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矢ヶ崎城(鬼場城)を偲ぶ

2008,,22
注:この記事は2013年4月時点で書いている回想日記です。すでに5年前のことですが、記録を残しておこうと思い立ち、記憶に基づいて綴ってみました。


 私の母方、調布の「矢ヶ崎」のルーツである諏訪地方に、かつて矢ヶ崎村があり(調布にも“旧”矢ヶ崎村はある)、その名を冠した矢ヶ崎城(鬼場城)があったこと、氏神がタケミナカタの母神の高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)を祀った御座石神社だったらしいことなど、ネットで見つけて訪ねてみたくなった。

 まず矢ヶ崎城だが、相当マイナーな史跡で、かなり見つけづらいところにある。ところがどうしたわけか、どなたかのサイトを見て、斜面に開発された城山という新興住宅地をそのまま上方へと登っていけばあるものだと早とちりしてしまった。「城山」という地名が、かつての矢ヶ崎城の麓のあたりだから、そう名づけられたと思ったからだ。

     Map城山周辺
     
 念のため、城山の住宅地の住人を2~3人呼び止めて尋ねてみたりもしたが、知っている人はいなかった。それでも斜面に構える住宅地の最上部、奥の空き地に車を停めて、雑木林の中へと分け入る。気軽にアドベンチャーしてしまったのは、ちょうどその直前、地元の子供達が何かの近道として常用していたらしく、ずんずんと入っていく姿を見たからだった。

          城山奥の雑木林1

 ところが、中に入ると電力関係や山の作業の人が通るような道があることはあるのだが、しばらく行くと大きな鉄柱が現れ、またしばらく行くと同じような鉄柱が現れ、似たような風景が延々と続き、ひとたび迷いこむと、もと来た道もわかりづらくなってくる。このような番号付きの札がところどころに立っていて、それだけが目印。

 IMG_1341鉄塔  IMG_1340番号札

 歩き飽きて嫌気がさしてきた頃に、雑木林のエリアを区切る柵があり、その向こうに城の石垣のようなものが見えてきた。喜んで近づいてみると、何の説明もない見晴台のようなものだった。

          柵 

    城壁?

          展望台?
 

 もちろん矢ヶ崎城ではなく、どうやら諏訪氏の本城だった上原城へと続く永明寺山公園の一部だったようだ。地図で見ると、丘陵地帯の東端である矢ヶ崎城址から城山地区後方の尾根続きで、西北方向に永明寺山公園を経て、諏訪氏の上原城址へと連なっている。

     Map茅野周辺広域

 おそらく、その当時、永明寺山公園はまだ建築中だったのだろう。ネットで見ると、今は立派な公園になっている。

∇永明寺山公園(Vol.Ⅰ)(Vol.Ⅱ)(Vol.Ⅲ)蓼科高原ニュース
http://www.alpico.co.jp/tokan-tateshina/news/2012/09/vol_1.html
http://www.alpico.co.jp/tokan-tateshina/news/2012/09/vol_3.html
http://www.alpico.co.jp/tokan-tateshina/news/2012/09/vol_2.html
 
 どうやら見当違いと悟って、もと来た雑木林の山道へもどる。行きには見かけなかった磐座のような巨石を見つけたので、違う道に迷いこんだらしい。

          巨石

 城山までストレートに戻ることができず、違う地点(西のほう)に降りてしまい、地元の子供に聞いて山の裾づたいの林道でバイパスし、やっとの思いで城山地区の下部へとたどり着いた。

 再び城山の住宅地の斜面を登っていく途中で見つけた、天満宮という神社。城山区公民館という建物の近くにある。何が珍しくて写真を撮ったかというと、鳥居のすぐ奥に諏訪大社のような御柱が立っているのだ。諏訪大明神と関係なくとも、このあたりでは御柱なのだろうか。

城山区公民館 天満宮の御柱 


 暑さでバテたこともあり、この後すぐに矢ヶ崎城を探す気力も湧かず、御座石神社に参拝して木陰で一休み。(御座石神社については、回を改めて後述)

 さんざん迷った末、見つけ出した矢ヶ崎城址は、この城山の住宅地の東隣りに位置するかなり狭いエリアの丘陵だった。つまり城山の奥ではなく横という感じ。城山からアクセスできると書いているブログもあるが、当時はわからなかった。

          Map御座石神社交差点2s(補正)

 県道192のビーナスラインと国道152がX字に交わる交差点を御座石神社交差点と言い、この交差点をわずか北北東に通り過ぎた県道沿いに、斜めに登っていく急勾配の階段がある。(↑Map参照) 緑の濃い季節は繁みに隠れてしまって、遠目に発見するのは難しい。今のところ、これが主郭跡への最短アクセス・ルートだが、階段の登り口に標識や案内版らしきものは何もなかった。

