日本七弁天のひとつとされる竹島弁天へと向かったのは、豊川稲荷に詣でた翌日の3月20日だった。こちらも豊川稲荷以上のサプライズとして、見えない力で引き寄せられた感がある。
前日の宿に入るちょっと前、走らせている車の窓からお城のような屋根をしたホテル(蒲郡プリンスホテル)を目にした妻が、いきなり声をあげた。子供の頃の家族旅行で、このホテルに泊まった記憶が蘇ってきたのだという。小学校にも上がらない頃かもしれないので、過去が空白の(?)妻にしては珍しいリアクションだ。
近くに橋を渡っていく島があり、薄気味の悪い鳥居をくぐって鬱蒼とした森の中に入っていくと、神社のようなものがあった。スピリチュアルなことなど何も意識しない子供だったが、ともかく暗くてモノ恐ろしい印象が焼きついていている。近くに来た以上、もう一度その場所を確かめてみたいという。それは遠慮しつつも、かなり強い御要望だった。
今の時代は神社もかなり整備され、街の灯りも増えて、迫力モノの怖いところは減ったけれど、我々の世代の子供時代には、まだまだ暗くて怖い神社がそこかしこにあったように思う。いや、そもそも神社というのは、日が暮れると怖い場所だっだ。目に見えない何者かが居るという空気が濃厚で、それが必ずしも神々しい存在ばかりでなく、怨霊や魑魅魍魎のような「物の怪(もののけ)」の類も棲息を許されている空間のような気がしていた。かと言って、その怖さが嫌いなわけでもなく、水木しげる的な一種の「負のメルヘン」とでも言うのか、あるいは私特有の怨霊への愛惜・愛着の念だったのか、よくわからないのだが。
まして弁天ともなると、実は虐げられた先住民系や反体制側の、レジスタンスの信仰対象だった。七福神の一人として毒抜きされてポピュラーになるのは、室町時代以降のこと。(財宝の福神として「弁財天」の名が当てられるのも、七福神信仰が定着してから後のことのようだ) それまでは呪詛と調伏の本尊として、秘教中の秘教の女神だった。
この女神への信仰は、山伏、忍者、海賊、旅芸人、琵琶法師、など、主に非農耕民の異能の民によって伝えられてきた。彼らの先祖はもとは農耕生活を営んでいた者もあろうが、弥生以降の征服者の支配から逃れるため、土地を捨て非農耕化せざるをえなかった者達もいたに違いない。その後の歴史の大きな転換点では、彼らが裏で重要な働きをしてきたのであり、したがって日本を農耕民の単一文化とする歴史観は、上澄みの気休めにすぎない。
そうした先住系の非農耕民を束ねてネットワーク化しようとしたのが、役の行者(役小角)だった。縄文以来の古神道への迫害をカムフラージュするため、新興勢力の仏教と習合し、朝廷の律令神道に対抗したのである。
この基本姿勢は弘法大師:空海とて同じで、空海は列島古来の土地神にも敬意を表していた。そうでなければ、分厚い反体制の古代霊場である吉野・熊野と峰続きの高野山に、拠点を築くことなどできなかっただろう。おそらくは嵯峨天皇との二人三脚で、太古神復活のヴィジョンを描いていたのだろうが、未だ時節到らずと断念し、高野山に戦略的撤退をした。
隠れ蓑としての神仏習合だった役小角に比べると、空海のほうが各派閥間の調整を試みる折衷志向が強かったため、政治的ステイタスの華やかさとは裏腹に、板挟みの苦悩は深かったようだ。(これはいろんな霊能者や私自身の考えを総合しての判断)
さて、弁天だが、『記紀』神話ではスサノヲとアマテラスによる天安川での誓約(ウケヒ)の時、十握の剣から生まれた宗像三女神とされている。
⇒神話 みずほのくにのかみのものがたり(4) http://www.d3.dion.ne.jp/~eriko_k/sinwa/sinwa04.htm⇒宗像三女神 http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/munakata.html『古事記』 ⇒ 多紀理毘売(タキリヒメ) ・市寸島比売(イチキシマヒメ) ・田寸津比売(タキツヒメ)
『日本書紀』 ⇒ 田心姫(タコリヒメ) ・市杵嶋姫(イチキシマヒメ) ・瑞津姫(タキツヒメ)
『書紀』別称 ⇒ 田霧姫(タキリヒメノ) ・奥津嶋姫(オキツシマヒメ)
異説 ⇒ ・狭依毘売命(サヨリヒメ) ・多岐津比売、滝津姫(タキツヒメ)
宗像神社の配置としては、タキツヒメが辺津宮であることは共通だが、タキリヒメとイチキシマヒメの位置が『古事記』と『日本書紀』では逆転している。
『古事記』 ⇒イチキシマヒメ:中津宮、タキリヒメ:沖津宮
