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謎深まる大和大国魂神社

2008,,06
     樫原神宮

       大和神社

               △上:樫原神宮の内拝殿樫原神宮より
               △下:大和神社の拝殿大和神社 - Wikipediaより
開放系の拝殿と、中庭のような空間を隔てて、奥に本殿がある構造が、似てないだろうか? その心は、本文参照。


 伊勢久留麻神社と対応するように、淡路にはもうひとつ、朝廷がらみの古社がある。淡路二ノ宮となっている大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)がそれ。
⇒大和大国魂神社 大和大圀魂神社 大和大國魂神社 (淡路島)
 奈良県天理市の「山辺の道」近くにある大和神社(おおやまとじんじゃ/延喜式神名帳の正式名は「大和坐大国魂神社」)を勧請した社とされている。
⇒大和神社 Ooyamato Shrine
⇒大和神社 - Wikipedia
⇒大和神社

 この天理市の大和神社と、伊勢の皇大神宮、そしてもうひとつ奈良県桜井市三輪の大神神社、これは朝廷由来の最古の三社と言ってもよいのだが、この三社は歴史ミステリーの謎めいた一本の糸で繋がっている。
 謎の天皇である崇神天皇の代というから、年代は特定しづらいのだが……。

▽以下、倭大国魂神 – Wikipediaより引用。

 倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、日本神話に登場する神である。日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神である。
 『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。同年8月7日、臣下の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。


▽以下、丹後元伊勢伝説より引用。

 時は崇神天皇の御代、日本国中に疫病が大流行し、国民の半数が死亡するほどの猛威を振るいました。事態を憂いだ天皇は、朝夕に天神地祇に祈りを捧げ られにもかかわらず、その勢いは一向に止まりませんでした。

 この国難を、宮中で祭祀している天照大神(アマテラスオゝミカミ)と倭大國魂神(ヤマトオゝクニタマノカミ)の不仲によるものと思慮された天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託して祀らせ、倭大國魂神を市磯長尾市宿禰(イチシノナガオチノスクネ)に託して祀らせ、占いの結果祟りをなしている事が判明した大物主神(オゝモノヌシノカミ)を太田田根子命(オゝタタネコノミコト)に託して祀らせたところ、ようやく疫病は収まりました。

 この一件以来、倭大國魂神は倭国(ヤマトノクニ)の大和(オゝヤマト)神社に、大物主神は倭国の大神(オゝミワ)神社にて祭祀されることになるのですが、倭国の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀られた天照大神は、それ以後約六十年の歳月を要して二十五回も遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになります。
 天照大神が神宮(伊勢神宮を正しく呼称する場合、「伊勢」は付けない)の内宮に鎮座する以前に立ち寄った先を、元伊勢と呼びます。


 
 少し長くなるが、この件に関する『古事記』と『日本書紀』(略して『記紀』)の原文と現代語訳を見比べてみよう。(参考のため原文を添付するが、ひとまず現代語訳だけ流してくださればよろしい。私としては、いずれ詳しく突っ込んでみたかったテーマなので)
以下元伊勢物語より
⇒現代語訳〔古事記・日本書紀〕

『古事記』より

此天皇之御世、役病多起、人民死為尽。爾天皇愁嘆而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰、是者我之御心。故,以意富多多泥古而、令祭我御前者、神気不起、国安平。是以驛使班于四方、求謂以意富多多泥古人之時、於河内之美努村、見得其人貢進。爾天皇問賜之汝者誰子也、答曰、僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣生子、名櫛御方命之子、
飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古曰、 於是天皇歓以詔之、天下平、人民栄。即以意富多多泥古、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前、又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶 (此三字以音也) 定奉天神地祇之社、又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭墨色楯矛、坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而役気悉
息、国家安平也。

