが、あれも物部系だったのだろうか)
               天日宮、鳥居38419248_698625492

 ↓ここが参道方面から天日宮への連絡の通用門のようになっている。鳥居ではなくシンプルな二本の石柱が、古代の香りを漂わせている。

               天日宮へ、38419248_698625492

 ↓さあ!これが噂の天日宮。写真などでは、本殿よりもよく紹介されているかもしれない。
天日宮①38419248_698625492

 城のお堀のような円形の水路に囲まれて、土台は大きめの丸石と細かめの丸石で、二段構造に組み上げられている。さながら環状列石とピラミッドをフューチャリングしたような、独創的な構えだ。
 屋根は基本的に神明造りだが、これも二段構えになっていて、側面にも鎧の肩当てのような別の庇(ひさし)がある。ユニークきわまりないデザインだが、奇をてらった観はなくシンプルな印象がするところが不思議。

天日宮②38419248_698625492

 ↓正面から近影。
               天日宮、近影38419248_698625492

 この天日宮に物部神道の祖神である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)、通称ニギハヤヒの大神が祀ってある。では、本殿のほうはというと、神功皇后である息氣長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)が主祭神となっているが、夭折の火神、軻具突命(カグツチノミコト)が併祭されているのも注目に値する。

 とは言え、どこの神社にもある祭神の説明板が、この神社には見当たらない。中央から落ち延びた者達の、「隠れ里」としての秘教的性格からだろうか。
 それにしては山里の秘境に隠れているふうでもなく、ふつうの街中にある堂々とした立派な神社だ。想像以上に境内も広く、地方の田舎町にある社とは思えないほどだった。

 資料としては、祭神の整理は次のようになっている。
◎唐松神社(韓服宮) = 軻具突命、、息氣長足姫命、豐宇氣姫命、高皇靈命、神皇靈命
◎日天宮 = 饒速日命、玉鉾神、愛子神
⇒http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ao1krmt.htm 唐松神社、韓服宮、天日宮
⇒http://kamnavi.jp/mn/higasi/karamatu.htm 唐松神社、唐松山天日宮karamatu

 神様の世代がごちゃ混ぜにミキシングされている観があり、この世の三次元時系列の脳ミソとしては、どう理解すればよいのか途惑うところだ。
 神社の創建伝説としては、
①ニギハヤヒの鳥海山降臨以来の太古ルーツ ⇒ 天日宮
②神功皇后が三韓征伐の帰途に立ち寄ったという人皇時代のルーツ ⇒ 韓服宮
の二系統があることに気づく。
 これに後の代になって物部守屋の子孫が合流する、という形をとる。
(ルーツとしては①の天日宮のほうが古いのだから、こちらを本殿としてもいいのだろうが、なぜかレディファーストで、韓服宮のほうが本殿とされているようだ)

 そして、旧社地の地名が、ニギハヤヒの天日宮が「日殿山」であり、神功皇后(息氣長足姫命)の韓服宮は「月出野」であったことから、「日の宮」と「月の宮」の陰陽配偶原理が浮かび上がってくる。
 日月、火水の陰陽があれば、そこから生ずる子があるわけで、それがカグツチに象徴されているのではないか。ところが、このカグツチが、神話の生成世代からいくと一番古いところが、なんとも常人の理解を超えている。

 『物部文書』にもあるらしいが、ニギハヤヒとカグツチが同体であるとする説もある。『記紀』では生まれてすぐに父神に斬殺されてしまうカグツチと、物部の伝承では大和の初代大王であったニギハヤヒが、いったいどうつながるのか。これも神話のコペルニクス的転回である。
 私が思うに、これはこの世の歴史からくる「同神説」ではない。神霊界の高次元エネルギー体としての同体同根であり、同じ出どころからの分け御魂を言っているのだろう。だから、この世の時系列とは無関係に、その時々で立場・役割を替え、現世に投影されてくるのだ。この唐松神社においては、太陽神としての父:ニギハヤヒと火神である子:カグツチの、一神二役として表現されている。
 同様に、まるで神様世代が違う神功皇后が母としての役割を担っているのも、時空超越原理で説明できる。

