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首塚 ~ 将門巡礼、都区内編③ ~

2008,,17
                      ▽首塚、付近の地図
               地図

                      ▽都に曝された将門の首(『平将門退治図会』)
                      平将門退治図会

 いよいよ首塚へ。
地下鉄千代田線大手町駅の5番出口が最短なのだが、我々は九段下から東西線で向かったため、方向感覚がいまひとつわからない。またまたビルの周りを反対方向にぐるりと回ってしまった。築土神社の時もそうだったが、どうも無意識に時計反対回りに歩いてしまう癖があるようだ。それともこの左回りに何かおまじない的な意味があって、神様にやらされているのだろうか。

 三井物産ビルの角を曲がると、ビルの隙間に場違いのように茂った樹木の緑に囲われて、それらしき存在が視界に迫ってくる。待ちかねていたかのように上空で突風が吹き荒れ、樹木のてっぺんのほうの梢が千切れんばかりにざわめき揺れ、ビルの横壁に叩きつけられた。
 築土神社もそうだが、林立する高層ビルで横から空間が圧縮されるぶん、風水エネルギーが縦方向の高みに噴き抜けるようなラインを感じさせる。
          首塚1

 頭の中でそれなりのイメージは出来上がっていた将門塚だが、それとはかなり違う印象の情景だった。そのての興味本意なオカルト本などに見る首塚の写真は、薄暗いモノトーン調のものが多く、わざとおどろおどろしい雰囲気をかもし出しているかのようだが、実際、緑の木陰になっている部分があるとは言うものの、むしろ殺風景な都会のコンクリート・ジャングルにあって、一陣の涼風を呼ぶような透明感さえ感じる。
 いや、7~8割の透明感に、2~3割の妖気だろうか。長い年月を経て将門の怨念がここまで浄化されたのか、それとも、祟り伝説に尾ひれがつき、人々の怖いもの見たさの邪念の集積が、別の妖気を呼び込んでしまったのか。

 しばし瞑目して、これからも関東の鎮護を何卒よろしくお願いします、と祈る。            
首塚2

 ところで、将門の首塚は昭文社地図の大手町周辺図(拡大図)にも、意味不明のスペースがあるだけで、文字としては明記されていない。いまだに皇国史観の圧力を恐れて、隠しておかなければならない不文律でもあるというのだろうか。
 が、現地まで行くと東京都教育委員会、千代田区将門塚保存会、三井物産社員有志寄贈などによる、何枚もの気合いの入った説明版が設置してある。特に三井物産のものは英語、韓国語などに翻訳されたインターナショナルなものだ。(写真の写りが悪いが、中段のものはアラビア語だろうか?) 実際、我々が行った時は、先客として年配の西洋人夫婦が見学に来ていた。

          説明版1

説明版2

説明版3
 
 このマイナーとメジャーの間をくるくると転調して揺らぐポジションこそが、将門の特異な存在感だったのかもしれない。(なんだか親近感を感じてしまう。私は子供の頃から、誉めそやされるかと思えばシカトされるという経験が多かったような気がする)

 石塔婆(石碑)に刻まれた「南無阿弥陀仏」は、日輪寺に現存する真教上人直筆の石版から復元したものだという。
⇒日輪寺と平将門
                    首塚3

 近隣住民の間には、碑の正面から写真を撮ってはいけない、という言い伝えまであるそうだが、知らずに撮ってしまった。(でも、私の写真は暗い感じがしないでしょ? 撮る側の波動との同調ってものもあるんだよね)
 確かに、石塔婆の向きも、大通りに面する形では立っていない。出雲大社の本殿内部と同じで、L字型に奥まっているのだ。祟りを恐れたり、強すぎるパワーを婉曲に伝える時の風水テクニックなのだろう。周囲のオフィスでも、できる限り首塚にお尻を向けない位置にデスクを置くという、ウソのようなホントの話がある。
 