『日本書紀』 ⇒タコリヒメ:中津宮、イチキシマヒメ:沖津宮
全国の弁天社では、この三女神のうちのイチキシマヒメを弁天として祀っているところが多い。
また、異説として、三女神のひとり、タキツヒメに「滝津姫」の字を当てるところから、この女神を滝と禊の女神:瀬織津姫だとする見方がある。奈良~平安朝以降の権威の象徴である伊勢皇大神宮のアマテラスよりも以前からの、消された縄文の※天津神:瀬織津姫と姉妹神であったとなると、この弁才天女も日本のプリミティブな原型に近い女神ということになる。
(※征服王朝以前の縄文系先住民の神を、すべて「国津神」とするステレオタイプに、私は異を唱えている。真の天津神は国津神以上に封印されてきたのだ。問題の核心は「天津神]VS「国津神」ではなく、「真の国祖神&真の天祖神」VS「イミテーションの天津神」である)
一方、インドの河川の女神、サラスヴァティが弁天の原型であり、宗像三女神は後から習合したものであるとする見方も根強い。
⇒蛇~弁天・弁才天・弁財天の蛇 http://www15.plala.or.jp/timebox/top/07sinsi/fukuda/hebi/hebi-1.html サラスバティと霊的な縁戚関係はあったかもしれないが、日本の弁天は弁天で独自のルーツがあるのだと私自身は思っている。それも『記紀』神話に出自を求めるのは無理なくらい、太古神の系譜であり、実は母神イザナミと非常に近親性があると直感している。
世界の矛盾を背負い、ひとり黄泉の国に堕とされたイザナミの、男神の“逃げ”と“責任転嫁”を憎む気持ちを剣の攻撃性で代弁しているので、これは生半可な男権社会にとっては相当デンジャラスな神には違いない。反体制側の怨念の受け皿としても、ぴったりの信仰対象だったのだ。
△左:宝厳寺(滋賀県長浜市・竹生島)の弁天像 △右:東京藝術大学蔵の弁才天立像
⇒弁才天 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%A4%A9%E5%A0%82より。
初期の弁天像は、八臂(八本腕)で剣や弓矢などの武器を持ったものだったが、ヒンズーのサラスバティは四本腕らしいので、腕の数が倍に増えている。日本の弁天のほうがより密教化していた、と言えるかもしれない。(腕の数で秘教の度合いを計るのもへんなものだが、人間離れした異形の姿のほうが、「取り扱い注意」的な危なさを感じさせる)
天河弁才天に伝わる曼荼羅の絵姿は、さらに奇怪なもので、三面蛇頭の妖怪みたいだ。
⇒弁天さまはなぜ脱いだ http://www.zoeji.com/06syoron/06-sanwa05/06sanwa-benten.html より。
この多頭蛇身のモンスターぶりは、イザナミの転身がヤマタノオロチになったという異説を想起させる。(霊体というものは本来、内実の心性に従って変身が自在なものだから、激しい怨念の発露としての姿という見方もできないだろうか)
鎌倉時代に琵琶を弾く優美な姿として慕われるようになったというが、これもイザナミ本来の美と愛の特性を受け継いでいる気がする。
△左:江の島の妙音弁財天
⇒江の島天王祭(錫杖)-日本裸祭全集(和田フォト) http://wadaphoto.jp/maturi/maturi078.htm より。
△右:淡路島弁才天
⇒淡路島弁才天 http://www.awaji-is.or.jp/t4sara7/home/bentenbmp.htm より。
優美な技芸神の面を持ち合わせているのは、白山妙理姫(菊理姫)もおそらく同じであり、その大本のルーツをたどると、前回に論じた豊受・豊雲野のヒツジサルの裏金神グループになる。
しかし、この地母神グループは剣を持たないエコロジーの食物神の働きで括れるが、弁天は剣を持ち非農耕的であるところが、山の民であるウシトラの金神グループに近い。あるいは、龍蛇神を従え剣を携える女神としては瀬織津姫とリンクするが、瀬織津姫は天降る水神であり、弁天は川や池や入り江など、一般には地上の水神である。
瀬織津姫や白山菊理姫がクールビューティで、反面さばさばとした“男気”のある女神とすると、イザナミや弁天は底なしの情の深さを持つ一方、女性特有の愛憎のエキセントリックなところのある女神、という二分法もできそうだ。
以上の私の勝手な印象を整理すると、次のようになる。
弁天 女性的でエキセントリック 非農耕的 剣を持つ 武・芸両道
