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「大甕」余話 ~ 戸村氏の興亡 ~

2007,,20
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左:奥州藤原氏の祖であり、那珂戸村氏(前戸村氏)の遠祖ともされる藤原秀郷。百足退治の伝説もある。
中:南朝のドン、後醍醐天皇。那珂戸村氏は南朝のために戦った。
右:藤原秀郷に討伐された平将門は、どこか神話の天津甕星とイメージ がダブる。敵対関係ではあるが、将門と共に関東武将のルーツ的存在である。  
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『星神「天津甕星」誅殺神話の深層』
『大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国? ~』
……で紹介した「大甕」関連の歴史談義をもうひとつ。

 これまで母方先祖「矢ヶ崎」の、諏訪および出雲の神話関連ばかりにフォーカスしがちだったが、ネット・サーフィンしているうちに、実は父方「戸村」の姓とものっぴきならない因縁があったことが発覚した。
 そんなのカンケイね~!という方もおられるかもしれないが、これはいちおう私の個人ブログである故、私自身の記憶と記録の整理のため記しておく。(細部を忘れちゃった時、これを読み返すと便利なんだよね)

 大甕駅や大甕神社のすぐそばに那珂郡、那珂市、那珂町といった地名があるが、このへんは昔、那珂氏という有力豪族の領地であったらしい。そして、その中の一派が、なぜか戸村氏を名乗っていたという。
 下記ホームページ
[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)
によると、次のようになる。

 時期は、久安5年(1160)那珂通能によると言うから平安時代末期である、那珂通能は戸村氏を名乗る。
 南北朝時代に南朝方に属し、この地方の覇権を佐竹氏と争った那珂一族である。
 しかし、戸村氏は南北朝の騒乱に南朝に味方したため滅亡してしまう。


 もうちょっと詳しいことを言うと、次のホームページ参照。
[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_fujiwara.htm 戸村一族
一部、引用する。

 下野押領史藤原秀郷の来孫・藤原通直の子通資は、那珂太郎と名乗って、那珂氏の祖として常陸国の那珂川北岸の那珂郷を領有して起こりました。通資の孫通兼の長男・通泰が那珂宗家の嫡子となり、次男の能通が那珂郡戸村に居を構え、戸村小三郎と名乗りました。これが藤原氏秀郷流の戸村氏の始まりとなりました。
[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)

……ってことは、戸村ってもとは地名だったの?

 そして、1335年「甕ノ原の戦」において那珂通辰の率いる一族郎党として、戸村氏も勇猛果敢な戦いをしたという記録があるらしい。
 これは下記ホームページ。
[資料③]⇒http://www17.plala.or.jp/naka_edo-history/mititoki_024.htm 南朝方として戦った那珂通辰
 戦記ものみたいで面白いので、前半を転写する。

 1335年(建武二年)12月、北畠顕家が率いる官軍八千の軍勢は、奥州多賀城を進発し、常州多珂郡甕ノ原(三ヶ原=みかのはら)に差し掛かったところで休息をとっていた。
 北畠軍は後醍醐天皇の勅命を受け、鎌倉にあって反旗をひるがえした足利尊氏を、京都から鎌倉に向かった新田義貞と共同して、挟み撃ちの形で討つための行軍であった。

 休息中の北畠軍を襲ったのは、常陸国豪族、佐竹貞義率いる四千とも五千とも言われる軍勢であった。長途の疲れと混成部隊、地理不案内も手伝い、北畠軍は総崩れとなり、壊滅寸前となった。
 そこへ背後の大甕山(おおみかやま)から駆け下り、優勢に立つ佐竹軍に猛撃を加えた軍団があった。それは常陸国の豪族那珂通辰が率いる軍勢二千であった。従うのは同国大井郡戸村城主戸村氏、川辺郷川野辺氏、那珂東郡平沢氏の一族郎党であった。


 このホームページの作者は、朝敵(南朝の敵)を討つという名目で、悪神「天津甕星」成敗の神話とひっかけているが、この時代、逆賊とされたのはむしろ南朝の側である。天皇家の血筋でありながら逆賊とされた南朝の行く末は、私が「まつろわぬ天津神」と設定した天津甕星のカルマとダブりはしないか。

 ということは、戸村氏は甕星の末裔だったのかな?
……と思いきや、
 しかし、戸村氏は南北朝の騒乱に南朝に味方したため滅亡してしまう。
 その後、120年間ほどこの城は廃城状態であったが、佐竹南家の南憲国が寛正元年(1460)北城を築城し、戸村氏を称して居城した。
 この戸村氏は佐竹氏の重臣として活躍し、現在の城址は前戸村氏の南城も取り込んで後戸村氏の時代に拡張されていったと思われる。

