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神田神社(神田明神) ~ 将門巡礼、都区内編④ ~

2008,,17
          江戸地図
          ↑埋め立てられる以前の江戸の地図↑   
http://www1.odn.ne.jp/hatomachi/04edo/edo_business/edo_business01.htmlより


 あまりにも怨霊づくしのお参りではシンドイから、最後はほっこりしたいよねえ、ということで、今回の将門巡礼のラストはお馴染みの神田明神
 この神社もオカルト系ネタ本などではおどろおどろしく紹介されがちだが、一般的な御利益信仰の神社として賑わっている観光名所的なスポットでもある。それもそのはず、かつては江戸108ヶ町の総氏神であり、江戸総鎮守ともされたメジャーな神社なのだった。

 昭和50年完成の総檜造りの随神門。
               随神門1

               随神門2

 朱塗りの華やかさが、大宮の氷川大社や祇園の八坂神社など、スサノオ系の大きな神社と共通する雰囲気がある。日枝神社や松尾大社もそうだが、朱塗りの社殿は秦氏などの渡来系氏族のもたらした信仰だという説もある。

 随身門をくぐるとまもなく、左側から石造りの大黒様が出迎える。こちらは昭和51年完成。
               大黒像

 石造りとしては日本一の大きさ(高さ6.6メートル)だそうだが、なんだか姿そのものも大雑把なつくりで、一時代前のハリウッド映画的なムードがする。
 この大黒様の正面手前に大きな茅の輪が設置されていて、誰が発案したのか、これを∞状(無限大印=横8の字)に三回くぐれば御利益があるようなことが書いてあった。

 そのちょっと奥に、波に囲まれた金色の恵比寿様と魚の像がある。
                    恵比寿 

 大黒があるから恵比寿も、ということだろうか。でも、この恵比寿像は小人として表現されているので、大黒と共に七福神の代表選手である恵比須よりも、出雲の大国主(オオクニヌシ)の助っ人神としての少彦名(スクナヒコナ)をイメージしているようだ。
 恵比寿と習合した日本の神は事代主(コトシロヌシ)や水蛭子(ヒルコ)との説もあり、この少彦名説は私も最近になって知った。業務上のパートナー神として見た場合、大国主&少彦名をそのまま大黒&恵比寿にスライドすることができて都合がいいのだろう。
 (そもそも七福神信仰は室町時代以降のもので、本格的に定着するのは江戸町人文化においてのこと。日本神話の神とのこじつけや辻褄合わせに苦労のあとがうかがえる。
⇒七福神の信仰の歴史


 こんな御守りも目を引いた。(情報安全守護) 情報化時代の生き残りには必須だろう。さすが勝負事の神様、目のつけどころが違う。
                    情報安全守護


 こちらが社殿。関東大震災で消失後、昭和9年に再建されたもの。 
社殿
 
 耐震耐火構造を目的として、当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本殿、幣殿、拝殿、神饌所、宝庫などが重なり合うように造られた新しい形式をもっている、……ということは私もつい最近知った。

 社殿の正面両脇に、誇らしげに胸を反らしている狛犬。なんとなく、諏訪の上社本宮の青銅の狛犬に似ている。
狛犬:左 狛犬:右
 
 意外と知られてないが、明治以降、神田明神の正式名称は神田神社となっている。
 現在の祭神は、一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト)二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト)三ノ宮に平将門命。
 社伝によると、一宮の大己貴命は将門が祭られる以前からの祭神で、この神社の原型が出雲氏族の子孫による建立(730年)であったことが伝わっている。

 もとの社名が安房神社であったとする説も伝わっていて、これが安房国一ノ宮からの流れであるとすると、朝廷に仕えた中臣⇒忌部氏の系統と考えられるが、安房国より「流れ三つ巴」の紋を持つ漁民集団が移動してきた、という記録もあるので、「三つ巴紋」系の海人族というと八幡信仰も考えられる。
⇒new平将門怨念ツアー 将門考記 飛んだ首の謎 そして神へ
 この八幡神はポピュラーであるにもかかわらず非常に謎が多い神であり、後に武家代表としての源氏の守り神=八幡大菩薩となったが、もとは平氏のほうに近しく、さらに大和朝廷以前の古代ではむしろ出雲系と親しかったという異説もある。(この説を採るなら、通説による宇佐の八幡三神=応神天皇、神功皇后、比売神は、かなり後の時代に合祀されたものということになってしまう)