 身ごもりながらも三韓征伐という大役を果たし、なおかつ無事出産したことから、ここ唐松神社では安産祈願が多いという。

 ↓安産と女性の守護を謳う奉納掲示板。
                    奉納掲示板38419248_3654611861

 もとの社名である「韓服宮」は、「韓を征服した」の意味とも言われるが、「韓の国の腹帯」という説があり、私はこちらを採りたい。(そもそも神功皇后は新羅系だった、という説もある)
 三韓が日本(倭)に征服されたという、当地の歴史記述はどこにもない。それほどの屈辱の歴史があったのなら、隣国の性格からして記さないわけがない。また、それほどの大事業だったなら、もっともっと多くの付随する事柄が、我が国の史書にも残されたはずだ。が、それもない。あっさりしすぎているのだ。おそらくは、タイムリーな親善外交としての遠征、という意味での偉業だったのだろう。

 とは言え、神功皇后を安産の守護神として祀るケースは、一般には戦後になってからのことらしい。軍神としての虚像が、長い間に定着してしまったからだろうか。
⇒http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/jingu.html 神功皇后
 ここ唐松神社では、おそらく古代から聖母神としての正しい祀り方をしてきたに違いない。そうでなければ、こんなにも優しい波動を保っているはずがない。

 また余談になるが、「神功皇后=卑弥呼」説もあるが、やはり違うんじゃないかと、ここに来て確信を深めた。卑弥呼は扶余・高句麗系+南方系の巫女だろう。神功皇后はもうちょっと後の時代の新羅系だ。論拠はないけど、ただ、そういう気がしただけ。そのうち機会があったら、調査をしてみたい。


 それにしても、神功皇后を安産の守護神とするのなら、常識的には実子である応神天皇を併祭するのがスジだろうが、なぜカグツチなのだろう?
 おそらくここが時空超越原理の真骨頂なのだが、陰陽(男女)と親子のカルマ浄化のため設定された、ひとつの雛形としての聖地が、ここ韓松神社なのだ。だからこそ、母神に死なれ、父神に斬殺されたまま、未浄化・未解決であったカグツチを持ってくる必要があった。すでに平穏に救われている者ではなく、最も難題であった親子関係のカルマを持ってきても、なお救済・浄化を約束する未来ヴィジョンを描かねばならない。
 そのための、根源なる太母神の慈愛エネルギーを注ぐ窓口として、同じ神系の末流である神功皇后が、ピンチヒッターとして選ばれたのだ。
 そして、今この時期、私が唐松神社に詣でることができたのも、雛形としての、その“時”が到来したからかもしれない。カグツチの脱皮、変容の時が近づいている。それが地球が浄化し、次元上昇するターニングポイントの“時”でもある。


 唐松神社創建にまつわる神功皇后の伝説では、皇后は韓服宮(唐松神社)の前に船玉神社を建て、住吉三神を船玉大神として祀っている。現在の唐松神社から北東5キロ程のところにあり、ここにも足を伸ばしてみた。
 幹線道路(県道?)が上を交差する近く、農道のような分岐の細い道を下りていくと、農地と隣接してポコンと盛り上がった小山がある。一見、どこが入り口だかわからない、放置された雑木林の小山にしか見えないのだが、その中に船玉神社はあった。

 ↓これが入り口の鳥居。回り込んだ奥にあり、見つけるのにちょっと手間取った。
               船玉神社、鳥居38419248_2412823039
 
 ↓登り階段の先の参道。ただの山道にしか見えないけれど……。
                    船玉神社、のぼり道38419248_4196921148

 ↓下記ページにある平成18年当時より廃れてきているのか、「手入れの行き届いた」というには程遠い印象を受けた。 
⇒http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/akita/daisensi/funatama/funatama.html 船玉神社
 
 ↓屋根板のウェーブが特徴的な社殿。
               斜めから38419248_3493992639

 ↓正面からのアングル。
               鳥居と社殿38419248_1517123509

 ↓お帰り!ラル君。
 物の怪がでそうで、普通の人はちょっと怖い山だったと思うよ。
                 お帰り!38419248_2717209613


 唐松神社の写真にもどって…。
 ↓本殿の横に池があり、玉鉾大神と刻んだ石塔がある。
               池38419248_3303942517

 ↓これは別の場所にあった玉鉾大神。「玉鉾」とは、男性のシンボルのことだろうか?
                    玉鉾大神、石塔38419248_1389034819

