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大平山神社、開かずの奥の院の謎 ~ 北関東に埋没する古代霊場① ~

2007,,08
太平山神社、見取り図

      ↑境内図 (http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/index.html 太平山神社 公式ホームページより転写


 10月8日

 茨城の次は栃木にまわってみよう、ということになった。
 ここらへんも大和朝廷以前の先住部族が築いた古代祭祀跡の宝庫である。あえて“跡”とするのは、今現在のスピリチュアル・スポットとしてはいかがなものか?と、首をかしげる部分もあるからだが、それでも私のような者には、遺跡的な興味をそそるところがある。

 全国区としてさほどの知名度はないが、太平山(オオヒラヤマ)神社は今も現世利益的な信仰の地として、あるいはピクニックやデートコースに手頃な山として、当地や近隣の人々には親しまれている。

 瓊瓊杵命、天照皇大御神、豊受姫大神を祀るとされているから(天正年間の棟札では、天孫命、皇大神、豊受大神の三座)、伊勢神宮との親近性がありそうだが、旧号が「大神社」(オオミワノヤシロ)と言うからには、古層は大和の大神神社と同系だろう。
⇒http://www.genbu.net/data/simotuke/taihei_title.htm 太平山神社 大平山神社
 天孫命=瓊瓊杵命を星神と設定し、日神=天照皇大御神、月神=豊受姫大神の三位一体としているところは、日向系の天孫の旗印を掲げる勢力に、この地が乗っ取られたことを暗示している。
 本来の星神信仰は物部のものであり、饒速日あるいは大物主の神名が出てこなければおかしい。(またはストレートに天甕星か)
 『諸神座記』によれば、人皇第十一代垂仁天皇の御宇に大物主神・天目一大神が三輪山の剣宮に鎮座されたときに始まる、とされているらしいから、こちらのほうが本筋だろう。
⇒http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/web/his.html 太平山神社|公式ホームページ

 今の信仰の形態は先住側の祭祀が駆逐され、あるいは封じられつつ混交したものだ。したがって、封じた側の俗的な権勢欲と、駆逐された側の呪詛のようなものが、未浄化なままの残滓としてあちこちにへばりついている感じがして、全体的には清々しいとは言いがたい。あるいは、風水的に澱みやすい土地柄というのもあるのだろうか。(好き勝手なこと書いてるけど、これって営業妨害?)

 とは言え、かつては聖地として栄えた場所。崇高な何者かが降り立ってくるのを感じるような瞬間はある。
8551898_1434050098太平山の随神門

 ナビにしたがって車を走らせていくと、山の中腹あたりにくすんだエンジ色の随神門があらわれる。長い階段状の参道を、車道が途中で横切る形になっているのだ。と言うことは、麓から徒歩で登る道もあり、それなりの見所はあったかもしれないのだが、ナビまかせで来たらいきなり横から失礼という格好になってしまった。
 脇の駐車場に車を停め、重厚な門をくぐって長い階段を登っていくと、横並びの社殿が現れる。背後の樹木ごと霧に包まれた姿は、それなりに荘厳だ。
8551898_1867792973霧の太平山神社

8551898_2639343237大平山摂社

 そう言えば、夏に鳥海山で濃霧に見舞われて以来、今年後半はやたら霧づいている。見晴らしが悪くなるので霧を嫌う人もいるが、何やらスピリチュアルなものとの接近遭遇を感じさせて、私は好きだ。

 今は別宮のような形としてだが、三輪神社が祀られている。昔はこの大平山を三輪山と称したらしい。
8551898_2701574112単独の別宮、三輪神社 8551898_1697703802三輪神社、近影

『消された星信仰』(彩流社、榎本出雲/近江雅和 共著)では、次のように主張している。

21世紀の古代史 消された星信仰―縄文文化と古代文明の流れ (21世紀の古代史)21世紀の古代史 消された星信仰―縄文文化と古代文明の流れ (21世紀の古代史)
(1995/12)
榎本 出雲近江 雅和

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 太平山神社を神道上から見れば、大和の三輪山信仰を論じざるをえない。三輪山を神体山とする大神神社は大物主を祀る社で、大物主とは大和政権が創作した神名である。その正体は天孫ニニギとは兄弟神の火明命であることはすでに既著で考証した。(P138)