 二ノ宮の少彦名命については前にも触れたが、明治なって将門が朝敵として祭神から外された時、代理のようにして大洗磯崎神社から勧請されたもの。
 将門神霊については、没後360余年の1309年から相殿に祀られ、明治7年(1874年)に境内摂社に移され、昭和59年(1984年)に三ノ宮として復活している。

 但し、異説もある。
 
 神田明神の祭神について織田は「平将門を主神とし洲崎天王社を以て第二の祭神とする。大国主神(おおくにぬしのみこと)を一の宮とし将門を二の宮とするのは宝永以降享保のころ(18世紀前半)の作りごとで、これは将門が朝敵だとの物議を避けるためのねつ造である」との立場から論旨を展開している。なお織田は、将門公に謀反の意志はなく朝敵うんぬんは全くの冤罪との説を採っている。

 すなわち平将門公の霊が主神であり、洲崎天王社が摂社であることは明らか、と織田は言う。続いて明治維新以後に書かれた神田神社鎮座歴史の部の一文を引用。「八雲神社は本殿の西にあり古来神田天王と称して当所の地主神社と言い伝える。この地は安房国安房郡安房大神(天太玉命)の后神アメノヒリノメノミコト(天比理乃メ=口ヘンに羊=命)を祀っている。」というものである。
 続く一節は首塚の地の古代をうかがわせるうえで非常に興味深い。その要旨は洲崎宮(安房神社)の祝部の祖である忌部栄麿という人物が武蔵国に来て洲崎の岡にアメノヒリノメノミコトを祀ったとの伝承があるが、それがこの地である。神田の台が江戸の海に張り出し船着きの洲崎となっていたので「豊島の洲崎」といった。その洲崎明神がこの八雲神社である。しかし乱世の中で古伝は失われ遂に牛頭天王社と誤り伝えられるようになった。
 現在、洲崎という地名は固有名詞だが、ここで言うように洲崎は本来普通名詞、すなわち海に陸地が張り出した部分という意味だったと思われる。そして首塚の地が海辺であったことは既に見た通りである。

⇒将門首塚を考える・Part2

 整理すると、次のようになる。

730年~、  祭神:天比理乃命?大己貴命(大国主命)?     
      社名:洲崎天王社?安房神社?(八幡系?)
1309年~、 祭神:平将門公、天比理乃命。
      社名:神田明神?
18世紀前半、祭神:大国主命、平将門  
      社名:神田明神
1874年~、 祭神:大己貴命、少彦名命。      
      社名(正式名称):神田神社
1984年~、 祭神:大己貴命、少彦名命、平将門命。 
      社名(正式名称):神田神社

 境内向かって左奥に神田明神資料館があると案内があるので行ってみたが、土日祝のAM10~PM4以外は閉館とあった。
 ここでまた猫と出会った。知らん顔で通り過ぎ、静止していてくれないので、写真のピントが合いづらく、妖しい絵画のような写真になってしまった。
               猫1

               猫2
 
 私の持論では、「猫」はその霊場における祭祀の正当継承者の象徴である。上の写真ではその猫が、鉄柵の向こう側に回って、檻に監禁されているように見える。ここは霊的封印ポイントなのかもしれない。神田神社は思ったよりも、未だ報われていない霊場なのかもしれない。

 すると、そのそばに三兄弟のように仲良く軒を並べる末社(摂社?)が目をひいた。
三天王社

 説明書きを見ると、江戸の三天王とされ、祭神はすべて建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)。社殿を持つ神社神道としては、この地の最古の地主神であったものらしい。三天王の「天王」は、祇園の牛頭天王社(八坂神社)由来であるらしいことも、ホームページで知った。(但し、先に引用した織田完之の調査によると、これは洲崎天王社の誤った発展系)
⇒http://www.kandamyoujin.or.jp/precinct.html
大伝馬町八雲神社:説明版
大伝馬町八雲神社:説明版
小舟町八雲神社:説明版

 スサノオと将門もどこか共通項があって、「天津甕星ルーツ説」を考える以前は、将門をスサノオの末裔だと思っていた時期もある。それもまんざら間違っていないかもしれない。高天原を追放されて出雲を開拓するスサノオ神話は、京に逆らって東国に新天地を築こうとする将門と、かなりダブるものがあるから。
 出雲から東国へとスサノオ信仰が流れてきた基盤の上に、親出雲系の八幡信仰や将門信仰が重なったと考えると、なにがしかの因縁(歴史の必然)を感じてしまう。


