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伊勢久留麻神社は元伊勢に非ず(前)

2008,,07
 (今回、長文のみで写真は次回まわしとなります)


 伊勢久留麻神社という名称には、ちょっとばかりそそられる響きがある。現在の皇大神宮がある伊勢の地以外にも、「伊勢」の名が秘された場所は各地にあり、それらには「元伊勢」と呼ばれる謎めいた古代の残り香が感じられることが多いからだ。
 もっとも、「元伊勢」の解釈も人によってずいぶんと違う。額面通り、※約60年の間に29ヶ所もの遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座するまでの、過去の経過地としての「遺跡」的な視点しか持たない人も多い。一般論や通説としては、こちらのほうが模範解答なんだけどね。
(※出典は同じ『倭姫命世紀』だが、86年間だとか、20ヶ所だとか26ヶ所だとか、引用者によって異説多々。どこを起点とするか、近い場所を別カウントするかしないか、などの相違からだろうか)
⇒丹後元伊勢伝説

 しかし、私のような者にとって、元伊勢は全く違った意味を持ってくる。「元伊勢」ネットワークは、現在の皇大神宮の「伊勢」とはまるで別派の聖地だったのであり、大和朝廷よりも邪馬台国よりもはるか以前からの、縄文以来のネイティブ日ノ本の神々の潜伏する霊場であり、しいて言うならば出雲やアラハバキや東北物部やアイヌなどに近い。つまり、「伊勢」と「元伊勢」は違う!のであり、異文化・異民族・異教のスピリチュアル・ルーツなのだ。
 関西圏の異文化重層構造の深遠を認めたがらない人には、これはいくら説明してもわからない。

 したがって、ある時代から(あくまでも、“ある”時代から)皇祖神とされてきた伊勢内宮のアマテラスが、女神であるか男神であるかなどといった近頃よくある詮索はどうでもいい話なのであり、どちらにせよそれが元伊勢の神=饒速日や瀬織津姫の本流でないことだけが、私の確信なのである。(国の権威が、隠しつつであれ、饒速日や瀬織津姫をちゃんと祀っていたのであれば、日本がこんなにも日和見で付和雷同なくせに幼稚なツッパリ民族になる必然はない。信仰や祭祀とは、単なる暗示効果としての気休めではない。森羅万象の内奥から民族性を規定してくるものなのだ)

 それでは、この淡路の伊勢久留麻神社はどちらだったのかと言うと、現地に立った私の印象としては、やはり「元伊勢」ではなく「(新)伊勢」の系統だったのではないか、というのが率直な感想である。
 小川・水谷説による「太陽の道」を、さらに西へと延長していくと北九州になる。
⇒複数の「太陽の道」 伊弉諾神宮(後)
 弥生時代、この北九州にあった卑弥呼の邪馬台国が、近親関係にある(が別派の)神武の勢力と提携して東征してくる途上、淡路島にも寄った。伊勢久留麻神社の創建は伊勢の皇大神宮よりも後だろうが、その過去の経過地の思い出として、記念碑的に後から建てたのではないだろうか。

 邪馬台国は北九州か畿内大和かという論争があって久しいが、畿内説をとりたがる人達の中には、卑弥呼の王朝が列島に先住する統一王朝の原型であったとしたい願望が見え隠れする。(だから一地方である九州の北端ではなく、本州のほぼ中央であったとしたいのではないか) おそらく、そこには根強い女帝ロマン(裏返せば女帝コンプレックス)と、農耕定住の単一民族への執着がある。しかし、卑弥呼の邪馬台国はそれほど古い時代のものではないし、弥生時代以降の、言うなれば一新興勢力としての外来勢力にすぎない、というのが私の見方である。
 