 ↓参道の途中にあった、物部長穂記念館の案内標示。
                    物部長穂、案内札38419248_3189485707

 物部長穂とはどういう人物であったのか、興味はあったけど、残された時間もなく、ラルフ連れで記念館に入れるわけもないので、今回はあきらめた。
 後で調べたら、近代の土木工学の巨星で、物部神社の家系出身というから興味津々。 自然と人間の共存は、物部神道の根幹にあるテクノロジーかもしれず、宮沢賢治にも連なる思想系譜だろう。
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E9%95%B7%E7%A9%82 物部長穂 - Wikipedia

 ↓帰りの参道。なごり惜しいけれど、これでお別れ。また会う日まで。
参道、帰り38419248_1421002390


男鹿真山神社 ~ 虹色オーブの狛犬と 「物見の塔」型奥宮 ~

2009,,02
 話は前後するが、9月2日の男鹿半島、南端の赤神神社~五社堂の以前に、北側の真山神社にお参りした。この南北に縦走する尾根道が、古来からの修験の道であり、なまはげ信仰のメッカでもあった。

 ↓おりしも絵に描いたよう快晴のなまはげロード。車の中から撮影。
快晴の道38043542_3174969537

 ↓通り過ぎただけだったが、目についたサイケデリックな「なまはげ館」の立柱石。
                    なまはげ館の立石38043542_3448389761

 ↓まもなく現れる、真山神社の大鳥居。
               大鳥居38043542_2052130628

 ↓参道脇のモダンで漫画チックな狛犬。それでも左の狛犬は普通なのだが・・・・・・、
                    狛犬(左)38043542_525756525
 
 ↓右の狛犬の写真を、後で見て、ん・・・・・・?
          狛犬(右)38043542_3173030535

 なんかモヤモヤしてると思ったら、左上方から何やら幽体オーラのようなものが差し込んでね? 右下には大きな円形のオーブが二重に現れてるし。しかも虹色が・・・・・・。

 ↓神社縁起の説明版。
神社縁起38043542_571408260

 「景光天皇の御世」というところは、赤神神社のなまはげ伝承と同じだが、こちらは竹内宿禰が瓊瓊杵命と武甕槌命を祀ったのが起源とされている。漢の武帝とか日本武尊とかは出てこない。
⇒http://www.namahage.ne.jp/~shinzanjinja/yuisho.html 由緒・御祭神

 ↓社務所の横にあった丸木舟。昔、本当に使われていたものかと思ったら、平成5年に記録保存のために1本の杉の木をくり抜いて作ったものだと、ホームページにあった。いずれにせよ、古来から海運の文化が濃い土地柄だったんだろう。
               丸木舟38043542_1690736527

 ↓いざ、本殿へ。
          参道38043542_2386261533

 ↓こちらが本殿。奥にのぞいているのが薬師堂(五社殿?)。 
本殿38043542_2606137657

 ↓本殿左奥の薬師堂への、趣きある参道。 
          薬師堂38043542_3123298951

 ↓近づいてみると、薬師如来と日光、月光と七福神の像が祀ってあった。ホームページで「薬師堂」と書いてあったのだが、五社殿とよく似ている。はたしてどっちなんだか、よくわからない。
⇒http://www2.city.oga.akita.jp/contents/c.html?seq=191 男鹿市ホームページ
⇒http://www.namahage.ne.jp/~shinzanjinja/keidai.html 境内
薬師38043542_3140110891

 ↓五社殿の説明版。薬師堂とは別に、さらに少し奥にあったらしいのだが、不思議と記憶にない。
          五社殿、説明版38043542_214556430

 ↓少し離れに、神楽殿がある。
神楽殿38043542_389901203

 ↓五社殿の横から、真山三山への登山道が続く。
登山道38043542_969019983

 ↓汗水流して、かな~り登ると、緑の中に奥宮が姿を現す。
 一見、単なる展望台みたいだが、二階建ての上の階に祭壇が埋め込まれていて、社殿だったんだなあと気がつく。近年、立て替えたものらしいが、こういうスタイルの社殿は初めて見た。
奥宮38043542_3881018167

