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大甕倭文神社 ~ まつろわぬ天津神の潜む常陸国① ~

2007,,17
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写真上:大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)の由緒書き。
写真下:国道を挟んで祖霊社がある。斎主の家系を祀るものか? 拝殿よりも大きい。

 神代のこと武甕槌命(鹿島明神)と経津主命(香取明神)が高天原から派遣されて葦原の中つ国(日本)の荒ぶるもの(先住民族)を平らげて諸国を巡った。塩釜の地(今の宮城県)から常陸の国に入ると、粟川(那珂川)と久慈川との間の豊かな地域を占める天津甕星と誇称する香香背男が、大甕の里の石那坂に堅固な砦を築いて頑強に抵抗し、二神の軍を退けた。勝ちに乗じた香香背男は高天原を逆襲しようと、たちまち大きな岩に姿を変え昼夜を問わずずんずん高くなり空を突き破らんばかりになった。高天原の驚きはひとかたならず、二神も手の下しようがなかった。
 倭文(シズ)の里で、里の女達に倭文織を教えていた建葉槌命は、オサを捨てて立ち上がり、甲冑に身をかためて石那坂に馳せ向かい、まさに高天原の雲を突き破ろうとする香香背男の岩を、金の沓(クツ)で蹴飛ばした。巨岩はたちまち四段に折れて飛び散り……(中略)
 術を破られた香香背男は血ヘドを吐いて死んだ。大甕の宿魂石というのがその岩の根っこだといい、那珂郡東海村石神外宿の石神社の御神体になっている巨岩がそれだという。

(榎本出雲/近江雅和共著『消された星信仰』彩流社P145~147より、茨城新聞社編『茨城の史跡と伝説』の引用から)

 ……『大甕倭文神宮縁起』には概ね次のように伝えられております。天祖天照大御神が天孫瓊瓊岐尊を豊 葦原中津国に降臨させるに当り、鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫、あるいは掃蕩する任を負わされておりました。武神として誉の高い二神は国津神等の国譲り、荒ぶる神々の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神がおり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神もこの勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時にこの武神である二神に代って甕星香々背男討伐の大任 を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。命は武神としてもさることながら、知恵の神としてことに優れており、(我国において織物を始めとする組織的な産業を最初に起された神であります)命の知恵を駆使した巧な戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢えない最後を遂げることとなり、その様は今に様々な伝説となり伝えられております。その一つに武葉槌命が大甕山にて甕星香々背男の変じたる巨石を蹴ったところ、その一つは海中に落ちて今に伝わるおんねさま、または神磯と呼ばれる磯になり、あとの石は、石神・石塚・石井に飛んだと伝えられております。また現在の大甕神社の神域を成しております宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられております。斯くて、甕星香々背男の勢力を掃蕩された武葉槌命は、此の大甕の地に留り命の優れた知恵の産物である製塩の術・織物の術をはじめ様々な生活の術を常陸地方は無論のこと、東日本の一帯に広められ人々の生活の向上に貫献されたのであります。今に、武葉槌命はおだて山、即ち美しい山と人々から敬愛の念を持って呼ばれる大甕山上に葬られていると伝えられております。

(右記ホームページより⇒大甕倭文神社 oomika http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm


 以上が天津甕星=香香背男に関する当地の伝説らしい。
かなり以前からひっかかっていたとはいうものの、この神話で有名な日立市の大甕神社まで行ってみようという気になったのは、つい最近のことだった。資料をあさってみて、物部系の剣神や竜蛇信仰や巨石信仰、そして古代の世界的スタンダードである太陽・月・星の三位一体信仰とも深い関わりがありそうだとわかってきたからだった。

(『日本書紀』の神話に関する私の考察は、前回参照
⇒星神「天津甕星」誅殺神話の深層)

 9月17日
 車のナビにセットして、一路、日立市の大甕神社へ。いつも長距離の旅行が多いので、これくらいの距離なら時間を気にせずにピクニック気分で行ける。
 ナビに従って神社に接近すると、国道6号より一本海側の閑静な裏道に入った。駅も高速のインチェも近いというのに、東京の郊外あたりと較べてみても信じられないくらいのどかな空気が流れている。そこが神社本殿の正面にあたるのだが、下から見上げる斜面の樹木に隠れて、位置関係がよくわからない。
通り過ぎて国道と再び合流する地点から振り返ると、白い大きな鳥居が現れた。その向こうに社務所と様々な催し物のできる会館とを兼ねたような大きな建物がそびえていて、こちらのほうが遠目にも目立っている。その前庭をつたって歩いていくと、こじんまりとした社殿の側面が見えてきた。