 そもそも『魏志倭人伝』という名の書物はなく、正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の、(後の時代の)日本における通称である。つまり古代中国の歴史書にオマケ程度に書き添えられた、東夷(東の野蛮人?)についての伝え書きといった、中華思想まる出しの編集である。記した中国人も、どれだけ日本列島に滞在して正確な全体像を把握していたかは疑わしく、聞き伝えのような感じで、最初に上陸した土地の噂話を誇大妄想的にでっちあげてしまった可能性は否めない。
 それをありがたがって自国のアイデンティティにしようとしているのは、舶来ものに弱い戦後日本人のコンプレックスをくすぐられたからだろうか。
⇒魏志倭人伝 – Wikipedia
⇒魏志倭人伝(全文)
⇒魏志倭人伝

 そもそも卑弥呼の一族自体が大陸や半島を経て、列島に入ってきた経緯を持つからこそ、当時の中国(魏や晋)とも密な外交関係があったのであり、「倭人」も列島の定住民などという意味ではなく、当時の大陸東海岸や朝鮮半島や九州沿岸などを渡り歩き、海洋貿易や海賊をやっていた民族の、中国における呼称である。(その後の日本人の数あるルーツの中のひとつとなったことは否定しないが)

 但し、卑弥呼が「鬼道」と呼ばれる巫女の託宣や卜占を旨とする宗教を持っていたことから、そのルーツは大陸北方~高句麗経由のシャーマニズムであった可能性が強い。(この「鬼」のキーワードは、物部神道とも地下水脈で結ばれていて、後の修験道や陰陽道とも近親関係がうかがえる)
 一方、『魏志倭人伝』に色濃く見られる南方海洋系の習俗からすると、この北方系シャーマニズムが南下したものが、当地の海人族や稲作農耕民と交わり、時代を経て習合していったものと考えられる。
 その別派が、『記紀』によって初代天皇とされる神武の勢力である。神武系のほうが元の北方騎馬系の父系社会の風習が強かったが、大まかなルーツを同じくしていたので合流し、力を合わせて東征していった。これが後の大和朝廷の有力部族となる南方海人系の物部氏のルーツである。
 さらに言えば、はるか西方からのユダヤの一派も、これに合流していたかもしれない。ちなみに小川・水谷説の「太陽の道」北緯34度~35度付近を、世界地図に当てはめて中東へとたどっていくと、現在のイスラエルのすぐ北にあるレバノンあたりになる。

 これに対して北方直喩(あるいはムー大陸原産)の物部が、縄文期より、関西以東、関東以北に高度な文化を築いていたが、「東北の野蛮人=蝦夷(エミシ)」などと十把一からげに蔑称され、体制派の「正史」からは完全に抹消され、『記紀』史観には絶対に登場することがない。
 南方海人ミックスの物部⇒弥生以降の大和朝廷を築いた物部、つまり「内物部」だけが物部なのではない。物部の本流は、むしろ東北に先住していた「外物部」である。(ここで言う「内」「外」とは、弥生以降の大和朝廷に対する親和度の分類表現) 「外物部」こそが「元物部」なのであり、この先住系の物部ネットワークを統べていたのが、真の太陽王:饒速日(ニギハヤヒ)であり、真の古代女神:瀬織津姫である。そして、関西圏において、その痕跡を留めている聖地こそが「元伊勢」だったのだ。


 さて、2~3世紀以降に勢力を蓄えた卑弥呼・神武連合の南方経由の習合部族は、東の日が昇る方向へと向かっていったため、「日向(ひゅうが、ひむか)」族と総称されるようになる。日向族の原点は、それより以前の「天孫」瓊瓊杵(ニニギ)だが、それだけこの倭人⇒日向族⇒海人系物部氏の流れも一様ではなく、かなりの時代的振幅をもって、何派にも分かれて上陸⇒東征していったものと思われる。
 また、決して一箇所に定住したのでもなく、現地における勢力争いなどの都合上、九州内部でさえあちこちに遷都していたはずだ。だから、私の邪馬台国≒北九州説も、永続的に北九州に限定したものではなく、上陸後の初代卑弥呼(卑弥呼も個人名ではなく「日の巫女」の称号)の全盛期が北九州だったというだけの話で、その後、各地を移動しながら各派と合流しつつ、最終的には畿内大和へと「日向」したのである。
 