 ↓二階からの展望。
               奥宮からの展望38043542_2591333550
 
 車に戻らなくてはならないので、奥宮から引き返した。その先には自衛隊のレーダー基地があると、社務所の売店で聞いていたので、昔ながらの風情は期待できない故。

 ↓下り道もまた、楽しそうなラルフ君。私に遅れをとるまいと、ある意味、必死なのかも。  
          下山38043542_1155206493

 ↓暑い中、お疲れでしたね。
                    ラルフ38043542_185620719

 ↓そして海岸沿いをドライブして、南側の赤神神社へと向かったのだった。
          海岸ドライブ38043542_1583895876




男鹿半島の赤神神社五社堂 ~ なまはげのルーツに迫る ~

2009,,02
 一泊して、次の9月2日。男鹿半島へと車を走らせる。

 「牡鹿」半島と書くと太平洋側の三陸になってしまうが、こちらの「男鹿」半島は秋田県の西海岸に突き出た半島である。一般観光地としてさほどメジャーではないかもしれないが、海と山の立体的な景観や、古くからの山岳信仰の伝統、八郎潟の民話などで、マニアを惹きつける魅力を充分に具えている。
⇒http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/gensou.html 男鹿半島幻想

 八郎潟の「八郎」に連想される昔話というと、幼い頃に『八郎』(斎藤 隆介)という絵本を読んだ記憶が鮮明だが、今調べてみるとこれは伝統の民話ではない。民話の形を借りた創作童話だったようだ。
八郎 (日本傑作絵本シリーズ)八郎 (日本傑作絵本シリーズ)
(1967/11)
斎藤 隆介

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⇒http://www.holpforum.com/obi-33.html “たましい”をゆさぶる子どもの本の世界

 本当の民話はもうちょっと泥臭く、土地神や流れ者の僧侶の縄張り争いがらみの話になっている。
⇒http://hachirogata-mebius.web.infoseek.co.jp/sanko_densetsu.html 秋田の伝説
⇒http://homepage3.nifty.com/hikaka/tsukasa/hatiro.htm 八郎太郎

 もうひとつ、男鹿半島に欠かせない「役者」がいる。ナマハゲである。
 鬼とも天狗ともつかぬこの異形の客人(まろうど)神に、固有の起源が判明していたのかどうか。全国区での定説はないようだが、男鹿半島にはかなりもっともらしい伝説が残っている。
  『まんが日本昔話』でも見た記憶がある話だが、↓男鹿西海岸にあるなまはげ像の説明版から。
なまはげ伝説38043542_2495383069

 ↓上記説明版がある海岸に立つなまはげ像。これが赤なまはげで、そのうち青なまはげが出来て、一対になるらしい。
                    なまはげ像38043542_1597673660

 ↓こちらも参照。
⇒http://www.akagamijinja.com/namahage/index.html なまはげ伝説

 この言い伝えからくる「漢の武帝」を祀ったものが、牡鹿半島の南端にある赤神神社(朝廷が武帝を祀るために送った皇女が赤神明神とも?)、武帝に仕えた五匹の鬼を祀ったものが、その奥にある五社堂。民話にある999段の石段は、この五社堂に到る参道ということになっている。
⇒http://www.akagamijinja.com/akagamijinja/index.html 赤神神社
 しかし、時代の変遷の中で、五社堂の祭神は日本の『記紀』神話の神々に置き換えられた(あるいは混交した?)ふしもある。
⇒http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/akajin.html 男鹿半島・門前、赤神神社
 それにしても、西王母と共に降った武帝を白鳥に化身した日本武尊(ヤマトタケル)が迎えた、とか、時代考証がハチャメチャでかっ飛びすぎていて、当地を権威付けするための創作神話だったのではないか、という懸念は払拭できない。
 とは言え、男鹿半島の信仰には中国の五行思想の影響が強く見られ、古代から大陸や半島との交流が密であったことは想像に難くない。
⇒http://www3.ocn.ne.jp/~kmitoh/gensou/sisin.html 男鹿半島、十字路の謎

 ↓これが五社堂への分かれ道。赤神(漢の武帝?)のほうが偉いはずなのに、赤神神社はどうも印象が薄かった。
               石段①(赤神鳥居)38043542_2072035576