側面大鳥居
 この側面の鳥居は、近年建てたものだろうか。正面の鳥居よりもはるかに大きく、ひょっとすると社殿よりも存在感がある。

 とは言え、瓦屋根の社殿は、大神神社や三島大社を想起させる重厚な雰囲気がある。
拝殿正面

 その屋根に三つ巴の紋を発見したが、これは出雲系の神紋という説もある。(二つ巴は三輪系とか)
               三つ巴紋

 本殿(拝殿?)の横奥あたりに、「宿魂石」と刻んだ石があったが、これはあまりにもこざっぱりと新しいので、太古の伝説にある巨岩のかけらであるわけはない。参拝客にわかりやすいように設置した案内板代わりのオブジェだろう。
宿魂石

 その横の小さな社が、天津ミカボシ=カカセオのものだろうか。
               宿魂石、横の社
  
 その背後全体が小高い岩場になっていて、てっぺんに奥宮がある。この岩場全体がおそらくは宿根石ということなのだろう。それを鎮め、封じるように、正面の本殿と頂上の奥宮が挟み込んでいる。こちらは天津甕星を撃破した建葉槌命を祭神としている。
                    奥宮

 神社名の「大甕(オオミカ)」というのはこのあたりの旧い地名らしいのだが、それにしても退治された側の「天津甕星」の“甕”とダブるのはどういうわけだろう。たとえばスサノオを祀る神社で、ヤマタノ神社とかオロチ神社とか名付けることはないだろう。
 へそ曲がりな見方かもしれないが、実際、この大甕神社に甕星=香香背男が祀られていると、勘違いしている神話ファンはいると思う。

 もうひとつの疑問。鹿島(武甕槌)香取(経津主)の大明神として知られ、武芸神としては並び称される者もないほどの二神ですら、討ち取れなかった甕星=香香背男を、手玉に取るように掃蕩した建葉槌(武葉槌)とは、いったいどういう神様だったのだろうか。
 『日本書紀』による系図書きでは、天の岩屋戸開きで有名な手力雄(タチカラオ)の子が、大鷲神社の天日鷲、その子が静神社の建葉槌ということになっており、氏族的には忌部氏の祖となる。ふだんは製塩や織物の術に秀でる産業神・職工神であったということで、文武両道ならぬ職武両道のクールさが心にくい。

 武甕槌と経津主は武芸者ではあったが、軍略・兵法家ではなかったのだろうか。激しい反体制的な歴史観を持つ者は、武力ではかなわぬと見た建葉槌が謀略・陰謀によって甕星を陥れたのだ、とするむきもある。
 が、私の考えは違う。高天原側とされる武甕槌・経津主・建葉槌も、それに反逆する甕星も、実は皆同じ物部系の同族神なのである。前者のグループは、とりあえず形の上では高天原に象徴される大和朝廷の勢力に付いた側で、これを内物部と言う。後者は朝廷の正当支配権を認めない陣営で、これを外物部という。
 朝廷を裏で操るどす黒い陰謀家が、難敵の物部を弱体化させるために、氏族を分裂させ、同士討ちにさせたのだ、という見方もできる。が、反面、物部と言う部族の生きようが、決して一所に執着せず、分散して移動しながらネットワークを形成し、時には敵・味方に分かれてでも密に連携しあって、どんな乱世にあっても決定的な全滅を避けるというサバイバル戦略をとるのである。これは日本の古代におけるひとつの雛形であり、今の時代でも世界的レベルで、神の権威の顔をした黒い陰謀と、さらにその返し技を温存する隠れた真神の仕組みが、逆転につぐ逆転の熾烈な死闘を繰り広げているのだ。
 つまり、武甕槌・経津主の二神と建葉槌の間では、(偽装敵対関係の)同族会議の方針が一致せず、交渉(密談)決裂したのだろう。かと言って、同族で死闘を繰りひろげるには忍びなく、二神は「敵が強すぎて為す術がない」というパフォーマンスをとり身を引いた。代打として、説得術と裏工作にかけては一枚上の建葉槌にバトンタッチ。「時代の趨勢から見て、ここは敗れたふりをして身を隠してくれ。実質的な支配権は温存させるから、二人羽織の政治体制でいこう」と建葉槌に頼みこみ、派手に玉砕してもらう芝居をうってもらった。
 が、性格的に器用でなさそうな甕星に、無念の思いは残ったことだろう。そこで祟り封じや祟り鎮めの「宿魂石」の伝説も残った。
 以上が私の解釈。