蛙、左 地蔵&蛙(右)
 碑の脇に蛙の列があるのには、ふたつの説がある。父親の復讐を果たそうとする将門の娘、滝夜叉姫が、筑波山のガマの毒気を浴びて妖術使いとなったからという説。「カエル=(無事)帰る」の語呂合わせから、海外赴任の多い大手町のビジネスマンが「将門の首のように戻ってこれますように」と願をかけて置いた、という説。
⇒【聖地巡礼】将門首塚(中)願い込め置くカエル (1-3ページ) - MSN産経ニュース
 飾りもの程度の縁起ものかと思ったら、本当の御利益話があった。昭和61年、三井物産マニラ支店長の若王子さんが、マニラ郊外でフィリピン共産党の新人民軍に誘拐された事件があったが、出発前にこの首塚にお参りして蛙をなでていったから無事に帰れたというのだ。(事件があって後、家族がカエルに願をかけたとか、会社の者がその時に初めてカエルを設置した、などの異説もある。生き証人がいるうちに、誰か正確なところを取材してほしいものだ)
⇒将門首塚を考える大手門と将門さん - 散歩道
⇒東京のクマ日記 【聖地巡礼】将門首塚(上)都心に今も生きる伝説

 将門の首が今もここに埋まっているのかというと、残念ながら違うようだ。関東大震災で塚が破損した時に発掘調査がされたが、塚の下から現れた石室の中は空っぽだったという。
⇒将門首塚検証
 盗掘によるものか、それとも初めから無かったのか。もしかしてキリストの復活・昇天や※仙道の屍解仙(しかいせん、しげせん)のように、死体を気化・霊化させてしまったのだろうか?!
…………………………………………………………………………………………………
※古代中国の「道教」のうち、民間信仰でも国家セレモニーでもない部分、究極の自己完成を目指すプロのハイテク・スピリチュアルな道を、「仙道」とか「神仙道」とか言う場合がある。
 一方、ハウツーのテクニカルな側面よりも、その本来の境地を思想的に表現したのが老荘思想だろう。この老子と荘子の思想のうち、比較的牧歌的で柔和な老子の思想が、近年の欧米で「タオイズム」の名のもとに紹介されているが、老子がイコール「道教」なのかというと、ちょっと違う気もする。

 道教の思想や行法は、高度にスピリチュアルなものから現世利益べったりで黒魔術的なものまで、非常に裾野が広いものだ。他者の生気を略奪してまで肉体の老化を防ぐというブラック・マジックな進化型もあるが、神仙道の道教における「不老長寿」の本来の姿は、肉体の永続と言うよりも、生身の肉体そのままに次元転換させて、肉体を気化・霊化させてしまう境地にこそある。即ち、空海の真言密教の「即身成仏」とルーツを同じくするものだ。
 これに対して、一旦は肉体が死ぬが、霊魂のパワーに引っぱられて、抜け殻の死体もほどなく気化・霊化し、物質界からは忽然と消えてなくなってしまうものを「屍解仙」と呼んでいる。生きているうちの即身成仏ではないので、神仙の中ではレベルの低いものとしているようだが、手順の問題だけで行き着く先は大差ないように私は思っている。

 これを個人のものではなく、地球丸ごとの発展段階としてとらえたのが、近頃よく耳にする「アセンション」という概念だろう。内的成熟の必然として地球環境全体が即身成仏することであり、低次の物質界としてはもはや地球が存続しえなくなることだ。物質界が無くなってしまう以上、物質界へのこだわりが強すぎる者は、低次の霊界に行くしかない。人間(や程度の低い神)はそれを勝手に「地獄」と名付けることもある。
 したがって、神に選ばれた者だけが地上界を離れて、位置限定の天上に召されるという、従来のキリスト教的な選別の概念とはあきらかに違うものだ。
………………………………………………………………………………………………

 首の行方については、考え出すとややこしい。そもそも築土神社側の伝承が正しいとするなら、あの神社の変遷の歴史の中に首の行方の秘密も隠されているはずだし、
⇒築土神社御由緒
首塚の伝説が正しいのならば、築土神社の存在そのものがフェイクということになってしまう。
 それに、将門の首塚を主張する神社は、実はまだあったのだ。岐阜の御首神社である。
⇒御首神社ホームページ
 ここまでくると真面目に論ずる気力を失うが、それでもなお、この大手町首塚の有無を言わさぬ存在感は、厳然としてそびえ立っている。