古事記は、岩波文庫 620 古事記 倉野憲司校注 より


▽以下、読み下し文。

この天皇の御世(ミヨ)に、役病多(エヤミサハ)に起こりて、人民(タミ)死にて尽(ツ)きむとしき。
ここに天皇愁(ウレ)ひ歎(ナゲ)きたまひて神牀(カムトコ)に坐(マ)しし夜、大物主大神(オオモノヌシ)、御夢(ミイメ)に顕(アラ)はれて曰(ノ)りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(オホタタネコ)をもちて、我が御前(ミマヘ)を祭つらしめたまはば、神の気(ケ)起こらず、国安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。ここをもちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方(ヨモ)に班(アカチ)、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得(ミエ)て貢進(タテマツ)りき。ここに天皇、「汝(ナ)は誰(タ)が子ぞ。」と問ひたまへば、答へて曰(マヲ)ししく、「僕(ア)は大物主大神、陶津耳命(スエツミミノミコト)の女、活玉依毘賣(イクタマヨリビメ)を娶して生める子、名は櫛御方命(クシカタノミコト)の子、飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子、建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子、僕意富多多泥古ぞ。」と曰しき。ここに天皇大(イタ)く歓びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古命もちて神主(カムヌシ)として、御諸山(ミモロヤマ)に意富美和(オホミワ)の大神の前を拝(イツ)き祭りたまひき。また伊迦賀色許男命に仰せて、天(アメ)の八十平瓮(ヤソビラカ)を作り、天神地祇(アマツカミクニツカミ)の社(ヤシロ)を定め奉(マツ)りたまひき。また宇陀(ウダ)の墨坂神(スミサカノカミ)に赤色の楯矛(タテホコ)を祭り、また大坂神に墨色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉に遺し忘ねねこと無く幣帛(ミテグラ)を奉りたまひき。これによりて役(エヤミ)の気悉に息(ヤ)みて、国家(アメノシタ)安らかに平らぎき。


『日本書紀』より

五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以、晨興夕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。(神籬、此云比莽呂岐) 亦以日本大国魂神、託渟名城入姫命、令祭。然渟名城入姫命,髪落體痩而不能祭。

七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰、昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意、今當朕世、数有災害。恐朝無善政、取咎於神祇耶。盍命神亀、以極致災之所由也。於是、天皇之幸于神浅茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姫命曰、天皇、何憂国之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。天皇問曰、教如此者誰神也。答曰、我是倭国域内所居神、名為大物主神、時得神語、髄教祭祀。然猶於事無験。天皇乃沐浴斎戒、浄潔浄殿内、而新之曰、朕禮神尚未尽耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。是夜夢、有一貴人。対立殿戸、自称大物主神曰、天皇、勿復為愁。国之不治、是吾意也。于若以吾見大田々根子、令祭吾者、即立平矣。亦有海外之国、自當帰伏。○秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、大田々根子、為祭大物主大神、亦以市磯長尾市、為祭倭大国魂神主、必天下太平矣。天皇得夢辞、益歓於心。布告天下、求大田々根子、即於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、即親臨于神浅茅原、会諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。対曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方武茅渟祇之女也。天皇曰、朕當栄栄。乃卜使物部連祖伊香色雄、為神班物者、吉之。便祭他神、不吉。○十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄、而以物部八十平瓮、作祭神之物。即以大田々根子、為祭大物主大神之主。又以長尾市、為祭倭大国魂之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・国社、及神地・神戸。於是、疫病始息、国内漸謐。五穀既成、百姓饒之。