 家系の因縁ということでは、将門を出した東国における桓武平氏(桓武天皇の子孫で平姓を給わって臣下にくだった氏族)の系図は、私にとって非常に興味深いものだった。鎌倉北条氏がここから出ているし、後の小田原北条氏の初代、北条早雲も、伊勢平氏の流れだとするとこの末裔である。また、剣豪、塚原卜伝に鹿島神流を伝えた鹿島氏の家系も、桓武平氏の系図に入っている。
 これらは将門と直通の血脈ではない別の枝分かれからの展開であり、どこまで信憑性があるのかもわからないが、私の中では妙にそそられるものがある。

 将門の時代からは下るが、江戸氏の動きも面白い。
 武蔵江戸氏と常陸江戸氏の系譜があるが、武蔵江戸氏のほうが桓武平氏の流れをくむ秩父氏の出である。この江戸氏がまだ入り江の未開地だった江戸の地に勢力を張り、最初に城を築いた豪族である。その後、太田道灌が江戸城として完成させ、後北条氏の支配を経て、徳川家康が増改築して活用した。家康はさらに入り江を埋め立てる一大工事に着手し、町人、職人の住む城下町として完成させたのである。(この埋立地が、現在も下町と呼ばれる地域である)
 巡り巡って、江戸氏が建てた江戸城の鬼門を守る神、及び江戸の総鎮守として、将門霊が招魂されたのも、奇しき因縁と言えないだろうか。江戸⇒東京の首都文明は、まさしくこの江戸城や首塚や神田のあたりをコンパスの中心軸として、今日まで発展を遂げてきたのだ。そして、今は皇居までもが、城址を包むようにして背後に構えている。
(一極集中化して爛熟した現在の東京が、将門の理想としたものと言えるかどうかは、怪しいけどね)

 一方、常陸江戸氏は将門を討った藤原秀郷の末裔である。常陸国において佐竹と敵対していた那珂氏の一族でもあり、戸村城をめぐる因縁が目まぐるしい。(「戸村」は私の父方の姓) 当初は那珂戸村氏の居城であった戸村城だが、この戸村(前戸村=那珂戸村)を滅ぼした佐竹が、自ら戸村(後戸村=佐竹戸村)を名乗って占領して後、戸村城は常陸江戸氏に対する佐竹の防衛拠点となる。

 この佐竹氏というのが、要所要所でけっこうえげつないことをする一族で、武勇にも優れたのだろうが、サバイバルのためならなんでもするようなところがある。

 鹿島・行方の大掾氏一族は「南方三十三館」と称されて、南北朝の争乱期より佐竹氏と行動をともにしてきた、いわば協力者たちであった。そして、常陸において佐竹氏の威勢があがるにつれて、佐竹氏に従属する傾向にあった。しかし、かれらが居住する常南は佐竹氏領の中心から遠く離れた地であり自立性も強かったため、佐竹氏としてはこれを除かないと常陸統一は成らないと考えたようだ。そして天正十九年二月、佐竹義宣は鹿島城主清秀をはじめとして、烟田・玉造・行方・手賀・島崎らの各氏を太田鶴来城の梅見に誘い、一気に謀殺してしまった。
⇒武家家伝_鹿島氏

 佐竹氏は豊臣秀吉の小田原攻めに加わって後北条氏を滅ぼしたため、そこまでは上々の出来だったようだが、関が原の合戦においてけちがつく。

 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦に際して義宣は家康派と三成派の間にあってどちらにも加担しなかった。しかし、実際は家康に敵対する意志のないことを表明しながら、裏では三成派やそれと結ぶ会津の上杉景勝ひそかに密約を交していた。これが、のちに佐竹氏が常陸から出羽へ転封となる原因となったのである。慶長七年(1602)春、義宣は家康と大阪城の豊臣秀頼に謁するため水戸を出立し、上洛の途についた。
 謁見の結果は上々と思われ、義宣はその旨を国元へ書き送っている。ところが五月八日、家康から義宣に対し、領国を没収し出羽の内で替地を与える旨の転封令が伝達された。すでに諸大名に対する転封は一段落したと思われる時期に、突如として出された命令であった。