 社殿の横っちょのほうに御神籤(オミクジ)の自動販売機があったので、100円を入れてみたが、古びていて手入れも良くないのか、うんともすんとも反応しない。こういうのも形を変えた神のメッセージと思っているので、あせりはしなかったが、一瞬「ダッセ~な!」と思ってしまった。
 ところが、先ほど通過した時には人の気配もなかった社務所の前まで来ると、タイミング良く窓のカーテンを開ける動きがあった。妻が会館のエントランスのほうに回ると、自動ドアが開き、そこからも社務所の窓口とやりとりできるようになっている。
 御神籤のことがなければ、わざわざ押しかけたかどうかわからないが、妻がここぞとばかりに事情を説明すると、白装束の神官が中から御神籤の木箱を持ち出して引かせてくれた。悪びれる様子もなく妙ににこやかなところが、このへんの人の気質かもしれない。

 こちらから何も尋ねてないのに、その日焼けした恰幅のいい神官は一人で語りだした。甕星の神話に感じた遠方の人がよく訪ねて来てくれること。そして、妙に自信たっぷりと「(甕星は)悪神ではないですね」と断じてくれた。
また、神社(宿魂石も?)があったもともとの場所はここではなく、もうちょっと内陸の工場用地に買収された山の上で、今でも跡地の碑(説明版?)が立っていると説明してくれた。詳しく調べてきたわけではないので、これは初耳であり、よくぞ聞かせてくれたという感じ。この話を聞かせるために、自動販売機では御神籤を出さないよう、神様が仕組んだのだろうか。
(ところが、この山=大甕山?というのがどこになるのか、地図で見てもさっぱり見当がつかない。この続編は次回で)

 御神籤の内容は次の通り。

運勢/末吉

はなされし かごの小鳥のとりどりに たのしみおおき春ののべかな

籠の中にいた小鳥がとび歩く様に苦しみを逃れて楽しみ多い身となる運です 世の為め人の為めに尽しなさい 幸福まして名も上がります


 古代史探訪としてその地を訪れ、その神社でひいた御神籤の場合は、私個人のことではなく、その神の勢力に関する栄枯盛衰が告げられていると、私は決めこんでいる。
 これは今まで身を隠していた甕星=香香背男の“今”を暗示しているように思えてならなかった。(ついでにちょっとばかり、私にも幸運のお裾分けをしていただければありがたいのだけども)

 
 残っていた写真を載せてしまいます。

 なぜか、摂社?に天満神社。菅原道真の遠祖も出雲系という説あり。
               天満神社

 国道を隔てて反対側にある祖霊殿の参道入り口。本殿(拝殿)参道と対称形に、大通りから斜めに入っていく感じが面白い。
               祖霊殿参道

 国道側の参道入り口にたたずむ道祖神。
          道祖神

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五右衛紋☆Rhapsody
子孫 様

ご意見、ありがとうございます。
私は集中的に研究した学者ではないので、さほど固執する説はないのですが、北関東に限らず、日本はいろいろ多方面のミックスという感覚が基本にあります。

まず縄文的な民族や文化というのは、ベースの部分で汎日本列島的にあるわけで、それがどちらかというと江南地方や東南アジアに親近性があり、どちらが先にあって渡来してきたかというより、環東アジア民族圏・文化圏であったと憶測するのみです。
また縄文的な者達は、小競り合い程度の争いはあったでしょうが、組織的な軍隊で鉄器としての武器を駆使しする覇者のような性格ではないので、人情に厚いが気性も荒くという「狭」の気質は、後から上乗せミックスされたものと思われます。大きな括りでいうと、薩摩、土佐、三河、多摩などにも共通する気質なので、これが比較的早い時代(『記紀』を編纂した大和朝廷成立以前)に渡来してきた者達の、比較的濃く残っているテリトリーだったのだと思います。