イザナミ 女性的で情が深い 農耕的 剣を持たない 芸能神的
瀬織津姫 男性的で豪胆 非農耕的 剣を持つ 武神的
菊理姫 中性的でクール マルチ文化的 剣を持たない 芸能神的
豊受大神 両性的だが、核は芯の強い女性性
自然生態系に則った農耕・食物神
剣で表現しないが、肝っ玉は不屈
武・芸の具体的表現はとらない自然根源神
☆以下、「竹島弁天」紀行編として、次回へ続く。
[追記1]
もうひとつ興味深い異説を紹介すると、天孫ニニギとコノハナサクヤ姫の婚姻の時、ニニギにふられたコノハナの姉神:イワナガ姫が、なんとイチキシマヒメ、つまり弁天だというのがあります。
『日本書紀』の一説にはこうあります。
磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐き呪って泣き、「この世に生きている青人草(人民)は、木の花の如くしばらくで移ろって、衰えてしまうでしょう」と。 これは黄泉比良坂での夫婦神の決別の場面で、イザナミがイザナギに投げかけた言霊と、酷似した動機が感じられます。
イザナミの命が申すには、「いとしい我が夫の君が、こんなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を、一日に千人絞め殺しましょう」と申した。 実はコノハナとイワナガは同体であり、女性性の裏表二面を現しているという私の説は、以前、他の場所で紹介したことがあります。
ということは、イザナミから受け継いだ二面の分裂した姿が、コノハナとイワナガであり、その陰の部分、負の部分、呪詛の怨念の部分が、イワナガ姫を経て八臂の弁才天へと増幅されていった、とは言えないでしょうか。
鎌倉時代あたりからそれがだいぶ和らげられて、美貌と官能の芸能身&福財の女神へと転身していきます。
そもそも絶世の美女というイメージが強いイチキシマヒメ=弁天ですが、この女神が醜女故にニニギに棄てられ、泣き寝入りした日陰者のイワナガ姫、というのは解せない話です。これはひとえにニニギの好みの問題であり、ニニギにとっては性格ブスに見えた、という話にすぎない思います。自信や勇気のない男は、芯の強そうな女を嫌うのです。
ところが、イワナガにはそれが理解できません。外見容姿の問題だと思い込み、自己卑下し、コンプレックスを抱きます。(黄泉の国で醜くなったイザナミのトラウマを引き継いでしまっています) そのリベンジから「なにくそ!」と一念発起して、美貌と官能に磨きをかけていった末、この世ならざる弁天のセクシーさができあがった。(霊界に美容整形はないかもしれませんが、霊の姿と言うものは変化自在であり、あってないような諸行無常ですから、要するにどう見せるかという工夫は、霊力の演出ひとつでどうにでもできるのです)
初期の八臂の弁天像が、どちらかと言うとずんぐりむっくりで女力士みたいな体型容姿が多いのに比べ、後代のものほどすらりとたおやかな姿態で、白磁の肌をさらしていたりするのは、このためでしょう。
但し、弁天の美貌と官能はリベンジの動機がらみなので、往々にしてトゲがきついのです。本当の愛と安らぎに気づいた時、弁天の神威もスケールアップするでしょう。
[追記2]
鎌倉の東慶寺に、美しいことで有名な水月観音の像があります。
私はなぜかこれに「弁天」を感じてしまうんですよね。別名「縁切り観音」と言われるように、悪縁を断つ御利益があることで信仰されてきました。虐げられてきた女性の味方であるところも、なんとなく、……ね?
左
⇒[ス] 東慶寺の水月観音 http://www.lacrime.net/item_1869.html右
⇒松岡山 東慶寺~東慶寺の文化財~水月観音菩薩半跏像 http://www.tokeiji.com/pc/cultural_assets/suigetsu.html この観音を弁天と同じく女性と見る人も多いようですが、観音は衆生の求めに応じて男にも女にもなるし、中性にも両性にも超性にもなる、というのが基本だと思います。
でも、この観音に私は、凛とした男性性を感じてしまうのですよね。変性男子(男性の御魂を持った女性身)といったところでしょうか。もしかすると、浄化して解脱して、神格を上げた弁天の理想像がここにあるのかな、という気もして紹介しました。
弥勒菩薩、孔雀明王、興福寺の阿修羅像などと並んで、私の好きな仏像のひとつです。
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