IMG_1367矢ヶ崎城址、登り口 矢ヶ崎城址への階段

 階段を登りつめて、雑木林の中にある小さな丘陵地帯に踏み込むんでいくと、中に「鬼場城(矢ヶ崎城)主郭跡」と書かれた人の背丈より低い角柱が立っている。
 記念写真の私の顔が、また何者かがのりうつったような別人のように見える。(霊地や因縁の濃そうな地で撮影すると、よくあること)

IMG_1370矢ヶ崎城、林道 IMG_1373鬼場城(矢ヶ崎城)本廓跡
 
 矢ヶ崎城の別名、というより、矢ヶ崎城が別名で、鬼場城のほうがもとの名だったのかもしれないが、私の中では「鬼」は縄文先住民のキーワードでもあり、矢ヶ崎が「鬼」の民族に通ずるという幻想は魅力的ではあった。あるいは、諏訪大社の上社から見て鬼門の護りに当たっていたとか?(「鬼門の護り」と言うのは霊的な結界として言うので、実際の軍事的拠点としてはあまり聞かない話だが)
 しかし、「鬼場(おにば)」は「贄場(にえば)」の単なるゴロ合わせからきた言い習わしらしい。

[鬼場]の語源はお贄場(にえば)が訛ったもので、諏訪明神にたてまつるお供え物を整えるところという。
鬼場城~城と古戦場~ http://utsu02.fc2web.com/shiro693.html より。

 私などが見ても、少しばかり荒くれたさほど整備されていない山という感じだが、城跡や古戦場のマニアに言わせるとたまらなくそそられるらしい。現代人の過剰な手が加わっていないからこそ、地形が保存されていて、往時を偲ばせるのかもしれない。
 優雅な天守閣がそびえる江戸時代の美術品的な城と言うより、急峻な自然の地形を利用した戦国のワイルドな城だったのだろう。堀切が何重にもめぐらせてあり、ここで敵の襲撃を迎え撃ったということか。

∇鬼場城/城郭図鑑
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/010nagano/060oniba/oniba.html
∇鬼場城 -平八郎軍鑑-
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/17_Nagano/oniba/index.html
∇鬼場城(茅野市) らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
http://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-253.html
 
 ここから上原城はあまりに離れているから、「城山」の地名もやはり矢ヶ崎城を意識してのものだったのだろう。実際、どこまでが矢ヶ崎城の範囲だったのか。現在残っている城山地区より東の部分だけだとすると、戦に使われた山城としてはあまりに狭い。城山地区とその後方の尾根も含んで、もうちょっと広い範囲だったと見るのが妥当ではないだろうか。
 それにしても新興住宅地に入居した住民は、そんなことは何も知らない。敗者の歴史と言うものは、そんなものなのだろうか。判官びいきの美談として後世に残る物語も、何かしらその時代を懐柔する側の都合のいいプロパガンダが含まれていたのかもしれない。


 ところで、私の母方先祖の矢ヶ崎は、すでに信玄の父親の信虎の代に武田を嫌い武士を捨て多摩に流れてきた、という文献があったと記憶している。(うろ覚えなので定かではないが) そうすると一方的に武田の侵略と暴虐のようにも思えてしまうが、実態はもうちょっと込み入った事情があったようだ。

 文明十五(1483)年正月八日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰め、のちに高遠へ追放した。これによって惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続した。諏訪頼満は永正十五(1518)年十二月、下社大祝の金刺昌春を攻めて萩倉要害(山吹城カ)を攻め落とし、金刺氏を追放したが、金刺昌春は隣国甲斐の武田信虎を頼った。
∇上原城の歴史 埋もれた古城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Uehara/Rekishi.htmより。

 若き武田晴信が諏訪に向けて軍を発したとき、諏訪頼重は武田軍の侵攻を注進されてもそれを信じようとせず、無為な時間を過ごしてしまいます。そうこうしているうちに一族の中で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う高遠城主・高遠頼継が武田に呼応して杖突峠に陣取り、そのまま峠を下って安国寺周辺に放火します。こうして武田・高遠連合軍の侵攻を確信したときにはすでに手遅れ、上原城では防ぎきれないと見て桑原城に立て籠るのですが、武田の和睦勧告に従ったのち、甲府に幽閉されて結局切腹を余儀なくされます。諏訪氏滅亡の背景には諏訪大社神官どうしの対立感情や頼重と神官たちの信頼関係が揺らいでいたこと、一族の高遠頼継の野望などがあり、晴信はこうした一族間の分裂を巧みに利用した結果でもあります。
∇諏訪と武田・ふたつの名族滅亡物語 上原城 
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Uehara/index.htmより。
 