日本書紀は、講談社学術文庫 833  日本書紀(上) 全現代語訳  宇治谷 孟 より
巻第五 祟神天皇
 

▽以下、現代語訳。

五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。
 六年、百姓の流離(リュウリ)するもの、或いは反逆するものもあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。これより先、天照大神(アマテラスオオカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(トヨスキイリビヒメ)に託し、大和の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った。よって堅固な石の神籬(ヒモロギ・神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。
七年春二月二十五日、詔して「昔。わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いもかけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政なく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占いによって災いの起こるわけを究めよう」といわれた。天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万の神々をお招きして占いをされた。このときに神明は倭迹迹日百甕姫命に神懸りしていわれるのに、「天皇はどうして国の治まらないこと憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう。」と。
天皇は問うて「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」と。答えていわれる。「我は倭国の域の内にいる神で、名は大物主神という」と。この神のお告げを得て、教えのままにお祀りしたけれどもなお験がなかった。天皇はそこで斎戒沐浴して、殿内を浄めてお祈りしていわれるのに、「私の神を敬うことがまだ不十分なのでしょうか、どうしてそんなに受け入れて預けないのでしょうか。どうかまた夢の中で教えて、神恩をお垂れ下さい」と。この夜の夢に一人の貴人が現われ殿舎に向かって自ら大物主と名乗って「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意によるものだ。もしわが子大田々根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」とつげた。
八月七日、倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の先祖大水口宿禰・伊勢麻績君の三人が、共に同じ夢をみて申し上げていわれるのに、「昨夜夢をみましたが、一人の貴人があって、教えていわれるのに、『大田田根子命を、大物主神を祀る祭主とし、また市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は平らぐだろう』といわれました」という。天皇は夢の言葉を得て、ますます心に歓ばれた。あまねく天下に告げて大田田根子を求められた。茅渟縣の陶邑に、大田田根子が見つかりおつれした。天皇は自ら神浅茅原におでましになり、大田田根子に尋ねていわれるのに、「お前は一体誰の子か」と。答えて「父を大物主大神、母活玉依姫といいます。陶津耳の娘です」と。----また別に「奇日方武茅渟祇の女」ともいわれている。天皇は「ああ、私はきっと栄えるだろう」といわれた。そこで物部連の先祖の伊香色雄を、神班物者(神に捧げるものを分つ人)としようと占うと吉と出て、またついでに他神を祭ろうと占うと吉からずと出た。
十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を神祭の供物とさせた。大田々根子を、大物主大神を祀る祭主とした。また長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸(神社の用に充てられた民戸)をきめた。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。


 
 要するに神の祟りがあって疫病や天災地変や反乱があったが、紆余曲折ありつつも、それぞれの神をそれなりの斎主に祀りなおさせたら鎮まった、というお話。これは『記紀』における祟り神の原型としてあまりにも有名な話なので、初心者の皆さんは覚えておいて欲しい。神道とは、為政者の精神衛生に都合がいいだけのキレイゴトの世界ではなく、不条理な“祟り”に満ちた、秘匿されたミステリー&リベンジ・ワールドでもあったのだ。

 さて、一見して気づくのは、『古事記』では大物主神の独壇場となっているのに対し、『日本書紀』ではその前フリとして、天照大神と倭大国魂神の二神の確執の物語があること。
 『書紀』によると、天照大神と倭大国魂神の二神を宮中で祀っていた時代があった。(なぜ……?)
 ところが、「その神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった」 ので、宮の外で祀らせることになる。(なぜ……?)
 「共に住むには不安があった」のは、その二神が共に住むことに不安があったのか、それとも天皇や皇族がその二神と共に住むことに不安があったのか、その両方なのか。(それにしても、なぜ……??)
 一般的な解釈では、これを二神の不仲によるものと説明するむきが多い。(なぜ……?)
 そして、二神を宮の外で(別々に)祀らせる段になっても、まだ災いが治まらないので、「八十万の神々をお招きして」託宣を求めると、そこで登場するのが、なぜか天照大神でもなく倭大国魂神でもなく大物主神。(なぜ……?)
 その大物主神のお告げに従い、物部連に神祭の供物を捧げさせ、大物主神の子孫の大田田根子を祭主として祀らせたら、ここではじめて国は治まった。(なぜ……?)
 このように大物主神を正式に祀る以前には、「ついでに他神を祭ろうと占うと」不吉と出たのに、大物主神を祀った後に、倭大国魂神を祀り、「それから他神を祀ろうと占うと吉と出た」ので、ようやく八十万の群神を祀った。(なぜ……?)
 この『書紀』の祟り話の件で、途中でフェイドアウトしてしまうように出てこないのが、意外にも(後に)皇祖神とされる天照大神なのだが、こちらは『倭姫命世紀』によると、倭国の笠縫邑に祀られた後、約六十年の歳月を要して二十五回もの遷宮を繰り返し、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになる。これが現在に至る伊勢の内宮=皇大神宮の発祥である。(なぜ……?)