 太平山神社の別名の三光神社は「日・月・星」の三者を一体として示すペルシャ語の「フル」からきている。この「フル」はまた物部氏の呪術である十種の神宝の一つである「布留の御魂」の「フル」であると考えられる。さらに『万葉集』にある「神代」の枕詞の「ちはやふる」の「フル」でもある。(P136)

 しかもかつては山全体を神体山としていたことは、境内のもっとも奥に太平山三輪神社があり、現在も禁足地になっている。三輪山の裏に洞窟があり、向かって右側の神体山に通じているといわれ、神体山の上には磐座がある(P134)

 三輪山の洞窟が大平神社の奥の院で、御影山の磐座に通じていると信じられている。御影山は大平神社の神体山である。(P136の挿図の説明文)


 この「境内のもっとも奥」「三輪山の裏の洞窟」「向かって右側の神体山」「神体山の上の磐座」「太平神社の奥の院」「御影山は大平神社の神体山」という一連のフレーズにそそられて、この地を訪ねたのだが、「現在も禁足地」だけあってさっぱり様子がわからなかった。
 そもそも御影山がどこにあるのかさえ見当がつかない。摂社の三輪神社の横に目立たぬ登山道の入り口はあるが、向かって左に折れて登って往き、ぐみの木峠を経て晃石山、馬不入山へと、西南に下っていく尾根道が続いている。おそらくは地形的なブラインドになって、「向かって右側の神体山=御影山」は姿を見ることさえできないのだ。

 しかたなくぐみの木峠への尾根道を登っていくと、まもなく大平山頂(346m)に到着。霧の中に富士浅間神社の赤い社が浮かび上がる。
                    8551898_2385121337大平山奥宮の浅間神社
               
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 なぜ浅間神社なのかはよくわからないが、富士も『記紀』文献の成立などとは関係なく、はるか古代からの一大霊場だったことは確かである。

 晃石山(419m)まで登って大中寺へと下り、再び大平山神社にもどった。(このくだりについては次回の日記「ホラーの名刹、大中寺」で)
 神体山=御影山への通路に未練があり、もう一度あたりを探ってみると、本殿正面の左右奥、社殿の縁の下のようなところに「禁足地」の入り口を見つけた。

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 しっかりと鉄柵で閉鎖され、「立入禁止」の札が下げられている。向かって左側の柵の奥に、子供でも屈まなければ入れないような、洞窟らしき四角い穴が見えた。
 人工的にコンクリートで枠を固めてあるようだが、なぜこんな小さな穴にしてしまったのだろうか。人が通行することを前提としていないように見受ける。

 あんなところからしか奥の院に入れないのだとしたら、まったく現代のミステリー・ゾーンだ。神職の人達は、今でも奥の院に通うことがあるのだろうか。(インタヴューが得意だったら、神主さんをつかまえて聞き出すところだが、弱気の私にはムリムリ!)
 いったん窪地へ下ってから登る御影山への道も、今は人がまともに通れないような荒れ放題の道になっているイメージが頭の中をよぎった。奥の院は、実質的に封じられているのだろう。尊い聖地だから「立入禁止」なのではなく、「危険!近寄るな!」みたいなヤバイ波動を感じる。こんな薄気味の悪い秘密収容所のゲートみたいな奥の院入り口は、今まで見たこともない。

 鉄柵よりも手前に、古代磐座のひとつであったらしい石がひとつ、標本のようにさらされている。
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 神の依り代であるはずの磐座が、社殿の縁の下のような場所に組み敷かれている位置関係は、今現在の大平山神社では、古代信仰は日陰者であることを意味するのだろう。

 一番大きな別宮としては、仏教のお堂のような形をした星宮神社がある。
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 これは神仏習合の時代、虚空蔵菩薩の本地堂だったもので、以前にも解説した古代部族の金星信仰に由来したものだ。
⇒http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-242.html 星神「天津甕星」誅殺神話の深層
⇒http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-54.html 日記:大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国①
 それが例によって明治の神仏分離で「神社」に復帰したものの、時を経すぎていて、もとの星神信仰が何であるのかはぼやけてしまった。