 ↓999段の石段と言っても、不規則な自然石の石畳といった印象で、どこで段を数えたらいいのか、極めて曖昧。
石段②38043542_3637876817 石段③38043542_3909852970

 ↓息をはずませながらしばらく登ると、木立ちの向こうに古色蒼然とした社が浮かんでくる。
 この時、鷲か鷹のような巨大な猛禽が、境内向かって左側の地面から右上空へと、羽音をたてて飛び去っていった。何かの啓示だろうか。(あまりにも急な出来事だったので、写真に収めることはできず)
五社堂①38043542_1963077555

 ↓何様が祀られているのか、不思議と心惹かれるものがある。なまはげのルーツである異国の「鬼」が祀られているだけとは思えない、威厳や格式を感じさせる。
五社堂②38043542_794073271

 右から二番目、客人権現堂には円空作の十一面観音像が安置されているというが、見ることはできなかった。

五社堂③38043542_1407224892

          五社堂④38043542_3586914306

 五社堂⑤38043542_2380143757

 ↓こちらは石段の入り口にある長楽寺。最近、改築したのか、心休まる綺麗なお寺だった。
               長楽寺38043542_3368026099

 ↓お参りを終えて、ひと休み。
               長楽寺、賽銭箱38043542_2266747210


 この赤神神社、及び五社堂は、男鹿半島を南北に縦走する男鹿三山の南端にあたる。北側の入り口の真山神社からも登山してみたのだが(もどって車で南側に回ってきた)、今回は印象を絞りこむために省略。
 今は山上に自衛隊のレーダー基地があり、北朝鮮への重要な情報戦略基地になっているとか。

大湯環状列石 ~ 縄文遺跡で神の遣いに出会う ~

2009,,01
 9月1日
 黒又山ピラミッドから下山し、大湯環状列石へと向かう。日本のストーンサークルとして有名で、遺跡としてはこちらのほうがメジャーかもしれない。
⇒http://www.ink.or.jp/~oyusc/ 大湯環状列石
⇒http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B9%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3 大湯環状列石 とは - コトバンク

案内板37394153_373811630
               
 県道を挟んで東側の「野中堂遺跡」と西側の「万座遺跡」とに分けられるが、わざわざ二つの名称で分けた理由はなんだったのだろう。古代においては車道などで区切られていなかったはずだし、二つで一つのものだったのではないのか(陰陽のように?)、という素朴な疑問が湧いてくる。
 考古学の知識がない私によくわからないのだが、このだだっ広い展望には、遥かなる郷愁を呼び起こす何かがある。古代においても、この開けた平野の展望に変わりはなかったのだろう。

木々と空37394153_1792097687

 悠久のロマンにひたりながら、足首くらいまで丈のある草原を踏み進んでいると、突然、左斜め後ろからザワザワと音をたてて、急接近するものがある。逆V字型の出会い頭で、思わず「わっ!」と声をあげて飛びのいてしまった。
 私の左側を歩いていたラルフなどは、30cmくらいの距離ですれ違ったはずなのに、気づいているのやらいないのやら、全くの無反応で興味も示さない。それとも反射的にリードを強く引いた私に、従ったのだろうか。(家ではやんちゃのわがまま坊主なのに、外で山野を歩く時は嘘のような忠犬ラル公になってしまうという、妙な防衛本能を持った奴なので・・・)
 その生き物は我々の目の前を斜めにクロスしてから、また逆くの字に折り返して、こちらを振り向いてピタリと止まった。

          蛇37394153_3529957367
 
 シマヘビだろうか。太さはさほどでもないが、それでも一番太いところで女性の上腕くらいはある。長さが異様に長く、2mオーバーはないかもしれないが、1.8m以上は確実にある。(臨場感がわかる程度にアップで写すと、尾っぽが写真に入りきらないことからしても、シマヘビとしていかに長大かがわかるだろう) 目の縁の流れるような隈取りが、スポーツカーのフロント・ランプみたいでかっこいい。何かを呑みこんだ直後なのか、腹のところが一部、ひょうたん型に凸凹になっているのは、ちょっと不気味。
 でも、毒のないシマヘビと直感して、ひと安心した。こんなところで遭遇するとは、やはり神の遣いに違いないと、すかさずカメラを構えた。すると「動かないでくれ」というこちらの念が通じたのか、まるでポーズでもとるかのように、後ろ姿のまま彫像のように静止し、二股に分かれた舌先だけをチロチロさせている。
 撮影終了してこちらが去ろうとしても、まだそのままの姿勢で、こちらに流し目を送ってくるので、「もういいよ、バイバイ」と言って手を振ると、とたんに身を縦横にのたくらせてムチのように大地を叩きながら、忙しそうに立ち去っていった。シマヘビがこんなに素早くもダイナミックな走り(?)をするとは、この時初めて目の当たりにした。