どこから入ってきたのかというのも、究極的には私は固定的に見ません。大陸や半島の内部においても常に離合集散していた面はあるはずで、星神信仰とか製鉄文化もかなり広い範囲に拡散しているのです。極論すれば、古代の先進的文化はみなそうだった、と言えるかもしれません。列島に入ってくる直前にどこ経由だったか、という視点のみがリアルかと。

私が北関東を高句麗系と仮定するのも、あくまでもそうしたベースの上でのことで、中古代前後の頃に入ってきて定着した上乗せの一派という意味であり、加えて言うなら、三韓の中にあって大雑把な棲み分けとして、高句麗が北関東・中部あたり、新羅が山陽・中国地方あたり、百済が近畿、という分布になります。
もちろんそれ以前の縄文ベースや南方海洋系のものも、関西:大和朝廷圏よりは色濃く残っている気がするし、三韓系の渡来人も一時期にどっと入ってきておしまい、ということではなく、時代を経て何派にも分かれて入ってきて、厳密には複雑に混在している、という想定です。

天武天皇は高句麗系だったと思いますが、天武が高句麗人を引き連れてどっと入ってきて征服した、というのではなく、天武の勢力は様々な先住系や先行渡来系との混成部隊です。この時代、日本は大陸の大国の脅威に対して、最も自覚的に、多民族統一国家の樹立を模索しなければヤバい混沌の時代だったからです。
なお、天武は日本を征服していません。体制的な大和朝廷の基礎は築きましたが、いわば三日天下的なもので、高句麗系は朝廷の支配層ともならず、成り行き上、日本におけるカウンター勢力的なものとなりました。その意味で東国武士文化という押さえです。

また、私が北関東の高句麗系と言うのは、天武帝とは無関係に、もうちょっと早い時期に、支配層ぐるみの深刻な権力争いのレベルとしてではなく、平和的サバイバルとして入植(亡命?)してきて、縄文的な名残りや南方的なものとミックス共存していたという構図です。

星神信仰に関しては、北斗七星信仰のほうが金星信仰よりも、むしろ大陸北方や高句麗においてポピュラーだったもので、将門のそれも明らかに道教→陰陽道のヴァージョンです。
金星単独の信仰がどこからくるのか、というと、私にはまだよくわかりませんが、ミカボシ・カカセオの系譜は陰陽道的なものよりも、やはり金星的なものを感じてしまいます。
数多の星を観るのは、方角を知るというシンプルな目的の生活術よりも、占星術とか予言とか哲学的な世界が色濃くなってきますが、もしかすると航海術には、明るい金星は時間帯さえ押さえておけば一目で目印になり(北極星はやや暗いです)、存在感の強烈なものだったかもしれません。ミカボシは海洋民族系の豪傑だったのかもしれない、という気はします。
2014.09.14 02:50
子孫
御説、興味深く読ませて頂きました。

私の出身はズバリ日立市です。スピリチュアルな事はわかりませんが、記紀や郷土の歴史には日頃から関心を持ってこれまで色々と調べて来ました。

僭越ながら地元で生まれ育った立場からぜひ御説に加えて頂ければな、という観点がいくつかございます。

①北関東圏部族の出自は高句麗ではなく、中国江南地方ではないか?
②製鉄技術についても考証に入れるべきでないか?
②星神信仰を抹殺したのは天武帝ではないか?

まず、①についてですが、紀元前500~1000年頃、中国江南地方の部族が南下する漢族に追われるように海に出、台湾を経由し、南はオセアニア、北は琉球、九州、太平洋側の本州へと広がって行ったという説があります。

彼らの習俗はいわゆる文身鯨面、顔と全身に入れ墨を施し、製鉄技術、稲作文化、航海技術を持っていたそうです。

オセアニアの島々や台湾原住民の人々の写真を見たことがありますがびっくりするほど縄文系日本顔で地元茨城も漁村や山里に行けば行くほど、私自身も含め、それと似たいわゆるピュアブラッドな(笑)濃い顔付きの人が多いです。