 このあたりで、頭の整理のため、首塚と神田明神にまつわる祟りの伝説を、時系列にそって並べてみよう。(他ホームページからの継ぎはぎ転載)

 伝説では都で獄門となった首が再び戦う事を誓い、体を求め白光を放ち東国へ飛び立っている。しかし首は力尽き芝崎村に落下し、大地は鳴動し太陽も光を失い暗夜のようになったという。村人はこれを恐れ、塚を築き埋葬した。
⇒平将門の乱と関連伝承(其の一)

 将門の死亡から360余年後の嘉永3年(1305)、時宗の真教上人(一遍上人2世)が将門塚を訪れた時、塚は荒れ果て、村には疫病が流行しており、これが将門の祟りだと村人は恐れていた。真教上人は将門に『蓮阿弥陀仏』という法号を追り、塚を修復して、供養したところ疫病が治まった。喜んだ村人たちは上人に近くにある日輪寺にとどまってもらうことにした。真教上人は天台宗だったこの寺を時宗に改宗して、念仏道場とした。 1307年に真教上人は将門の法号を石板に刻み、塚の前に建てた。さらにその翌々年の延慶二年には旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたことが日輪寺の記録にあるという。同時に日輪寺も『神田山日輪寺』と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった」(史跡 将門塚保存会資料による)
⇒江戸東京ものがたり 将門伝説篇(1)
 
 徳川家康が江戸入りした際、この神田明神は現在の千代田区神田へ移転するが、将門塚は古墳であるため、そのままこの地に残ったと伝えられている。
 
 明治元年、(神田神社が)准勅祭社に指定されたが、明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。

⇒神田明神 - Wikipedia
 
 明治6(1873)年、神社側は、朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚り、平将門を別殿に移し、その代わりに少彦名命の文霊を迎え入れたい、との願書を提出した。翌明治7(1874)年、その許可が与えられたが、納まらないのは188か町にも及ぶ氏子たち。何しろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのである。それが、どこの誰だか知らないような神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。
 そのため、本社には、さい銭がろくに投ぜられないの対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。将門に対する信仰は、その後も続き、明治17(1884)年の神田祭りが台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂に上った。

 新聞紙上にも、
 
 祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りをメチャメチャになさった

 などという記事が掲載されるくらいだった。

 明治東京人は、本殿の祭神を表面上は敬いながらも、実質は将門社への信仰を中心にして、神田祭りの伝統を保っていったのである。

⇒江戸東京ものがたり#12 将門伝説篇(1)

 「将門公が祭神から降りた後の十年はお祭がなかったんです。昔はお祭は秋だったんですが、それを十年ぶりにやったらすごい台風にぶち当たりました。将門台風なんて言われて、『将門公の呪いだ』なんてい言われました。で、それで祭の時期を5月に変えちゃったんですよ」とTさん。
⇒神田明神のお膝元にて 神奈川県 東京での小ネタ話あれこれ 

 大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災。この時、大蔵省庁舎は全焼した。将門塚も崩れ、この機会に塚の調査を行うこととなり、その年の十一月に、工学博士大熊喜邦らに塚の発掘を依頼した。塚の中からは石室が掘り出されたが、すでに盗掘されており見るべきものが無かったため、塚は取り崩され、池を埋め立て平地とし、その上に仮の庁舎が建てられた。ところがその後、大蔵大臣早速整爾が病にかかり大正十五年(1926年)九月に死亡。その後、現職の矢橋管財局課長他その他十数人が死亡した。また武内作平政務次官他、多くの人が仮庁舎で転倒し怪我をする事故が続出し、これは将門塚を破壊した祟りであるとの噂が広がるに至り、昭和三年(1928年)塚域の仮庁舎を撤去し塚跡に礎石を復元し、神田神社社司平田盛胤が祭主となり盛大な慰霊祭を行った。この時、大蔵大臣三土忠造以下幹部関係者多数が拝礼した。