 この物語の中で、あたかも一神教のゴッドの如く絶大なる神威を発揮しているのは大物主神なのに、一般には征服され服従した国津神のように言われている。(なぜ……?)
 一方、『書紀』のこの記述の時点では、最も存在感の乏しい(女神とも男神とも明記されていない)天照大神が、まるで身寄りのない流浪の遷宮の後、広大な敷地を有する神宮に祀り上げられ、やがて国家の最高神として崇め奉られるようになる。(なぜ……?)
 少なくとも崇神の代の宮中祭祀においては、天照大神と同格だったはずの倭大国魂神は、後の時代においては最も存在感が希薄で、祀っている大和神社も(他の二社と較べれば)閑散として過去の遺跡的なたたずまいである。また、倭大国魂神という神名も超マイナーであり、素性さえも謎めいていて諸説紛々である。(なぜ……?)

 このように神社庁神道と天皇家の祭祀において、最も“なぜなぜ” だらけのミステリー・ゾーンが、この祟り話にまつわる、三つの古社の由来・由緒の部分だったのである。実はそこに、当時の各部族・各派閥の権謀術数や栄枯盛衰の物語が隠されているはずだ。
 これを刑事コロンボの如く、ぶしつけにしつこく詮索していくところに、古代史&神道ミステリーの至上の喜びと幸せがあるのであ~る。なぜならば、そこに「八百万の神々」ならぬ「嘘八百の神道」の通説・常識を覆す、本物の隠された岩屋戸開きがあるかもしれないからだ。

 念のため、現在の神社と祭神の関係を整理すると、次のようになる。
大物主神:大神神社(奈良県桜井市三輪)
天照大神:皇大神宮(伊勢)
倭大国魂神:大和神社(奈良県天理市)

 このうち、皇大神宮由来の伊勢久留麻神社と、大和神社由来の大和大国魂神社が、一見場違いとも見える淡路島にあった。 
 大和大国魂神社の祭神:大和大圀魂命も、伊勢久留麻神社の祭神:大日孁貴尊と同じく、北九州から淡路島を経て畿内大和に入った氏族の祖霊・祖神を祀ったものではないだろうか。
 つまり、神武の勢力である。神武系は、実は南方海人系経由の物部氏(の傍流)だったから、先住系物部の祖神である大物主神とは遠い縁戚関係にある。したがって、まず親神の大物主を祀ってから、傍流の子孫神:倭大国魂神を祀るのがスジだったのである。

 しかし、後に神武系の物部は勢力争いに破れ退いていく。「万世一系」として初代天皇の名目だけ利用され、物部氏であった素性も秘されてしまった。(初代天皇の氏族が歴史上の敗残者である物部とするは、つじつまが合わず、いかにも都合が悪いから) だから、大和神社は、かつては栄えた歴史上の敗者の遺跡としてのオーラを残している。そして、ごく近年(明治23年創建の樫原神宮)に至るまで、神武天皇を祀る国家規模の大きな社は無かったのである!

 大物主に関しては、この時代の南方渡来系ではないので、淡路にも北九州にも痕跡はない。弥生期の南方海人系の神ではなく、それ以前から坐したネイティブの地主神、つまり、元伊勢の系列の神だったからである。

 次回、淡路の大和大国魂神社を写真入りで紹介する。

(つづく)