 諏訪一族間の内紛とは別に、大祝(シャーマンとしての現人神)の諏訪家と神長官(審神としての祭祀長)の守矢家との間にも確執はあったようだ。

大祝は位は神長官より上だと威張っているが、実際は神長官にこき使われていると遺恨に思っていたであろう。酉の祭りなどには一ヶ月前から呼ばれて、神長官の精進屋に入れられ、死なない程度の食事を与えられ、出て来た時はひょろひょろして神様がとりつき易くなっていたようで、まして子供のこと (大祝は五、六歳から十五、六歳まででその後は隠居した)なので、どこかで仕返しをしてやろうという気持ちが強かったと思われる。祭りの中でも、神長官がミシャグジ神を大祝に降ろしたり上げたり、全く木偶のように扱われたのである。意趣はそれだけに止まらない。墓石の神長官に向いた方に不動尊を彫りつけ、睨み殺してやるという勢いである。神長官は塚を造って上に神様を置き、これを防いだということである。今でも大祝近縁の方が、白ミカゲの石碑を神長官に向けて建ててあるのを見ると、その思いが並々ならぬものであったことがわかる。もともと神社は呪詛を防ぐために建てられ始められたといわれるので、こうした行為も肯けるものがある。 いずれにせよ、これは神長官が下位にいるようであるが、事実上は上に立って祭祀を取りしきってきたことを示す有力な証拠である。・・・」と解説する人もいる。
∇信州・小さな旅---心に残る信濃路の旅、 信州1~2泊の小さな旅に出掛けてみませんか--- http://c-trail.jp/etc/suwamaem.htm より。

∇諏訪の古代史を訪ねて(6)神長官家と大祝家の確執 | (株)サンビックSTAFF BLOG
http://sanbic-ltd.co.jp/blog/?p=2657
∇Passage’84 秋(9)(10)守矢神長官家で(1)(2)-gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/messidor29/e/d5417849efc94dfee1fb60464b36cf5c
http://blog.goo.ne.jp/messidor29/e/d0a609f2b3661b45284b21ab63765e56
∇諏訪大社に関する考察 建御名方とは
http://www12.ocn.ne.jp/~libra/toho/tohoessay/kousatu01/kousatu01.html
(「出雲族のタケミナカタはいなかった説」「モレヤ=タケミナカタ説」 全部は賛同しないが、異説として興味深い。)

 また、古代からの自然精霊信仰であるミシャグジ神と、守矢家の祖神である洩矢神も、ストレートにイコールではなかったようだ。

∇ミシヤグチ神、御社宮司社、御射山社、社宮社の一覧
http://kamnavi.jp/jm/mishaguti.htm

 そこに大和から落ちのびてきた物部守屋の話も本当だとしたら、相当な雑居連合の共和制組織だったことになり、運営の難しさもうかがい知れる。
 それらを調べ解説すると長くなるので今回は省略するが、いつの世もどこの国も、民族や血族だけできれいに色分けされ、単細胞に敵味方で対立していたわけではない。決定的な滅びの時には、常に内紛や内乱で蠢き、自滅していく要素が絡んでいるわけだ。

 とは言え、天孫族の支配を嫌い出雲を脱出したタケミナカタ神の行動の原点を考えると、戦国以降においても、当地に残った諏訪一族よりも脱出した一族のほうが正当な“型”を引き継いでいるのではないか、と思えてしまう。
(当ブログの前稿「諏訪の神体山、守屋山に登る/付:守屋神社」 http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-254.html の ootonomikoさんのコメントによると、長野県史に「戦国記から徳川への大変動の中、諏訪一族は関東へ去った」とあり、諏訪の地からの脱出組は矢ヶ崎だけではなかったことがうかがえる。また、矢ヶ崎でも残ったグループはあったのだろう)
 いや、母方を越の国とする出雲族のタケミナカタは、実は諏訪の主祭神ではなく、むしろ客人神だったからこそ、子孫のDNAは諏訪の地に未練を持たなかったのかもしれない。

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奥山光
出雲氏は一気に9関東へ植民して奥多摩の氷川につい野老З宇沢 を通利北関東へ植民して広がりますそれぞれ古い氷川神社があります奥氷川イ中 氷川大宮氷川
2020.05.30 16:32

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

五右衛紋☆Rhapsody

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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