 それにしても、蛇の習性として、攻撃されてもいないのにむこうから突進してくる、などということがあるのだろうか。人間に出会うことが少ないので、獲物の小動物の足音と勘違いしたのだろうか。 
 とは言え、蛇と話が通じたのは初めてだったので、どうせなら、背中をなでなでさせてもらえばよかったかな、などと後になって残念に思った。


 ↓こちらが野中堂遺跡。
               野中堂遠景37394153_917953559

野中堂37394153_1239504361

 ↓野中堂よりもひとまわり大きな、万座遺跡。イギリスのストーンサークルなどと比べると、立柱石が少ないが、二重の円形にまんべんなく石が敷きつめられているところが特徴だろうか。 

万座(左)37394153_860613997

          万座(中)37394153_3621083460

                    万座(右)37394153_864368099

 ↓全景を見渡すために造られたのであろう見晴台。
               物見台37394153_125321735

 ↓大小のサークルがあちこちにあり、そのうちの小遺跡とラッちゃんのツーショット。
 本当はペットを連れ込んではいけなかったらしいのだが、粗相はしませんでしたので・・・・・・。
               ラル&小遺跡37394153_2804485945

 ↓伐り残されたような一画に、まるで古墳のようにこんもりとした樹木の密集区域がある。
               栗林遠景37394153_2247470769

 ↓近寄ってみると、栗林だった。イガ栗が信じられないくらい密集して生っていた。土地の栄養がいいのだろうか。
          栗の木37394153_584377947

 ↓木柱のサークルもある。遺跡の痕跡から仮説を立てて、復元したものなのだろう。
 世界的に見て、古代に遡るほど、神殿というものには屋根も横木もなく、立柱だけだったという説を読んだことがありる。現代人が考えるほど古代の人間は「非科学的」だったのはなく、「神」というものを次元を貫くエネルギー体として認識していたのではないだろうか。そのエネルギー集積装置としての最もシンプルな形が、天地のエネルギーを結ぶ立柱なのだ。
               木柱遠景37394153_582794494

 試しに木柱サークルの中心に入ってみると、気のせいだろうか、なんだか身体全体がジワ~ンと暖かい。いろんなポーズをとってみたくなり、ひとしきり遊んでしまった。

 ↓まずは太極拳の粘椿功(立禅)。馬歩に近い低い姿勢で。
粘椿功①37394153_793340609

 ↓陳氏太極拳の代表的なポーズ。本当に正しくこの姿勢をやると、シロウトは5秒でもきつい。
 肩から腕の放鬆(ファンソン=解放、リリース)がいまいちかなぁ・・・。単に力を抜くことと放鬆は違うんだな、ということが、こうして客観視してみるとよくわかる。この時、私は充分に腕の力を抜いているのだが、力を抜いて形をつくることに精一杯で、インナーパワーの自由なリリースが足りないのだ。
               単鞭37394153_3088957444

 ↓八卦掌の基本の構え。昔のことなので套路(型)はもう忘れてしまったが、初めて1年以内の太極拳よりもいくぶん年季が入っているせいか、サマになってるかも。
 眷属(犬族?)がシンクロして控えているのが笑える。
          八卦掌37394153_210954913

 ↓ヨーガのメディテーション。身体が天地に溶け込んでいくような心地よさを感じた。
 やはりエネルギーの良い場所なのだろう。東北の聖地特有の、太く柔らかく、開けて伸びやかな、太極拳や合気道のような“気”だ。分け隔てしないから、都のように結界して敵から護る必要もない。そんな“気”だ。
 戦乱の世では無用心にすぎて歴史的敗者になりやすいが、悠久の流れの彼方では、結局、敵味方を超えて勝者になってゆく。これは私のロマンかもしれないのだが・・・・・・。
瞑想37394153_3358773920