また中国江南地方は三国志でも分かる通り、長江付近の為、航海技術が発達しており、内地よりの高句麗よりも外海に出やすい環境です。

航海技術には星を読む天文術は必ず必要になります。これは後で③で述べますが、金星も信仰対象でしたでしょうが、一番は星天の中心、北極星で部族の長(=星と交信するシャーマン)は北極星と同一視された、と推測します。

大洗海岸の神社や鹿島神宮、72年に一度の金砂郷大祭礼はこの地の先祖が内地を北上して来たのではなく海から来た事を示しています。

気質的にもいわゆる侠に近い人が多く、後の東国武士や仁侠(入れ墨してますね)にも通じるか、と。これも喧嘩早く、一方で人情味ある茨城人の気質と同じです。また茨城弁の特殊さも良く指摘されますが、中国の日本語の訛り(力行が濁る)との共通性も強いです。

②の製鉄技術については鹿島神宮の御神体である、鉄剣、将門神話の「鉄の身体」、独自の製鉄技術を生業とする部の民の伝承が県内各地に残っています。恐らく鹿島、香取に城柵を構えていたタケミカヅチ、フツヌシの最強二将軍でも征服出来ないほど、カガセオの勢力が強かったのはこの為と思われます。

武力制圧は止め、交渉や策略に長けたタケハヅチか中臣氏を遣わし養子縁組みや朝鮮半島発祥の織物等で交流を図り、徐々にカガセオの一族を体制に組み込む懐柔路線に切り替えたので記紀も曖昧な書き方になっていると思われます。

彼らが後に大和朝廷の体制に組まれた際、「物部(もののべ)」という職で呼ばれ、のち東国武士(もののふ)の原型になったと思われます。

最後に③ですが、カガセオが北極星を象徴した為、記紀を編纂した天武朝以降はこれを抹消する動きに出たのではないか、と推測します。

というのは天武帝は自ら「天帝」すなわち北極星の生まれ変わりを名乗ったからです。天武帝以降の大王(おおきみ)は「天皇」と呼ばれるようになりました。他に北極星の神がいては不味い為、東国の星神神話はそのほとんどを記紀から抹殺され、今に伝わってないのではないでしょうか?

それでも勢力の強い東国の星神カガセオは死後、地震や天変地異を起こしたと当時の人は考えたはずです。それでカガセオの御魂(もしくは遺骸)は常陸風土記にある通り、タケハヅチ、というよりずばり大和朝廷の祭祀を司どった中臣氏によって呪術的にバラバラにされ、鹿島香取神宮の要石、大甕神社の宿魂石などに分魂してそれぞれの主祭神に抑え込まれる形で封じられたのではないでしょうか?

のちの将門信仰も上古代の常陸の国の部族の長、カガセオの怨霊と当時は考えられたと思います。これが貴族社会の没落、武士の勃興を経由し、徳川氏による鹿島神宮尊崇、同じ徳川氏の水戸藩による尊皇攘夷思想へと繋がり、怨霊はやがて守護神と転じ、水戸藩出身の徳川慶喜による、江戸無血開城へと繋がっていきます。石の封印が、文字通り国の礎となっていく所が歴史の面白い所で、星神の怨霊は国を守る礎にも繋がっています。

まさに星が沈み、日が昇る(立つ)わけです。

長文恐れ入ります。ご精読ありがとうございます。
2014.09.08 11:32
五右衛紋☆Rhapsody
ひたすら様

常陸(日立)のあたりはオトタチバナヒメの伝説でも有名だったんですね。
それで、大甕にリンクするというのも思いもよりませんでした。

伊勢白山道氏は部分的に読んだことはあります。
良いこともたくさん書いているし、歴史的観点に関しては直観的に同意するところもあるし、よくわからない面もありますが、なにぶん特殊なタイプの人(霊能者関係?)なので物事を断定的に表現するきらいがあり、私としては距離を置いて見る感じですね。

東北出身ということは、現在は東北ではないのかもしれませんが。「東北」という言葉は、今やそれだけで一筋縄ではいかない、複雑な思いにかられるキーワードとなってしまいました。

私には…、いや私自身も、今はただひとつの感情だけでは割り切ることのできない、迷路のような世界に絡まっていますが、それをも含めて受け止め、突き抜けていく世界の到来は信じています。すでに成った世界のイメージに感謝します。
2013.05.10 01:22
ひたすら
少し前に横須賀の走水神社や江の島神社などに行ったこともあり「オトタチバナヒメ」で検索してここまでたどり着きました♪