 したがって、星信仰を抹殺した大和朝廷の側からすれば、もともと異端だったのであり、異端が生き延びるための方便として、外来の新興勢力である仏教と習合し、身をやつしたのだ。神仏習合としての修験道(山伏の宗教)には、多かれ少なかれこうした古代信仰の“仮の姿”が投影されている。
 仏教には「本地垂迹説」という理論があり、神道の神々の本来の姿は仏教のホトケであったとする仏教優位の理論だが、実は逆なのであり、大和朝廷以前の古代神が本来の姿を隠して、方便として仏教の仏・菩薩・明王に自己投影したのである。

 日本の歴史の裏には、常にこうしたダイナミズムがはたらいている。古層のものが外来の新興勢力と結託し、時代的中間層の体制派に対抗する、という構図である。
 日本という宗教風土がいかに重層的であったか、「日本の伝統」VS「外来、舶来」という図式が、むしろ体制派好みの薄っぺらな二元論でしかないことに、いつになったら現代人は気づくだろうか。「単一定住民族の多神教」などではない、「古代ネイティブとヤオヨロズの外来民族による複合重層多宗教」の末裔が日本なのである。
 が、あまりに複雑系だと、人は呆けてしまってシンプルに回帰したくなる願望を持つらしい。その意味で、日本は「幻想の単一民族」と言えるのかもしれない。

 もうひとつ単独の別宮として足尾山神社があり、足尾山の「足」とひっかけたのだろうか、大きな下駄が供えてあった。
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 下駄や草鞋などの供え物や飾り物は山岳系の寺社に多く、天狗さんの履き物であるとか、旅人の健脚を祈願するものとか、一般には言われている。が、これも古代信仰のアラハバキ神と関連するもので、足に巻く脚絆(きゃはん)にアラハバキの音を模して、「荒脛巾」としたところからくるものだという。あるいはアラハバキを奉ずる部族が、山野を駆け巡るフットワークの屈強な職能集団であったことも連想される。

 アラハバキの健脚信仰と関連して、産鉄民との密接な関連も見逃せないだろう。
 かつては「太平」を(「オオヒラ」でも「タイヘイ」でもなく)「ダイダイラ」と読んだのだという。(近江雅和著『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』彩流社) そしてこれは古代の産鉄技法である「タタラ」から転じたものだともいう。タタラ⇒ダイダイラ⇒ダイダラと転じ、ダイダラボッチ、ダイダラ法師、ダイダラ坊などの片目片足の巨人伝説につながっていく。
 鍛冶職人の神である金山彦、金屋子神は、天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)とされるが、なぜ鍛冶神が片目、片足なのだろうか。

 村下は三日三晩の連続作業の中で、微妙に変化するタタラの色を見て炉内の温度を判断する。火の色は両目では見づらいため、片目で見るのでどうしても片方の目を悪くしてしまうという。要するに片目というのはタタラ師の職業病だったのである。
(『隠された古代 -アラハバキ神の謎-』P88~89)

 片足の伝説も同じである。『日本書紀』神代の段にはフイゴのことが出てくる。「真名鹿(マナカ)の皮を全剥ぎて天羽鞴(アメノハブキ)に作る」と、皮フイゴはかなり古くから一般化していたらしい。『古事記』では真男鹿(サオシカ)と古形で記しているが、これを音読みすればマナカとなる。ハブキはフイゴの意で、吹き皮が訛ってフイゴになったという説もある。(岩波書店日本古典文学体系『日本書紀』神代上の注釈)。『鉄山必用記事』によると、フイゴの皮は狸、鹿が最良とされ、皮袋を片足で踏んで送風した。中世以降になると、天秤フイゴという大掛りなものになるが、足踏みすることには変わりがない。この足踏み作業が足萎えを起こすということで、片目とともに鍛冶、産鉄の伝承として語りつがれた。(同P90~91)