⇒武家家伝_佐竹氏

 その時、信長が君主だったら、間違いなく皆殺しだったろうが、家康の温情により佐竹氏は二十万五千八百石の近世大名として存続することとなる。
 常陸江戸氏の生き残りは徳川家康に仕え、姓を江戸氏から水戸氏に改め後世に至ったという。

 なぜこんな引用をしたかというと、以前にも書いた通り、佐竹氏は私の父方の先祖である可能性が高いのだ。親出雲系と思われる東国の桓武平氏をことごとく討ってきた佐竹の家系ということは、母方(出雲⇒諏訪系)とはとことん敵対関係なのだなあと、納得するやら呆れるやら……。

 将門と近しい縁故関係にあった千葉氏も面白い。小田原北条氏に加担したため、佐竹氏とは逆に没落の憂き目に遭うが、この末裔からは北辰一刀流の千葉周作がでている。
 
 しかし、千葉氏が興味深いのは、将門と同じ九曜紋を家紋として、妙見信仰(北斗信仰)を伝えていたことである。
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   九曜紋   月星の九曜紋   繋ぎ馬の紋

  左:将門の家系である相馬氏や千葉氏一般が使用する九曜紋。
       中:千葉氏本家の月星の九曜紋。
            右:将門自身は「繋ぎ馬」の紋を使用していたことも有名。
⇒千葉氏の家紋

 千葉氏には九曜紋の変形(原型?)として十曜紋もあるが、実は大本の出口王仁三郎も、「十曜の神旗」なるものを掲げていた。
     十曜の神旗

 九曜や十曜の中央は、北極星とする説(将門にまつわる伝説)や、月であるとする説(千葉氏伝承)、太陽とする説など様々だが、王仁三郎はまた独特の神学的解釈を加えていたようだ。 
⇒十曜の神旗

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 将門はこの妙見大菩薩の加護を得て破竹の進撃を続けるが、後に慢心して見放されたようなことが『源平闘争録』にある。
 捨てる神あれば拾う神ありで、その後、八幡信仰に乗り換えたような解釈もあるが、もともと幼い頃から八幡神の夢告を得たり、八幡神の託宣で「新皇」を名乗るようになった経緯が伝わっているのだから、こちらのほうが一貫性がある。妙見大菩薩は一時期の助っ人神のようなものか、あるいは、妙見信仰の氏族との確執があって、共闘の後に離反したことの暗示かもしれない。

 物語の中で妙見大菩薩が十一面観音の垂迹と語っているところも惹かれるが、この妙見信仰とからんで、母方の出身が製鉄の部族であったという見方もあり、こうなるとかなり古い物部系の血が入っていた可能性もある。

 将門は「妙見菩薩」が去った後八幡信仰となっていく。八幡信仰も同様に北斗を意味し後に源氏の主神となる。「八幡」とは「北極星+北斗七星」を意味し鍛冶神の一つとされている。後の八幡信仰であった源頼朝は日光東照宮において神格化され、円仁が連れて来たという道教系の神「摩多羅神」と同一化する傾向にあるという。「摩多羅神」は「死人の臓物を食い成仏さる」という妖怪と神の中間のような神で「踏鞴」の語源ともいわれるほど鍛冶神(鉱物神)である。
⇒new平将門怨念ツアー 将門考記 飛んだ首の謎 十九首の謎2

 将門の出身母族が山師としての県犬飼氏であるということは、その武力と財力の背景として、結城郡八千代町尾崎の製鉄遺跡の発掘によって裏付けられました。それが直接将門のものであるという証拠はないにせよ、鬼怒川の砂鉄を利用した製鉄所が将門の勢力地盤のなかにあったのです。
⇒丹伝説


 成田不動尊との仇敵関係など、まだまだ話は尽きないが、今回はこのへんにしておこう。
 

 最期に神田明神でひいた御神籤の和歌を載せておく。

 第一番 大吉

 月ごとに眺むる月ぞくまもなき 
        光を四方の海にうつして
 
 岩に砕けて清く流れる水。その水面に映る月の光。
 誠に平穏静寂。心の奥底までしみ渡るような清らかさ。
 然し乍ら治にいて乱を忘れずの教えの如く自省する事も肝要。


 私のことを言っているようにも思えなかったので、これは将門公の現在の心境ではないだろうか。激流のような生を送り、殺生の罪も重ねたが(将門の時代の部族戦争は皆殺しが基本だったようだ)、今は生来の真っ直ぐに澄みわたるスピリットをとりもどしている。何者かがそのように通信してきたような気がした。