[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)
 
那珂戸村氏は、南北朝争乱の時期に、南朝側に付いて瓜連合戦など各地に戦ったのですが、居城は焼打ちされ破れ、建武3年(1336)に一族は滅亡してしまいました。後に、寛正元年(1460)、佐竹氏十三代義仁の三男義倭が戸村城を再興して、戸村氏を称することになります。
[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_fujiwara.htm 戸村一族

 つまり、前戸村氏と後戸村氏がいて、両者には何の血の繋がりもない。(なんだか前北条と後北条みたいでカッコイイというか大袈裟というか) しかも、前戸村氏を滅ぼした張本人の佐竹氏の系図から、後戸村氏が出てくるという奇々怪々さ。

 このへんもうちょっと詳しく解説すると、次のようになる。

 常陸守護であった佐竹義盛には子がいなかったので、山内上杉憲定の子・義憲(義仁)を持氏の後押しで養子に迎え、佐竹氏の嫡子としました。そして、佐竹義仁の三男・義倭は、城南にあたる常陸太田大崎に住んだので、「南殿」と呼ばれ、南氏と称しました。その後、義倭は戸村に移封され、滅亡した前戸村氏の城部を修復しました。戸村城を再興した義倭は、北城を本丸として居城し、佐竹氏の流れを汲む戸村氏の祖となりました。[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_satake.htm 戸村一族

 要するに養子つながりの縁から戸村の姓が再興されるのだから、佐竹とも血脈はないことになる。(但し、後述するように、義倭にも子がなかったため、後戸村の二代目からは佐竹の血脈にもどっている)
 そうすると、男系の血筋が絶えやすい因縁というのは、当初からのものだったようだね。前戸村氏を滅ぼした祟りか。はたまた南朝の祟りか。それとも、甕星の祟りかな。ぴかぴか(新しい)衝撃
 べつにどうだっていいんだけどね。私の魂の志向は、どっちかってえと南朝側だし。そんなのカンケイね~~~!!パンチダッシュ(走り出す様)

 こうした分断した血脈の中で、養子の三男、佐竹義倭は、なぜ滅亡した戸村氏を名乗ることになったのか。戸村城の地に前戸村氏を慕う住民がいたからだろうか。
 それ以前に、なぜ義倭は戸村に「移封され」たのか。このへんの経緯と動機が、最大のミステリーだ。

 その後の戸村氏の動きを転載する。

 戸村義倭には子がなかったので兄・佐竹義俊の5子・義易を嗣としました。義易の子・義廣は天永18年(1590)、佐竹氏と江戸氏の不和を知り、自ら奮戦して江戸勢を打ち破って、両家が講和する基盤を築いたと云います。戸村家は、戸村十太夫を名乗った義国まで、この地で7代にわたって佐竹氏の重臣として栄え、 佐竹領南方の要衛として城郭も整備されましたが、関が原の戦後、慶長7年(1602)、宗家佐竹義宣の秋田藩横手への国替えに供って、戸村氏もこれに従ったため、戸村城は廃城となりました。
 その後、秋田に移った戸村氏は、八代戸村十太夫義国が大阪冬の陣で、徳川秀忠から感状を与えられるなど功労が多い人物でした。そして、九代戸村十太夫義連は寛文12年(1672)、横手城代となり、その後も戸村氏は、明治時代まで佐竹一族の重臣として栄えました。三千風行脚文集には、「横手村の郡司・戸村氏は、秋田佐竹家の長臣として、文武兼備の雄士、ことに風雅の逸人なり」と記されています。

[資料②]⇒http://www.geocities.jp/kirche_7/tomura/tomura_satake.htm戸村一族

 私の父方の先祖は、わかっているところで那須地方の黒磯であり、さらにその以前は東北であるという(言い伝え程度の)話を聞いている。佐竹氏との繋がりも父に聞いた覚え(うろ覚え)があるので、この系統の戸村氏の末である可能性は高い。

 戸村城址は今もあるそうだけど、あんまり見に行く気がしない。
[資料①]⇒http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_tomurajou.htm 戸村城(那珂市戸)
 神々のことは惹かれるけど、あんまり人間臭いカルマの世界って、どうもね。