 しかし、その大和には、それ以前の縄文以来からの前大和・元大和の王朝があった。それこそが後に「元伊勢」と呼ばれるスピリチュアル文化圏なのだが、この歴史ロマンは体制側の「正史」からは完全に抹殺され、長い間顧みられることはなかった。

 そこで話は最初にもどるが、その「日向」の道の象徴が、淡路島にも足跡を残す小川・水谷説の「太陽の道」だったのではないか、というのが私の仮説である。
 
 しかし、この日向族の大和王朝も、7世紀の国際的動乱の煽りで完全に後退し、単なるシンボルとして祭祀の中で崇められるだけの、飾り物の神様となっていく。逆説的ではあるが、これが伊勢の皇大神宮が「皇祖」と制定され、いわば国教となっていく分岐点である
 したがって、その後の大和王朝の実権は、南方海人系の「日向」族ではない。どさくさにまぎれて権力を掠め取った、百済経由の藤原不比等による黒幕王朝である。看板だけ、日向系の万世一系であるとして、血統を偽造・粉飾したのである。(政略結婚によって天皇家に食い込んでもいるので、細々と血が繋がっている部分もあるのだが)

 なんとバチ当たりな仮説!と言うかもしれないが、過去、伊勢神宮に参拝した天皇は、近代の明治天皇以前には、7世紀に伊勢神宮崇拝の体制を血道をあげて築き上げた、持統天皇ただ一人という事実! これをどう説明するのだろうか? 本当に伊勢の神が皇祖(天皇家の先祖)であったなら、自分の祖霊・祖神に詣でない子孫のほうが、よほどバチ当たりな話ではないか。
 いや、実態は、祖霊・祖神などではなく、都合よくシンボルとして祀り上げてきただけだからこそ、祟りが怖ろしかったのだ。つまり、藤原黒幕王朝にとっては、皇大神宮もまた出雲大社と同様、祟り鎮め(御機嫌とり)の社だった。その祭祀は、政治的実権を持たないその神(氏族)の子孫の生き残りに間接的に託し、自分らは直接タッチしないのがオカルト保身術となっていく。文字通り、さわらぬ神に祟りなし!である。
 バチを怖れていたのは、藤原黒幕王朝のほうである。ましてや、「日向」族以前の縄文の神々のことなど、口の端にものぼらせたくなかっただろう。


(つづく)


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comment

三斗Ra 隼人(管理人)
返信、遅れてすみません。
郷土のかたなのですね。こうした歴史ある神社の風水が破壊されてしまうのも、何かわけありの栄枯盛衰なのかもしれませんが、地元の人間としては辛いものがあるとお察しします。

勧請されたもとの久留真神社の祭神が男神の大国主命であることや、伊勢久留麻神社の本殿がやはり男神様の造りになっていることは、また謎が深まりますが、訳のわからないうちはここでは仮説は控えます。
しかし、祭神がどうこうは別にして、都から見たある種の重要な、方位の守り鎮めの意味はあったのかもしれませんね。

パワースポット流行りの昨今でも、淡路はまだいまひとつマイナーかもしれません。これだけ詳しければ、御自分で淡路紹介のホームページなり作ってみるのもいいんじゃないでしょうか。

明日から、また別方向へ小旅行に出ます。
すべてのコメントにレス入れるのは、遅れるか、無理かもしれませんが、とりあえずありがとうございます。

2010.08.30 01:41
モリ@久留麻
伊勢久留麻神社の元々の境内のど真ん中を国道が突っ切って参道を遮断してしまっています。
これは昭和三十年代~四十年初頭にかけて対面通行もままならない浜側の狭い旧国道(現在は市道)を拡幅改修掛け替え工事するに伴ってあちらこちらで同様な不遜な行為が横行しました。
当然、御陵威の低下は宜なるかなです。(T_T)
元々の参道入り口は浜側(東側)の稲荷明神のある辺りに立派な黒木の大鳥居が有ったそうです。
境内には霊妙な多数の根上がりの松や伝、楠木正成公の駒止めの松等の名所旧跡が有りましたが全て枯渇。