 しかし、近代の有名な足尾鉱毒事件などを思うと、古代においても鉱物の採掘・精錬作業には、業病がつきものだったのではないだろうか。アニメ『もののけ姫』の世界ではないが、自然界と人間の文明との壮絶な相克葛藤に圧倒される思いがする。
 しかも、古代において産鉄民は必ずしも支配層ではなかったのだ。一昔前のアカデミックな歴史観では、産鉄民が鉄の武器を携えて縄文・弥生の列島を席巻したという説がポピュラーだったが、鉄器を使う側の軍人と作る側の武器職人とはイコールではない。古代の産鉄民はむしろ征服された側の労働階級として、(ちょうど後の時代の炭鉱夫のように)支配層に使役されていた時代も考えられるのだ。

 摂社の並びのひとつとしては、機姫神社が目をひいた。
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 これも大和朝廷の天敵である古代女神、瀬織津姫を連想させるキーワードだ。『エミシの国の女神』(風琳堂、菊池展明)では、養蚕と機織りの拓殖婦人が、伊勢の地から追われた瀬織津姫信仰を東北へと移植した形跡が論じられている。
 一般には禊の女神として知られるが、水流や生糸ばかりでなく、オーラとしての霊光線を綾に織りなすことで、世界を再構築していく女神だと私は思っている。

 社務所で御守りのパッケージを見ていたら、ウナギを神使としていたらしき説明が目に付いた。
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 これは太古のアジア北方ルーツであると同時に(但し、原形はナマズ)、二、三匹の魚類が頭を寄せ合うデザインは、三輪系や出雲系、八幡系の神社の神紋である巴紋の原型である。(出雲系は三つ巴、三輪系は二つ巴と言うが、三輪系の大平山もなぜか三つ巴)
⇒http://www.genbu.net/sinmon/tomoe.htm 巴紋
          巴1  巴2  巴3

 これは世界的に見ても古代スタンダードであったことを、以前のmixi日記の自己コメントで書いたことがある。

(以下、日記の自己コメントからの引用)
ところで、仏足跡の写真をアップしたのには訳があります。魚が三匹、頭を寄せ合っているような図柄に注目してください。 (四国第37番札所 岩本寺にて撮影)

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 一方、日本の神社には、巴紋というものが古来からありました。(雷様の太鼓のマークとしても有名) これは水の流れを象徴したものであるとか、弓を射る時に使う鞆(とも)を形取ったものであるとか、勾玉の組み合わせだとか、いろいろなことが言われていますが、実は天皇家の菊花紋と共に、古代シュメール~バビロニアから伝来した紋章なのだという、物証を伴う異説があります。
 そして巴紋のほうは、ナマズのような魚が頭を寄せて旋回している図が起源である、と主張する本を最近読みました。その原型に近いデザインが、最古の仏足跡に刻まれていたらしいと知り、驚いてしまったのです。

 下段の車輪のような図は、転法輪とも解釈できますが、見ようによっては、(十六弁ではないけれど)菊花紋のようにも見えます。これはバビロニアにあっては、菊花ではなく太陽信仰に関係していたらしいですね。(放射状の光、あるいはチャクラのような内的な光)
 火(太陽光)と水(水棲生物)の陰陽一体、「カ(火)」+「ミ(水)」=「神」が、世界共通のスピリチュアル・シンボルだったのではないでしょうか。


 隠しても、封じても、抹殺しても、どこかに痕跡が残るものは残ってしまう。それをひとつひとつ発掘して、光をかざしていく旅もまたおつなものだ。

(つづく)
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五右衛紋☆Rhapsody
ご報告、ありがとうございます。
行ったのはもうだいぶ以前のことなので、今の様子を窺い知れて興味深いです。
その場所に入ることができなくとも、何かもうちょっと歴史的変遷の説明版を立てるとかしてほしいものですね。
綺麗に改築するのはいいとして、歴史を消して他のものに塗り替えるというのはどうも…。
2014.08.15 00:46
taniguchi
突然のコメント申し訳ありません。
山歩きの参考にさせて頂いてます。

禁足地、行って来たのですが工事中で穴・入り口付近がつぶされていました。頂上付近の真新しい奥の宮祠等、何かおかしいです。

天岩戸の見るだけで立ち入り禁止。生まれ故郷・三重県菰野にある神社奥の禁足地(子供の頃、ヤマトタケルの墳墓と知らず・・ってしまったことも)。 こんな時代だからこそ、もう少し古代・歴史を一般に公開してくれればいいのに・・・
2014.08.13 14:34

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2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

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