 その後、またまたネットでいくつかの情報を仕入れました。
戸村の地名の出どころですが、以下のホームページに次のような記述がありました。
⇒http://www5f.biglobe.ne.jp/~hotaka/kashima.y/sub2006.htm  常 陸 の 国 漫 歩 (その6)
那珂川の堤防が長く続き、内側の堤防に一番近い所に、鹿島一族の部落があります。その名も川端です。 明治の廃藩置県で川筋に下江戸、大内、田崎、戸村と言う4つの村あり、それが明治の初めに整理され合併して戸多村になりました。

 「部落」というくらいだから、先住民系の血の濃い一帯というニュアンスを感じますし、「鹿島一族」という由緒ある神族を連想させるような名称も、初めて知りました。

 また次のブログに、那珂戸村氏(前戸村氏)が戸村城の築城に際して、日天石と月天石という二つの石を城内に置き、城の安全と一族の繁栄を願った、という説明がありました。
⇒http://blogs.yahoo.co.jp/xym92373/29159432.html  日天石と月天石 - 北緯37度付近の中世城郭 - Yahoo!ブログ

 とすると、前戸村氏=那珂戸村氏は鹿島一族(物部系?)であると同時に、アラハバキ系の巨石信仰を持つ部族であったことが想像されます。
藤原秀郷を経由する京の藤原氏の直系という説は、どうやら怪しいですね。少なくとも混血くらいだったでしょう。
 私の魂的には、こちらの(私とは血のつながらない)前戸村氏に惹かれます。

 一方、後戸村氏の佐竹氏は、甲斐武田の祖でもあり、その始祖は清和源氏の流れだそうですが、この時代、系図の捏造は多いですから、本当のところはわかりませんね。
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五右衛紋☆Rhapsody
かなぶん さん

最近、めっきりログインしていなくて、返信遅れました!
古い前戸村氏については、ロマンを感じますが、なにぶん資料は少なそうですね。
2017.05.23 22:11
かなぶん
私も戸村を調べていて、凄く考察れてて勉強になりました。

おっしゃるように前戸村氏は古い族のように私も検討をつけたところです。

藤原氏との繋がりは侵略の際の一部に過ぎないと思っています。

2016.11.10 22:54
三斗Ra 隼人(管理人)
貴重なナマ情報、ありがとうございます。宮城、新潟、福島にも戸村の拠点があったことを、初めて知りました。
私の場合、ネットでちょっと調べてみただけなので、フィールドワーク的に情報を収集すれば、もっといろんな輪郭がつかめてくるかもしれませんね。「戸村」が多い地域の大きな公立図書館で氏姓事典を調べるとか、郷土史研究家のような人の資料を尋ねるとか。

また、何の確証もない夢想ですが、青森の「戸来村」(今の新郷村)から「来」が抜けて「戸村」になったんじゃないか、という仮説を考えたこともあります。「戸来」は「へらい」と読むところから、ヘブライ⇒ユダヤ人渡来説とよく結びつけて語られます。2009.09.22のブログ「キリストの墓in青森」を参照してください。
http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-250.html

但し、現在、残っている戸村は、ほとんど佐竹系の後戸村氏の末裔だと思われます。そこにどの程度、鹿島系の前戸村や、ユダヤ系?の戸村がからんでいるか、というのが私のロマンなのですが・・・。
2010.11.04 02:27
戸村
突然のメールで申し訳ありません。
私も戸村で、現在城跡に家が建っております。ただし、だいぶ古い話で見た目では、城跡ともわからないくらいですし、全くその風格さえありません。ただ、親戚の話や、近所のお年寄りの話を聞くと、面白く聞いておりました。
元々、我が家の祖先の戸村の城主は新潟の城主戸村氏とのやり取りの手紙などが残っていたそうで、新潟、福島に城があったことは知っていたのです。また、北海道にも我が家から出た方々がいるのは知っていました。
今、お年寄りと接する仕事をしていますが、私の姓を聞いて、いろんな話しをしてくれる方々と出会い、面白く感じております。
その中で、秋田出身のおじいさんの話で、秋田に戸村の城があることを知りました。さらに、つい最近茨城の戸村城のことを聞きました。
そして、このブログを見つけて、メ-ルした次第です。
私は宮城の戸村です。城の名前は郷主内城ですが、市の遺跡地図に名前が載っている程度で、全く知られていません。
何か他に戸村の情報があれば、と思います。
2010.11.03 09:51

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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拍手コメントというのがあるのを初めて知りました! また、時々、設定が狂うのか、拍手ボタンが非表示になるみたいです。 未だに設定に慣れなくて、すいません!

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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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Author:五右衛紋☆Rhapsody
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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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