大甕・・・ 以前「伊勢白山道」というブログでこの地名を目にしたことがあります。
手元にある書籍にももしかしたら、その記事があるかもしれません♪

さきのブログはなかなか面白いですよ♪

きっと いろんな質問にも必要とあればお答えくださるかもしれません♪

私は家族にアクセス禁止令が出されているので今はお邪魔していませんが、日々 そこでの学びを実践している登山者であります♪

百聞は一見にしかず
知らないよりは知っておいたほうが得と考えます♪

是非、そのブログや 「森羅万象シリーズ」その他の本を書店で手にしてみてください。

たくさんの俳優さんが次々と亡くなられております。
その方が生きてこられた 存在したことへの感謝、出会えたことへの感謝。
今生きていらっしゃるすべての方への感謝。
すべてに感謝しつつ、目の前の悩みに苦しむアラフォーの東北出身の二児の母でございます。

目が見えること、手が動くこと、足が動くこと、本当に当たり前ではなくてありがたいですね。
手が動かなくなったこと、腰の痛みで苦しんだこと、友人を亡くしたこと すべてが気付きのためなのだと・・・
goo で「ただ ひたすら」を開設しています。
のぞいてください。
2013.05.09 17:54
三斗Ra 隼人
ざっと読ませていただきました。
出雲族と日向族の列島内での歴史のアウトラインは、研究家の原田常治氏や神 一行氏と重なる部分も多く、チャネリング方面からの照合という意味でも、興味深く感じました。
日向族をイザナミ、イザナギから説き起こし、フル、スサノオ、ニギハヤヒの出雲族は並行した同時代の別系譜としているのは、私自身は初めて出合った気がしますけど。

宇宙起源のルーツに関しては、様々な人(チャネラー)が様々なことを伝えていて、枝葉の部分では全くちぐはぐで照合しないケースのほうが多いと感じますが、見ている角度や範囲や区分が違うのだろうということで、メッセージの波動そのものを受け取るようにしています。
封印が解かれれば自然とわかってくることであり、閉じられた頭脳で整合しようとしても、すべては仮説にすぎまでんから。
2012.11.13 01:30
ariona
突然にすみません。
知り合いの方からブログを紹介されました。
出雲族と日向族の対立と、出雲族が封印されているのを知っている方がいると・・。
びっくりしました。でもなんと心強いか・・。 
そのことについて、預かっているメッセージを ASIAN SEEDS として 1~8まで記述しました。良かったら見ていただけますか?
ちなみに、アーリオーンとは
http://btl369.blogdehp.ne.jp/article/14436681.html

そして、出雲族、日向族の大元AMA族のことは
http://btl369.blogdehp.ne.jp/article/14546026.html
よろしくお願いします。
2012.11.12 19:12

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スタミナ不足で、ながらくこのブログを放置しておりました。ぼちぼち再開しようかと思いますが、操作のしかたがすぐ思い出せず、コメント認証待ちのかたなどおられましたら申しわけありません。


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1955年、東京生まれ。 母方先祖は諏訪大社の大祝だったとか。 ツイッタ-のユーザー名:@G_rhaps

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古典的グノーシスの言うように、この世界が悪の造物主の作品だとは、私は思わない。地球を創造したのは真の神だ。しかし、後から飛来した未熟で歪んだ神が、この地球を乗っ取って、創造主の仮面を被り牛耳っている。最後のドンデン返しの時まで、世の中の9分9厘は、偽せの神や間に合わせの神が支配する、偽せや間に合わせの仕組みなのだと、私は思っている。その騙しと罠の仕組みの中で修行するのが、我々の試練であり、宇宙浄化の雛形としての地球の役割りなのだ。
2008.10.23 『“その後”の黄泉比良坂の歌 ~ 私の「鬼束ちひろ」評 ~ 』http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-13.html より。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ mixiから紀行文の部分を移籍したのが、このブログのスタート。 主に神社仏閣、霊場、スピリチュアル、歴史関係の随筆や論稿を、ここに整理していきます。紀行スタイルが多くなると思います。 執筆は後の時点での回想であり、実際に当地におもむいた日時よりは後になりますが、今後、現地探訪の日付けに統一していく予定です。

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