 第一番の御神籤をひくのも鹿島神宮以来の二度目だが、そういえば、首塚の住所が大手町1-1-1だったよなあ……。

 参道入り口の有名な甘酒屋で、あったまって帰ったのだった。


 ひとまず、「将門巡礼☆都区内編」シリーズ、終わります。

本文では冗長になるので省略しましたが、将門と千葉氏と妙見信仰と九曜紋に関する『源平闘争録』の記述が、神話的ロマンがあって面白いので、ここに転載しておきます。
http://dhistory.hp.infoseek.co.jp/tai_2_10.htmより

 なお、千葉氏自身の調査によると、九曜紋より十曜紋のほうが由緒ある原型らしいので、王仁三郎の「十曜の神旗」がますますミステリアスに思えてきます。
⇒http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_o.html

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「源平闘争録」<巻第五 三、妙見大菩薩本地事>
前略妙見菩薩が現れて千葉成胤が初めての出陣となり、源頼朝の緒戦を助けた事に対して源頼朝が尋ねた。
「この度千葉小太郎成胤殿の初戦に真っ先に駆けつけてくださり有り難し、この功労に賞を贈る。頼朝もし日本を制覇する事になれば千葉の北南を、妙見大菩薩に寄進する。そもそも妙見大菩薩をどうして千葉殿は崇拝するようになったのか、御本体はどんな仏菩薩なのか?」
 千葉介・千葉成胤の祖父・千葉常胤が畏まって申し上げるには、
「この妙見大菩薩というのは、第61代朱雀天皇の頃、承平5年八月上旬に、相馬小二郎将門と上総介・良兼とが仲違いをしており、常陸の国で合戦を企てましたが、良兼は多勢、将門は無勢でありました。常陸から蚕飼河の辺に迫りつきました。

 将門は川を渡ろうとしましたが橋もなければ船もなく思い悩んでおりますと、そこに何処からともなく小さな童子が現れました。『瀬を渡りなさい』と告げました。将門はこれを聞いて、蚕飼河を渡り豊田郡へ討ち入り、河を隔てて闘ううちに、矢が尽きて来ました。この時も童子が落ちていた矢を拾い集め将門に与え、これで闘いました。また、将門が疲れている時、将門の弓を取って10本の矢で敵に向けて放つと、1つの打ち損じもなかったといいいます。これを見た良兼『ただ事ではないぞ。天の計らいによるものだ』と思いながら退散しました。
 将門は勝利を得て、童子の前に跪(ひざまず)き、袖を合わせて申し上げました『あなた様は、どのような方ですか』と問うと、この童子答えました。『吾は妙見大菩薩なり。昔より今に至るまで、正直な若者を助ける誓願を持っており、武剛なるが故、守護したのである。汝は実直で武剛なるが故に、吾汝を守らんが為に降臨する所なり。自らは、上野国花園という寺にある。汝もし志し有れば速やかに吾を迎え取るべし。吾は十一面観音の垂迹(すいじゃく)であり、五星中の北辰三天子の後身である。汝は東北の隅に向かい名号を唱えよ。以降将門の笠印には<千九曜の旗>を指すべし。』といいながら、何処ともなく消えていきました。
 将門は使者を花園へ遣わし、手厚く迎え崇敬しました。将門の御利益のせいか5ヶ年の間に東国八ヶ国を制覇、下総の国は相馬の都に京を立て将門新皇と呼ばれておりました。しかし後に政務を怠り、神をも恐れず朝敵となり、神仏の田畑を奪い取ろうとする為に、妙見大菩薩は将門の家を出て、村岡五郎良文のもとへ渡って行った。
http://dhistory.hp.infoseek.co.jp/tai_2_10.htmより


↑上記に見る将門を守護した妙見大菩薩の物語ですが、
私はこれを、妙見信仰を持つ被差別少数民の呪術集団が、将門に加勢し、後に離反したことの暗示ではないかと考えます。