真裏側には総合病院がデンと有って神路や龍脈はズタズタです

本殿~参道は伊勢神宮を向いていると言われています。

伊勢久留麻神社の創建は説明板に有る通り、伊勢国久留真庄(鈴鹿市白子地区)に久留真神社があり、敏達天皇の御宇にそちら様より勧請し創建されたと言われ、延喜式内社。淡路三ノ宮(正確には津名郡二宮)往古には勅使下向も有ったと言われます。
因みに、白子の久留真神社の御祭神は大国主命(太陽神の御神格をお持ち)。大国主命の后、スセリヒメ命。呉織姫、漢織姫(呉国より亡命。来朝し勅命によりこの地を賜り機織りを伝えた兄姫エヒメ、弟姫オトヒメの姉妹)
聖なる機織りの糸車の意味で「クルマ」かと存じます
・・・・・・・
御祭神は大ひるめ貴命とされます。(宮司さまもその様にご認識)
地元では久留麻の明神さんと呼び慣わして居ます。
伊勢久留麻神社の御本殿は何故か大変男前のお造りで千木は外そぎに鰹木は三本。(大国主命の説も有り)
(御社殿の真裏に若い楠が一本、すっくと自生してまして、個人的に神籬、御神木ではと思って居ます。)

そんなこんなで、自分が御社頭で祝詞を奏上する際には御祭神名をお唱えするのを控えるようになりました。

境内社に伊弉諾神社(地元でも余り知りません)。弁天社(市杵嶋姫命)。愛宕神社。(斜め後背の山地を愛宕山と言い愛宕神社が有ります。その遙拝里宮。かつ山上の愛宕神社が伊弉諾神宮の方向。また、京都の愛宕神社の裏鬼門)
久留麻神社は伊弉諾神宮の夏至の日の出方向で淡路島の端。
舟木石上神社の冬至の日の出方向。(久留麻神社の夏至の日の入りが石上神社)
さらに夏至の日の出方向を見れば、廣田神社(南宮/西宮神社)、伊耶那岐神社二座(吹田市)~多賀大社、諏訪大社ほか御鎮座。
夏至の入り日は出雲の熊野大社の方角。

因みに二キロ「真北」の松帆神社「旗山八幡宮」(旧東浦町の大部分と旧北淡町小田等の総氏神)の参道入り口付近もショートカット。
実は三輪山の真西は旗山八幡宮=松帆神社にドンピシャリと当たります。この後背に石上神社。

我が八幡大神様は湊川の合戦で自尽した楠木正成公が常にそば近くに置いた守護神仏。自念仏でした(その先の出自は不明)。
最早、是非もなしと成り自尽の砌、家臣の吉川弥六に八幡大菩薩と後醍醐天皇下賜の摂刀(征討将軍の証)菊一文字(重文)を託したと言われます。
御一党が最後の念仏三昧を捧げ終えて(夜中に念仏が陣中より聞こえたと言われます/湊川神社説明文)
吉川弥六の一団は夜陰に乗じて死地を脱出、淡路島へ落ち延びて隠棲し八幡大菩薩を小祠に祀る。その一帯を楠木村(現在の楠本地区)と号す
世情が鎮静化してから現在地へ遷座し広く地元の氏神として創建。
ここからは楠木正成公の古里、千早赤阪村の有る金剛山系~信貴山、生駒山や戦没地の湊川などが一望出来たと思われます。
鬼門方向は湊川や京都。
往古の参道は真っ直ぐ海浜まで有りました。
本殿の脇の末社に松尾神社(大山咋神/秦氏有縁の氏神)が有るのが、訳ありかも

長文、乱文失礼しました。
2010.08.25 12:52

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