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2018.04.21 22:39
島根神世
 古代日本において王権という場合に、天皇制が唯一の王権であるとして、王権論は天皇制の問題として論じられることがほとんどである。あるいは、天皇制は日本の特殊な制度としてあり、王権とは区別すべきだというふうに論じられることもある。その場合には、どこがどのように本質的に違うのかということを厳密に論じてゆく必要があるわけで、ここではその問題を措いていえば、古代天皇制の基本的な構造は一般的な王権と同じものだったはずだと認識してよいのではないかと考えている。もし天皇制が他の王権と違うとすれば、古橋信孝がいうように、「この世におけるさまざまな責任から免れうる位置」に立つための「祓え」という祭祀体系をもったことなのかもしれない(「王権と天皇制」)。しかし、すでに王権の段階で、具体的な祭祀実行者である巫者と王とが分離し、王が血筋によって継承される存在であったとみれば、そうした体系は何らかの形で、すでに王権の段階にも現れていたはずなのである。
 古代国家の統一により天皇は唯一の支配者となり、それぞれの在地豪族たちは古代天皇制のなかに組み込まれていったのだが、それ以前には、彼らもまた王あるいは首長として存在していた段階があったはずで、天皇制こそが古代日本の唯一の王権であったと考えるべきではない。そうでありながら、我々が目にすることのできる文献、記紀や風土記によると、すべての民や土地は天皇家に隷属するものとして整序され、唯一の歴史であるところの天皇家に隷属する存在として中央や地方の豪族たちはいる。古代天皇制はそれだけ強固な制度を確立していたということになるのだが、それでも、注意深くみてゆけば渾沌とした前代が見えてくるのである。
 いうまでもないことだが、王権が確立し存続し、王あるいは天皇が恒久的な支配権を保証されるためには、その制度を支えるための構造をもたなくてはならない。それは、具体的には、神話をもつことであり、シンボルとしての神宝をもつことであり、血筋を保証する系譜をもつことであり、人々の生活を可能にする呪的な力能をもつことであった。
 始源的な共同体にその共同体を統括する者が発生する段階を想定していえば、その統括者は、首長としての権力を持つとともに呪力を行使できる者だったはずである。つまり、首長=シャーマンであることが共同体を統括する力だったのであり、その首長が王になる段階が、王権の発生する時であった。そして、そこで王とシャーマンの役割は分離し、両者は別の存在になってゆくのである。
 王は、天皇の場合もそうだが、王権の成員一般とは区別された存在でなければならない。だから、多くの場合に王は神の子として幻想されてゆく。神に繋がる者であることにおいて、王あるいは天皇は存在自体として擬制的な共同体=国家を統括する力をその内部に保証されるのである。王あるいは天皇が宗教的な存在であるのはそのためである。そして、その王の力は、具体的には神話や系譜や神宝によって示される。どのような神から生まれ、どのような歴史によって王となり、代々の王はどのように繋がり、他の人々とはどのような関係性をもつかというふうな秩序が、系譜や神話として語られるのである。それが共同体全体の成員にとって確かな幻想になるために、神話や系譜は語り継がれなければならず、そこに、語部という制度化された存在が要請されてくる。語部は、王と分離された巫者的存在であった。彼らは人間の言葉ではない神の言葉を、神の立場で伝えることのできる力をもたなければならないのであり、だからこそ巫者的な存在でなければならなかったのである。たとえば、出雲国風土記意宇郡安来郷条にみえる語臣一族は、そうした王権に隷属する語部の性格をよく示している。
 また、神宝は人である王が神の子孫になるための呪具であり、語り継がれる神話や系譜の事実性を保証するための証拠である。天皇家に受け継がれる三種の神器だけが神宝だったのではない。日本書紀の崇神天皇六十年条・垂仁天皇八十八年条あるいは肥前国風土記彼杵郡・豊後国風土記速見郡などに、もともと王として存在していたであろう在地豪族が自らの神宝を天皇に献上するという伝承が伝えられており、その背後に古代王権の存在が暗示されている。そして、それらの神宝献上譚は、前代の王権が天皇制のもとに吸収解体されてゆく、その象徴的な神話であった。また、諸国の語部が古詞を奏上する天皇の即位儀礼としての大嘗祭は、それらの王権がもっていた神話や系譜を捧げて天皇への服属を誓うための神話的な場でもあったのである。
2015.01.06 20:45

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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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