 大陸ルーツの星神信仰は、日本では時代をくだるほどマイナーなものとなっていきます。これに出雲系など歴史的敗残者のリベンジ・グループが合流して、裏ネットワークを形成していく。彼らはもともと高度な術を持っていた上に、敗戦から学びとった冷酷非情さを身につけていたので、主君を探して自由契約のようにして仕事を請け負い、傭兵+情報工作員+裏の祈祷師のようなことをやっていた。
すなわち後の忍者集団のようなものの素朴な原型が、この時代にすでに完成していたと思うのです。

 多勢に無勢をものともせず、驚くほどの短期間に領土拡大したような武将は、例外なく彼ら忍者集団のゲリラ戦法や情報心理戦やオカルト殺法の力を借りていた、と断言していいでしょう。戦後武将の初代と言われる北条早雲の風魔一族など、その代表ですし、織田信長の桶狭間も、実は単なる先制攻撃としての奇襲ではなく、奇想天外な掟破りの忍者的発想が伝授されていた、という説があります。(信長の最愛の側室だった吉乃の生家、生駒屋敷が、忍者のコミュニケーション・センターだったと私は睨んでいる)
⇒http://www.tv-tokyo.co.jp/sengoku/
⇒http://www.yumemaboroshi.com/goten/onna/oda/kituno.htm
 おそらく信長は彼らの驚異的能力と、主君への忠誠心を持たないビジネスライクな発想に、誰よりも脅威を感じていたからこそ、後に忍者撲滅の暴挙?に出たのだ、というのが私の解釈。

 将門もまた、忍者集団との共闘と離反の、裏の確執があったのではないかと思うのです。それが、将門の命運が尽きるのを早めたのだと。
 『源平闘争録』はアンチ将門側の言い分で締めくくっているので、どちらにどう否があったのかは、なんともわかりませんが。……たぶんどっちもどっちという気がします。


 ▽以下、家康が江戸に幕府を置いた理由の「憶測メモ」を、掲載しておきます。

 江戸に幕府を置く経緯については、こないだNHK『その時、歴史が動いた』でもやってたね。
最初に居城としたのは、家康の意思ではなく秀吉の言いつけだった。当時、まだまだローカルだった 江戸に左遷?することで、油断ならない家康の力をそごうとしたんだろうね。
それを持ち前の強靭な忍耐力と克己心で受けて立ち、秀吉にリベンジを果たすのみならず、江戸を大都市にまで築き上げてしまったところが家康の凄さ。
耐え忍ぶ前半生の後に天下を取るサクセスストーリーは、出雲神話の(初代)大国主に似てるとも言える。スサノオ⇒将門:大国主⇒家康という霊系のスライドかな。と言うことは、少名彦は天海? 国譲りの時の(最後の)大国主は徳川慶喜?
(「大国主」は個神名ではなく、代々の出雲帝国の統領の称号、という考え方)

 でも、天下取りの後、江戸に幕府を置くのは、また別の選択肢だから、そこは何かしらの因縁の必然性があったのでしょう。天海の入れ知恵も含めて……。

 日光(東照宮)については江戸の鬼門の護りという説がスタンダードだけど、神田明神自体が江戸“城”の鬼門守護とされたんだよね。ということは、将門霊の延長上に物部系・アラハバキ系の古代東北神を見ていて、朝廷に対抗する力として味方につけようとしていたのではないかな。京の朝廷の「鬼に対する防波堤」という考え方よりも、むしろ「鬼神を味方につけよう」としていたような……。

 家康の出身地の三河は、位置的に大和や京に近いわりには、最後まで頑強に信仰のレジスタンスを貫いていた地域で、瀬織津姫の隠れ祭祀が根強かったらしい。(ネイティブの女性最高神は天照大神ではなく、水神の瀬織津姫だということ)
 海の男の荒くれ気質も坂東と通ずる。ただ、計算高く上手くやるところが違う?
その上、家康は今で言うところの、被差別部落の少数民の血筋だったという説もある。出雲帝国の没落後、出雲神道の秘術を携えた神職達が、そうした被差別階級の民と合流して、忍者文化を形成していったという説もあるくらいで、家康に出雲の血が入っていたという可能性も否定はできない。

 今でも自分らを関西よりも関東に分類したがる名古屋人は、意外と多いよね。東京人からすると、大阪人以上に濃い三河人気質に、それほどシンパシーは感じにくいんだけど(茨城にシンパシーを感じにくいのと似てる?)、それは古代に遡った先住民系の繋がりからではなく、希釈された現代文明の感覚だからかもかもしれないね。


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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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