 第二次世界大戦の重大な局面を向かえていた昭和十五年(1940年)。皇紀二千六百年にあたるこの年、将門塚では盛大な奉祝祭が行われた。ところがこの年六月二十日、突然暴風雨がおき、大手町逓信省航空局に落雷、火はたちまち広がり大蔵省をはじめ九官庁が全焼してしまう。時あたかも将門没後千年にあたり、またも将門の祟りの噂が広がり、これに驚いた大蔵省大臣河田烈は神田神社の社司平田盛胤を招き慰霊祭を執行し、関東大震災で損傷していた故蹟保存碑を新調した。また、正和二年(1313年)の真経上人晩年の真筆「南無阿弥陀仏」の板碑を模刻し板石塔婆をこの時建立した。

 その後、大蔵省本庁舎は霞ヶ関に移転。その跡地は東京都の本庁舎建設用地として移譲された。
 昭和二十年(1945年)第二次世界大戦終了。大手町は東京大空襲により焼土と化していたが将門塚は焼け跡の中に取り残されていた。進駐米軍はここに広大なモータープールを造る事を決定し、早速工事に着手するが、墓のようなものの前突然ブルドーザーが横転し、運転していた日本人が死亡するという事故がおきる。確認した所、この墓のようなものこそが将門の首塚であった。大手町々会長遠藤政蔵氏は住民とともにGHQに出頭し、「ここは古代の大酋長の墓である」と説明し、米軍は了解をし、将門塚は保存される事となった。

 よど号事件の起きた昭和四十五年(1970年)。何者かによって将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという怪事件が起きる。将門の祟りを引き起すために何者かが犯した犯行なのだろうか?祟りを恐れ、すぐさま新しい板石塔婆を真教上人が将門を供養した徳治二年の旧状を模し再建した。翌年、将門塚は東京都の文化財として保護される事となる。

⇒平将門の乱と関連伝承(其の一)

 これら数々の事件がオカルティックな現象としての“祟り”であったにせよ、それが本当に将門公の怨念によるものだったかは、また別の話になってくる。と言うのも、この首塚を霊査した霊能者が「まさしくここは将門の霊場である!」と太鼓判を押した、という話は、ついぞ聞いたことがないからだ。だいたいは「強いエネルギーは感じるが……、云々」という言葉を濁したビミョ~発言が多い。
 私自身も、将門が意図的に特定個人の不敬をターゲットに祟りをなす、という考えには否定的だ。しかし、許容量を超えた強いエネルギーに触れれば、何らかの傷害・変調がおきる、ということはありうる。高圧電流に触れれば感電する、というのと同じことだ。その霊的な高圧地帯に、将門の因縁がからんでいたのだろう。(将門だけが特定因子ではないのかもしれない)
 オカルティックな世界だから合理的思考を一切放棄する、というのではなく、霊的世界もまた、霊的次元の多角的視野と合理的思考に基き、推理・判断するべきものなのだ。


 将門の祟りがこれだけ畏れられるようになったのは、東国においては明治以降のものだという見方もある。

 意外と言うか、当然と言おうか、東国には将門の祟りという伝承は、ほとんどない(目立つものは、前回触れた『佐倉風土記』における秀郷の子孫への祟りくらいなものか)。
 ――首塚が祟る、という伝承は、むしろ明治以降のもので、これは「都市伝説」の範疇であろう。

 将門没後、その遺民としての分を守り、何事もひそやかに、目立たないようにと暮した人びと。たとえば正月の門松などもわざわざ庭先にころがしておき、五月の鯉のぼりなども絶対に揚げない風習。また、その霊を慰めるために、坂東の野のあちこちに築かれている将門塚等々……。かぞえれば、将門を追慕し崇敬する習俗、伝統の行事等が、まことに多い。
 
と、伊藤晃氏が『平将門 その史実と伝説』で書いている。

 まさに、坂東土着の民にとって、「追慕し崇敬」こそすれ、将門が祟るなどということは想像にも及ばないことだっただろう。
――鎌倉時代末期には、首塚が荒廃し、天変地異が相次ぎ疫病が流行したため、この塚を祀らないためだとされた、との記録があるが、これは将門の霊との関連性には触れられてはいない。したがって、御霊信仰とは関係なく、単に死者への供養を怠ったことへの報い、という意味しかもたない。