 この環状列石は、祭祀の跡だとか墓だとか日時計だとか、いろいろなことが言われているが、同時に古代人の日常生活空間だったような気がしてならない。ここで食物を土器に入れて煮炊きしているようなイメージが湧いてくるのだ。
 今でも田舎の大きな家では、自宅の近くや敷地内に墓があり、お墓参りに遠くに出かけるという発想が一般化するのは、後の時代のものだろう。また自然神や精霊との意識交流も、このストーンサークルのエネルギー集積路で行われていたのではないか。「祭政一致」ならぬ、「祭・生活一致」のライフスタイルである。
 そして、より本格的な宇宙高級神との交流は、各部族の長が合同で黒又山のようなピラミッドに集合して行われていた。そんな気がするのだが。


 ↓最後に、ストーンサークル館の入り口付近にあった、顔穴写真パネルで遊んだ。・・・・・・さて、遊ばれたお顔の主は誰でしょう??

               ラル237394153_2916294018

                    ラル137394153_1697535579


「石の塔」未踏と、黒又山ピラミッド

2009,,01
 毎年恒例になりつつある夏の東北巡礼。いつも遅めの時差夏休みをとるとは言うものの、今年は諸般の事情で9月までずれこんだ。

 9月1日
 まず青森と秋田の境い目あたりの低山にある「石の塔」という巨石を目指す。
 ナビを信じて車を走らせていたところ、南側の五色湖に沿った道を選ばされ、廃道となったところを迂回したり、肩身の狭い思いでじゃり道をころがしたりしつつ、ようやく「石の塔」への登り口の案内板にたどり着くことができた。
               石の塔、案内板

 地元では「石の塔を見ずして大きなことを言うな」という言い伝えがあるそうだが、わざわざ東京くんだりから、こんなへんぴなところに来る観光客など一人もいないだろうな。などと心の中でつぶやきながら、緑のジャングルの空き地に車を停めて歩き出す。
               石の塔、駐車

                    石の塔へアプローチ

 台風一過で足場が湿りがちなせいか、いたるところに蛙がピョンコ、ピョンコ。
               蛙

 10分くらい直進すると、正面が行き止まりのようになって、右横に進めの案内板が現れる。
               石の塔、ジャングル
               
 ところが、小さなせせらぎをまたいで少し進むと、あたりは道なき道のジャングル状態となり、行軍を断念せざるをえなかった。この日は次の予定もあったし、背の低いラルフ(チワワ犬)が草やぶの中で蛇にでも噛まれたら大変だ。今回のスピリチュアル・アドベンチャーは、事情あってラル君もいっしょだったのである。

 実はこの石の塔、青森側の早瀬野ダムから虹貝川を沿って南下するのが正規のルートであり、現在、秋田側からは(一般観光客は?)アプローチできないらしい。
⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E3%81%AE%E5%A1%94 石の塔 - Wikipedia
 なまじ案内板など見つけてしまったから、信じて進んだのだが、こういう不明瞭な案内表示はローカルな地域ではよくある。下調べ不足でナビまかせだったのが、こちらの敗因だ。
 また来年の候補ということで、戦略的撤退。