 ことほどさように、将門に対する東国での親近感は根強いものがある。
それも、京の政治権力に圧迫されてきた坂東の人びとにとって、東国自立の願望が強かったことの一つの表れであろう。

⇒江戸東京ものがたり・将門伝説篇(1)

 なるほど、明治以降の東京は薩長系の新興政府による文化的略奪であり、東国自治の伝統ではない、との見方もできよう。ここに東国の守護神としての将門と、東京を憎む破壊神としての将門、という背反感情のドラマが生まれる。荒俣宏『帝都物語』の狙いどころもこのへんだったとすると、深いなあ……。

 10年以上も前に映画化されたのは、この長編小説の序盤部分だったので、この物語の行き着く先を知らない人は多いかもしれませんが、小説版のラストまで読むと、この作品はまさしく、東京の守護者としての平将門と、日本史上希に見る祟り神としての平将門の、相克の物語です。神としての将門の、複雑な性格が分かる一作かもしれません。
⇒将門の首塚(前編)英雄と怨霊の間

 
 最後にもうひとつ、面白いネタ話を。
今をときめく(?)爆笑問題の太田光がまだ駆け出しの頃、ローカル番組の企画で首塚のレポートに出かけたことがある。無神論者の太田は、首塚の上に乗ったりドロップキック(飛び蹴り)をくらわせたりして、スタッフをドン引きさせたという。
⇒本当は痛いテレビ番組太田光が将門の首塚に蹴りを入れた件について - livedoor Blog(ブログ)
⇒【聖地巡礼】将門首塚(上)都心に今も生きる伝説 (1-2ページ) - MSN産経ニュース
 その後しばらくの間まったく仕事が舞い込んでこなかったと、本人が冗談まじりに語ったとか語らなかったとか。

 あいにくだが、この程度の狼藉でむきになるほど将門公の器は小さくなかろう。脅迫的オカルト権威主義に牙をむきたいのなら、太田光も大槻教授も、細木数子でも相手にしたらどうなのか?と言いたいところだが、それは別として、太田光はむしろ、将門に「反骨心があって面白い奴!」と気に入られてしまったのではないだろうか。
 日テレの番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』の発想は、将門の願望を反映しているように思えてきたからだ。
⇒日テレ 番組紹介
⇒太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。 - Wikipedia
 「私が総理大臣(新皇)になったら…」とは、まさに将門の言いそうな台詞だと思わないか? お笑いバラエティ番組のオブラートに包まれてはいるが、どのような大物や権威にも臆せず、自分の理想を真正面からぶつけていく姿勢は、将門のスタイルそのものではないか。時に激昂して、顔面を紅潮させ、眼を見開き、歯を食いしばり、論敵と聴衆を見据えるパフォーマンスも、実は『将門記』に描写される戦闘時の表情に似ている。

 『将門記』ではこのとき、将門の勇壮で超人的な戦いぶりが描写される。戦うときには眼を大きく剥き、歯をくいしばって敵中に突進。そして馬にまたがり、疾風のように激しく追撃していく姿は英雄と言つほかはない。
⇒首伝説(学研より0)

 太田光は首塚にドロップキックした時に、将門の霊流回路に接続してしまったのだ。そして約20年の潜伏期間を経て、天下の奇病である将門病が発症した。かくなる上はジタバタせず、朝敵として首をかき切られるその日まで、将門公の手足となりて世のため人のため働いていただきたい。合掌。


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江戸城近くの 「平将門の首塚」 に立ち寄り、参拝してきました。  高層ビルの谷間の鬱蒼とした一角に、碑が建っていました。  平将門 といえば、明治から昭和にかけて数々の怨霊伝説に彩られた人物です。  平安時代の関東武士である将門は、天慶(てんぎょう)の乱によって朝廷に反逆したとみなされて、下総(千葉県北部、茨城県南部あたり)で討死しました。  将門の首は、京...
2015.05.21 00:10 Anthony's CAFE 

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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拍手コメントというのがあるのを初めて知りました! また、時々、設定が狂うのか、拍手ボタンが非表示になるみたいです。 未だに設定に慣れなくて、すいません!

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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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