 次の目的地、黒又(くろまんた)山へと向かう。日本のピラミッドとして、知る人ぞ知るミステリー・スポットだ。
次の本から引用してみる。

日本の謎と不思議大全 東日本編 (ものしりミニシリーズ)日本の謎と不思議大全 東日本編 (ものしりミニシリーズ)
(2006/10)
人文社編集部

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 日本にもピラミッドがあるという仮説を提唱した人物は、酒井勝軍(1874~1940)であった。酒井によれば、日本ピラミッドは世界中のピラミッドの祖形であり、その役割は、神と人間が交流する場所であったという。
 酒井のピラミッド説は反響を呼び、戦後になってから、マスメディアなどにより、広島県庄原市の葦嶽山や青森県新郷村の大石神など、20から30にもおよぶ山が日本ピラミッドの候補として名を挙げられてきた。だが、残念ながらそれらの多くは憶測の域を出ず、噂の段階に止まっていた。
 そんな中、学術調査隊が組織され、科学のメスが初めて入れられることになったのが、この黒又山である。平成4年(1992)、黒又山総合調査団(加藤孝団長=元東北学院大学教授)によるリサーチで明らかにされたのは、驚くべき内容であった。
 地下レーダーによる調査で、黒又山は現在でこそ土に埋もれているが、本来の形は、麓から山頂にかけ、およそ7段から10段の階段状の構造になっていたとの測定がなされた。また、山の地表面から多くの白い石が発見され、これは築成時にピラミッドの表面を覆っていたものではないかとも推測されている。
つまり、黒又山は、7~10段の階層を持った大規模な人工物であり、その表面は白い石で飾られていた可能性が高いということだ。階段状の山容が、自然の作用であるとは考えにくく、人為的な働きかけがあったと考えるのは当然だろう。また、山頂部分の地価10メートルほどには空洞があることが確認され、何者かを埋葬していたのではないかという可能性も指摘されている。
 一方、黒又山周辺には「大湯環状列石」をはじめ、数多くの神社や石造遺物が見られるが、これらの間に一定の法則があることもわかってきた。黒又山を中心として見ると、これらの遺跡や神社群が、なんと東西南北の線上に密集して並んでいるのである。方位の知識を持った知性の高い集団が、神聖なる場所を意図的に配置したと見られるのである。

また、一説によれば、「黒又」の語源はアイヌ語の「クルマッタ」であるという。クルマッタとは“神々のオアシス”という意味であり、古代、何らかの超知性体(ある人は神と呼び、ある人は異星人というかもしれない)との交流の場所として黒又山があったことを、この言葉は示唆しているのかもしれない。


本宮神社、入り口1

本宮神社、入り口
 これが黒又山の登り口。一見、神社の入り口だが、その先に社殿はなく、薄暗い山道が続いている。もの好き人間でなければ、なかなかこの鳥居をくぐる勇気は湧いてこないだろう、・・・・・・というくらいに、暗く古びた地味な雰囲気で、我々も車で一度通過してしまい、もどってから近所で野良仕事をしている農家のおばさんに訪ねて確かめた。(この写真はさほど暗くないが、おそらく撮影者の深層の波長と同調するものしか、写真にも写らないのではないだろうか。私は思ったほどネクラではない、ということか?)

 鳥居の手前横にある自然石の碑。後ろの石柱に「猿田彦大神」と刻んである。
                    本宮神社、猿田彦石碑

 裏側(下山側)からのアングル。
               本宮神社、裏側

 神社の由来書き。10世紀末頃には仏教の薬師や帝釈を祀っていたが、明治になってから「神社」にされたとのこと。
本宮神社の由来
 
 裏に黒又山の由来が書いてあった。こちらには「クルマンタ」がアイヌ語ではなく蝦夷語だと書かれている。
黒又山の由来

 山道の一帯は、比較的、近年(戦後?)になって植林されたような杉や松の林になっている。
                    黒又山、山道

 中腹に現れる、薬師堂らしき屋根。
               薬師堂、屋根

 こうして見ると、小さいながらなかなか趣きがある。 
          黒又山、薬師堂

 その後、頂上までは思ったより距離があった。標高280メートル程度とは言え、バカにできない。


 帰ってきてからネットで調べて知ったことだが、この黒又山の調査団の重要人物は、その後、時を経ずして何人も怪死しているという。
⇒http://tohokujomon.blogspot.com/2009/05/blog-post.html 5,東北縄文文化研究会 01107■黒又山ピラミッドを透視する
 どうりで人が寄り付いてる臭いがしなかったわけだ。我々はほっくりかえしたりしなかったから、だいじょうぶだろうか。
 初めに鳥居を見たときの、ちょっぴり薄気味の悪かった感じが、気のせいか、帰る頃にはさっぱりと洗われたような波動になっていた。地霊浄化のお手伝いが、少しはできましたでしょうか。

 素盞鳴大神様 祓え給え 清め給え 
 国常立大神様 守り給え 幸はへ給え
 合掌


(次回、大湯環状列石)

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

五右衛紋☆Rhapsody

Author:五右衛紋☆Rhapsody
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

タイトルリスト#

◆Date:2009年09月
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